大東亜戦争 近衛文麿の南進政策と陸軍

 シナ事変の泥沼化は、陸軍参謀本部が、英国、米国の蒋介石国民党支援を重大な、解消困難な障害と認識しない失策から起こった。

 

 もうひとつの原因は、蒋介石国民党内部に、当時国民党に比べて劣勢だった共産党のスパイが国民党に入り込んで、日本軍と国民党を衝突させて、国民党を消耗させるために、あえて、国民党傘下の部隊を、しばしば、蒋介石の命令を逸脱する形で日本軍に攻撃を仕掛けて挑発した。

 

 こうした共産党の戦術を日本が把握せず、仕組まれた国民党との紛争に応戦しながらも、屈服させる事に拘泥ぢて、中国に本格的に侵攻した。

 

 これを、朝日新聞の尾崎秀実らに、世論を誘導され、はめられた。

 近衛自身、生来の英米嫌いから、尾崎に乗せられたのか、本人が意図的な共産主義者だったかは、今となっては不明だが、近衛自身が、陸軍のレールを作ったのであって、陸軍に強要されたのではないことは確かだ。

 

 さらに、日本国内では、日本の武力を中国国民党に向けて、ソ連および中国共産党を安全にする意図を秘めて、表向きは、蒋介石国民党許すまじ、などと言って朝日新聞の記者らが世論を誘導した。

 

 英国・米国は「いわゆる援蒋ルート」と呼称される経路で、国民党を支援した。

 イギリス領の香港を経由する経路。

 フランス領のベトナム経由

 イギリス領のビルマ経由の三ルートである。

 

 日本はまず、ドイツに占領されて弱体化したフランスの「フランス領インドシナ総督の了解」をとりつけて、ベトナムを占領して、ベトナムルートを遮断。

 フランスのビシー政権は日本との交渉を行った総督を更迭したが、改めて8月末、ビシー政権の駐日フランス大使との間でフランス領インドシナへの日本進駐の合意がなされた。

 

 次に香港、ビルマからの援蒋ルート遮断のため、香港、ビルマに侵攻するが、ここで中国国民党と講和するための香港・ビルマ遮断は英国軍とぶつかるという負担を引き受ける展開を意味することになった。

 

 日独同盟が本格化すると、アメリカは日本への石油油種を停止。

 石油を止められた日本はオランダ領インドネシアの石油を確保しようとするが、オランダも敵に回すことになる。

 

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 1936年8月7日 広田弘毅内閣で初めて南進論が本格化

 1940年6月、英国、フランスがドイツに対して弱体化したのをみさだめて、陸軍省武藤章と企画院に鈴木禎一が武力南進案を準備。

 

 7月27日には、大本営政府連絡会議で武力南進。ベトナム北部進駐を決定

 

 1940年9月 フランス領北部インドシナ(現ベトナム北部へ進駐)

 

 1941年6月

ドイツがソ連の侵攻したのを知って、日本の親ソ派は、社会主義ソ連を守ってあげるために、「英米戦争を辞さない旨、日本の政策決定を再確認。」

 

 この時、松岡洋右ソ連攻撃を主張するが、親ソ派の近衛は松岡を更迭。

 近衛は松岡を日独協調には、利用し、松岡が対ソ連戦を主張すると切り捨てた。※松岡もまた、かなりけったいな人物で、当初は親ロシア派。ここに至ってソ連攻撃に転じた。

 また、日独提携も当初はドイツとの提携に反対していたが、やがてアメリカに対する牽制には、日独提携は有効と考えるようになったが、かえって、英米の反発を買った。

 

 近衛は松岡を排除して第三次近衛内閣を組閣して、南進論を確認して、対英米対決へ歩を進める。(現在のベトナム南部は、北部よりもさらに援蒋ルート遮断に都合がよかった)

 ただし、近衛自身が確信犯の親ソ反英米なのか、尾崎秀実に操られた大馬鹿なのか、非常に判断が難しい。

 

 また、尾崎だけが、アメリカが日本の南部仏印進出を侵略の深化とみなすと知っていて、近衛は甘かったのか、近衛も腹の中で、アメリカが強硬反応するのを実はわかっていてとぼけていたのかも、謎。

 ※近衛が旧摂家出身であることから、警視庁特高部の遠慮が働いて捜査から漏れれば、捜査自体していないのだから、証拠は状況証拠しかないことになり、どこまで言っても断定しがたい。

 

 この後に、南部フランス領インドシナへ(現在のベトナム南部)の進駐を敢行して、ここで、アメリカの石油対日輸出停止となる。これは、英米戦辞さずの行動で、アメリカの反応は予想通りだった。アメリカは南ベトナム占領は、日本のさらなる太平洋方面占領の足がかりと判断した。

 

 通説では、アメリカの反応は「予想外だった」としている場合が多いが、近衛内閣は、ソ連攻撃案を排除して、南進論を確認した時点で、「英米戦争を辞さず」としていたから、「予想外」のはずがない。(もしくはよほどの馬鹿だったか)

 

天皇退位論の源流 東大総長クリスチャン南原繁

立花隆批判「天皇と東大」と朝日新聞の戦後

 立花隆の日本戦前戦中史にどこかピントがずれたところがあるのは、戦後、全面講和論を主張した南原繁の戦争観を無批判に信じている事も要因になっている。

 

 南原繁の考えていた日本の戦争の原因は、「日本人全体が精神的に独立していなかったことにある」というものだった、そんな事を言い出したら、戦後70年も経った今でもオルテガの説く「大衆の反逆」のような「専門人」、専門のことしか知らない、人間としての深みのある省察とは無縁な大衆なのが、日本人であり、中国人、アメリカ人、フランス人が特別自立しているということもないだろうし、ましてや韓国人などはひどいものなので、戦前特有の問題でもなんでもない。

 第一次世界大戦には、知らぬふりして、すっかり脇にのけて、日本の戦争の原因は、日本人の精神の独立性・・・すなわち天皇への依存を含意、とするのが、南原繁の魂胆。

 

 ヨーロッパ人は日本人とちがって、ルネサンス宗教改革で、精神的に自立したというのだ。

 それならば、第一次世界大戦を起こしたのは、自立した個人たちということになって、矛盾極まりないではないか。

 

 さすが吉田茂首相が名指しで「、曲学阿世の徒」と南原繁を非難しただけあって、つじつまのあわないへりくつを言っているのだが、立花隆をこれを褒めているのである。

 

 この南原の演説は、昭和21年2月21日に行われた。

 そのときの朝日新聞の記事がまた、ふるっている。

 南原繁の、「戦争の原因は、国民の人間性が確立していなかったことが原因」という発言を受けて、朝日新聞は見出しに

「起て、人間性の確立へ」 

満州事変以来軍国主義者達に災いされ、シナ事変、太平洋戦争と展開して今日の状態に置かれるようになったが、これ必ずしも一部の者によってゆがめられたばかりでなく、国民自身の主観に誤りがあったためである。」

 あきれるほどに、いけずうずうしいではないか。シナ事変で「許すまじ!国民党」と、国民を煽り立てたのは、朝日新聞自身だったのに、この言い草である。

 

 南原繁の演説は典型的な空理空論でありながらも、その演説に戦後から今日に長く続く日本的左翼の思想の原型が闡明されていた。

 「国民は国民たると同時に世界市民を形成する」という一語がそれ。

 「戦後民主主義者のぼくら」だの戦後民主主義者の「わたしたちは殺されもせず殺しもせずきました」と言うある種の市民主義者の多用する「世界市民としての自覚」「地球市民」というのは、この南原繁の昭和21年2月21日の演説に始まる。

 

 「新日本文化の創造と道義国家日本に建設」とも南原は言っているので、これなどは、自民党政権安倍内閣防衛大臣稲田朋美が、2017年から「道義国家」と言い始めているから、いつのまにか、南原の言は保守政治家にまでひきつがれていることになる。

 

 次いで4月29日にも南原は演説してそれをまた朝日新聞は持ち上げているのだが、南原はそこで「天皇に法的責任はないが、道徳的責任は感じておられるだろう、と遠回しに退位をほのめかしているのである。

 

 これに朝日はこう書いた。

 「道徳的に責任あり

 拝察される陛下の苦悩」

 

 立花隆によると、「天皇と東大」350ページ

実際、南原繁安部能成のふたりは、当時しきりに天皇退位を周囲に語り、また、ご進講の時に直接進言しようかと言っていたという。

 

 立花隆天皇が自ら退位することが「国民と天皇の信頼を回復することだというとんでもないへりくつを言う。

 

 南原は、おそろしく腹黒いか、よほどの馬鹿で天皇の退位を本気で「信頼回復」の意味と、思っていたか、あるいは、きれい事を並べて退位、皇室全廃を狙っていたかどちらかである。

 

 354ページ

「権力は道徳に優越しないということを示さなくてはいけません」

 つまりどういう意味かというと、天皇という最高権力と言えども、道徳が優先するから、悪いことをしたと思うなら、退位しろ」という意味である。

 

 立花隆が引用する南原回顧録の最後の言葉は、おそらく立花隆自身の思いでもあるだろう。

 (360ページ)「この空襲が、私が法学部長として、東京帝国大学の法学部は(その卒業生は)どう動くべきか、非公式にせよ、なんらかなすべきことはありはしないかという確信を深めさせたひとつの出来事でした。」

 ばかばかしい。現在も、あきれた事に法曹界、各界で皇室継承問題で、女系天皇導入から、人権の観点からの退位自由の取り入れまで、なんとか国民の納得する形で、気がつけば皇室消失という状態にもっていこうと画策する知識人、国会議員が引きも切らない。

 

 英国王室があるからと言って英国人が戦争好きだというわけではない以上、日本の皇室も特段戦争の原因ではあるまいと考える向きには不思議でしかたがないほど、皇室が消失するよう、なくなるよう、動いている人は少なくない。

 

 その原点は安部能成南原繁から、立花隆に引き継がれているのである。

  

 南原繁は戦後最初の東京大学総長になった人物で、戦時中は法学部教授だった。南原は終戦時には、法学部長だった。戦時体制下で、うまく生き残ってきた人物である。

 大学が、学徒出陣という戦時体制に組み込まれていることに反対の気持ちを持っていた、と南原が言うのであるが、「なぜ教授から学部長」に地位昇進することを辞退しなかったのだろうか。

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韓国ハンギョレ新聞 日本軍のコンドーム展示の滑稽

japan.hani.co.kr

 韓国のマスコミや日本の親韓左翼山口二郎などは、最近、日本には、慰安婦の存在を否定する勢力がいる、などという低レベルのデマを流しはじめている。

 

 サックの「突撃一番」の文句は、日本軍が太平洋戦争期間に朝鮮人女性などを強制的に連れて行き性奴隷にした慰安所を、組織的に運営した事実を裏付けている。

 とハンギョレ新聞は書く。アホか。どういう思考をしているんだ。

 まず、事実は、だまし、甘言を弄して連れて行ったのは、朝鮮人性風俗業者である。

 そして、娘を家計の足しに、悲惨な境遇に向けて旅立たせた、朝鮮の親の罪は重い。

 その上で、日本軍将兵の中に、きまじめに戦争に取り組む事無く、時に女遊びにうつつを抜かした者があったことを責めればいい。

 まず、朝鮮人の残酷を反省せよ。

 

 そして、こんな問題よりも、韓国人は、保導連盟事件済州島4・3事件を忘れるな、米軍基地村の女性蔑視の史実を忘れるな、と私たちはしっかりと胸に刻まなければならない。

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大東亜戦争の学者たち 河合栄治郎と蓑田胸喜

大東亜戦争の学者たち

  私たちは現在の知見では、孫文の妻と蒋介石の妻が姉妹だったこと、その姉妹の弟と父は当時のアメリカの有数の華僑財閥宋ファミリーで、宋ファミリーはアメリカの議会に中国国民党を支援させる方向でロビー活動をするだけの力量を持っていたことを知っているが、戦時中の陸軍も、東京大学の教授、そして大方の日本のジャーナリストも、そうした背景を知らずに国策の賛否を侃々諤々語っていたと思われる。

  それだけテレビもインターネットも無い、情報疎通の劣悪な環境の中での試行錯誤だった。また、当時の時代状況では、国際関係学、地政学を知悉する知識人は,極東の,帝国大学創立後の歴史も浅い日本では、まだ皆無に等しかったという事も、冷徹な日本不利の分析を、潤沢、かつ早めに提示することがかなわなかった、という悲劇もあった。

 

 企画院や軍の分析班がシミュレーションで日本敗北を予想しても、それが国民一般に知らされるようなマスコミの普及という条件も無かった。

 日中戦争前後、思想上の暗闘を繰り広げていた知識人として、代表的な大学教授としては、河合栄治郎、箕田胸喜。大内兵衛平泉澄きよしなどが特に目立つ活動をしている。

  河合栄治郎なども典型的に、圧倒的に不足する国際関係学の経験不足を押して、手探りで政府批判をしている。今なら、新聞の投書欄に一般人が書きそうなレベルの低い政治情勢論を、当代最高のインテリのつもりで書いているのである。河合は1934年に出版した「ファシズム批判」に、「アジア諸国は独立を回復することを熱望することは確かである。しかし、日本の力を借りることには賛成しない。英米を排して日本を代わりに引き込むよりは、むしろ彼らは英米をえらぶだろう。」と書いた。

 

 むちゃくちゃな主張である。これでは、植民地解放戦争の論理を破れるはずがない。

 当代最高の知識人という地位の幻想におぼれたおごりがこういう馬鹿げた文章を発表させたのだろうか。

 

 独立をなぜ熱望するのか。熱望するとすれば、英米・フランスの支配が過酷だからではないのか。事実、フィリピンでは、アメリカ軍がゲリラ弾圧の過程で民間人20万人を餓死させてしまった、とアメリカは、戦後痛恨の調査結果を出した。

 にもかかわらず、日本に扶けてもらうくらいなら、米英をアジアは選ぶだろう、などとピントのはずれたことを言う。

 今なら、アジアの植民地など、英米に勝てるならともかく、いい話をするな、いかに植民地の人々が呻吟しようと、彼らは彼らにまかせておけ。日本人は満州五族協和に専念して、ロシアの南下の脅威から北東アジア諸民族と日本人を守るべきだとでも言うのが正しい。

  だが、河合栄治郎は、被植民地のアジア人は、日本よりも英米につくなどというくだらない論理を主張して、日中戦争肯定論者をいらだたせただけで、河合栄治郎の思想は、ソ連満州侵攻の危険性にはその洞察力はとどかなかったのである。

 社会民主主義者の河合にかみつき、マルクス主義の学者には、もっと凶暴にかみついたのが箕田胸喜という反共産主義の闘士だが、箕田胸喜もまた、河合同様、そもそも、当時の日本に英米自由主義思想の神髄を学べるだけの盛んな留学環境も、英書。米書の輸入は豊かだと言えない中での奮闘をして、反共と皇国思想にすがった。

 ※ただし、蓑田の皇国思想は当時としてそう狂ったものではない。平泉澄きよしの皇国思想は故意かと疑われるほど、大仰で、きちがいじみた皇国思想だった。

 

 簑田胸喜は、なけなしの研究環境で、それでも、ソ連全体主義と革命の非人間性、道徳の破壊に気づいて、必至で、満州事変その反ソ連を意識しての戦略の正しさを理解しない意見を言う者を目の敵にした。

 

 箕田のソ連共産主義への危機意識は東京大学京都大学に蔓延するマルクス主義系の経済、法律、の勢力のあまりの多さ、そしてそこから、ジャーナリスト、労働組合、政府官僚に共産主義者が入っていくことへのいたたまれなさから、そうぞうしいまでのアカ狩りに狂奔するが、それは、黒沢明の映画作品「生きものの記録」の主人公の老人が、核戦争の予想をひしひしと感じて、脂汗を流しながら、財産を売り払って家族皆で引っ越そうと言い出すと、家族からお父さんは頭がおかしくなったのだろうか、とかわいそうになるほど、必死なものだった。

 箕田胸喜の反ソ連、反共産主義は、戦後、マルキスト戦後民主主義者の評論家に憎悪と侮蔑を持って回想されたが、箕田胸喜を批判できるのは、日本が一党独裁国家の共産主義国家になったことがないからにすぎない。

 箕田胸喜の心配そのものは正しかったのである。

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「民進党の源流」 2

民進党の源流」の文章の続き

 日本左翼・革新勢力の成り立ち

 

 前回は平野義太郎が戦後、担った平和運動の意味を書いたが、林房雄は、「大東亜戦争肯定論」を1963年から、中央公論に連載し始めた。

 

 「大東亜戦争肯定論は、一般的に林房雄が、平和主義の共産主義に決別して、戦争という絶対悪を肯定するとんでもない主張に至った、保守反動の悪書とされ、その「大東亜戦争」は、15年戦争のことで、林房雄侵略戦争である「15年戦争」(アジア・太平洋戦争)を肯定したのだ、とされる。」

 

 出版当時、進歩的文化人、左翼側からする林房雄批判がこの解釈にたって、悲惨な戦争を正当化するなんてとんでもない、あの戦争は中国への侵略であり、その侵略暴走を民主主義に先んじたアメリカに制裁されたのだ、と批判した。

 

 ところが、これ、とぼけた猿芝居か、阿呆同士の喧嘩なのである。

 

 保坂正康、池田信夫などは、「大東亜戦争肯定論」すなわち、英米に対して日本にも戦争の正当性、言い分はあるという主張として、もっとも優れているとする。

 

 茶番である。

 

 林房雄大東亜戦争肯定論は、平和主義の日本共産党日本社会党に反するのが、特徴なのではない。もともと平和主義なのではない、マルクス・レーニン主義帝国主義列強の植民地支配否定、これそのものである。平和主義という戦後日本型の通俗左翼平和主義から、左翼の原点たる「欧米列強のアジア支配」批判の原点に返った左翼本なのである。

 

 これがなぜ、一般的には革新勢力社会党共産党のブレーンの知識人に嫌われたかというと、ソ連、中国の安全保障に寄与する日本の平和運動が、やっているうちに庶民受けして味を占めて、絶対平和党のことを共産党社会党というかのようなめちゃくちゃひどい、病的錯覚に陥ってしまったからである。

 

 この絶対平和観念は、日清、日露、朝鮮戦争ベトナム戦争、中国。ベトナム戦争のそれぞれの原因、意味などどうでもよくなり、日本の関わった戦争は全部侵略と解する強い傾向を生むもとになった。

 

 一方、日本共産党は元来、双面のヤヌスのごとき戦争論を抱えている。

 ひとつは、日本を憎悪するソ連の視点を取り入れた場合の、日清、日露その他すべては、日本の侵略という説明である。

 そしてもうひとつが、ソ連が冷戦以後、アメリカ軍事力を憎悪した場合のアメリカ建国以来のアジア太平洋侵略という視点を取り入れた場合には、上記の見方が一気にオセロゲームように、反転して、すべての日本の戦争は英米アジア侵略への抵抗戦争ということになる。

 

 なんのことはない、どちらも一面の真実であり、その真実の由来は、ロシアマルクス主義帝国主義批判から来ていることに変わりはない。

 米国との協調を主張する知識人とそれを支持する国民を愚民、ポチ、ジャパ公と罵倒する小林よしのり西部邁西尾幹二新右翼一水会、馬淵睦夫らが時に左翼と解される場合があるのは、反米国際金融資本、グローバリズム批判が元々レーニンソ連のアメリカ批判と基本的に同じ論理構造を持っているからである。

 

 以上の論拠の参考となる資料が、戦後平和運動の旗手、平野義太郎の戦前コミュストとしての米英観である。

 ※ 日本共産党は戦後平和運動の旗手、平野義太郎を、戦時中も節を曲げることが無かった、とする。

以下の文を立花隆は、戦争日本への迎合だと勘違いして解釈している。

 そうではない。これは、戦争日本への迎合ではなく、ソ連帝国主義アメリカに対する憎悪を暗に、代弁しているのである。

 平山義太郎の昭和19年「民族政治の基本問題」

 「大東亜戦争の戦争目的は、第一にわが帝国の自存自衛のためであり、第二に東亜の安定を確保することであり、そして究竟において世界各国がそのところを得、相寄り相扶けて、万邦共栄の楽をともにせんとするに在る。

 米英のかくのごとき道義に反する所行に対しては、断固としてこれを懲らしめ、これを反省せしめて、大東亜もまた、敵米英も、各々本来あるべき所に立ち戻らせることが道義の要請であって、大東亜戦争こそ、正にこのための東洋道義の戦なのであり、又、大東亜をして米英植民地隷属から解放せしめなばやまぬ独立戦争なのである。

 

 林房雄の「大東亜戦争肯定論」も平野の「民族政治の基本問題」も、反平和、反人類の侵略肯定思想だと考えるのは、中国、ソ連北朝鮮は被害者で、日本民族、日本支配層の侵略性という悪性の意思は、中国、朝鮮との連帯しての平和運動で対抗するしかない、という逆立ちした世界観が、共産主義者林房雄と平野の文章の真意を見抜く事を困難にさせているのである。

 

 既得権を手放すまいとする層があるとすれば、既成秩序を転覆して新たな、そして強力な支配体制を作ろうとする試みが、民族解放を偽装した共産主義侵略者の常套手段であった。

 

 

 この平山のソ連共産党米帝国主義憎悪の代弁論を1963年になって、再度変奏したのが、林房雄大東亜戦争肯定論」である。

 韓国の悲劇は「被害者史観」という過てる歴史観にはまり込んで抜け出せないことだが、日本にも深い悲劇がある。

 日本人もまた、一定の正しい自国の歴史を持っていない。それどころか、あまりにも、まことしやかな歴史観が、四つも五つも併存して、収束もままならないのが、日本人の歴史なのだ。

 1.侵略は明治維新以来

 2.侵略は日露戦争を含めず、それ以後

 3.大東亜戦争とは、アジア・太平洋地域への侵略の過程だから、満州事変を起点とする「14年戦争」または「アジア・太平洋戦争」と呼称すべき

 4.大東亜戦争は、ペリー以来の日本侵略と英国フランスなどの列強本意の植民地帝国の過酷な平和への異議申し立ての戦争。

 5.満州事変は日清日露の枠内に含まれるロシア南下防御戦争であり、日中戦争から、対英米戦争までが、大東亜戦争で、ソ連満州樺太、朝鮮侵攻は、共産主義覇権国家の侵略。

 と、以上の異なる解釈に接しては、新参の日本の歴史考察に赴くものとして、頭がおかしくなる思いをしないでいられようか。

 

 この日本人の歴史観の悲劇は、敗戦がもたらしたものではない。

 なぜなら、戦前戦中の東京大学の中には、マルクス主義経済学国家社会主義計画経済の学の二つが主流だったのであり、日本の思想混迷は、敗戦前から継続しているのである。

 

 

 

 

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崔昌華の一円訴訟 韓国人がでっちあげた人権問題。

現在、マスコミで、韓国人の名前を読む時、現地語に近い読み方をしている。

韓国でも、日本人の名は、日本語の読み方に近い読みにしているそうだよ。

そもそも、漢字を読める人が少ないということもあってそうしたらしい。

 ところで、現在のようになるまでに、変わった経緯として、在日大韓基督教白銀教会の牧師をしていた崔昌華氏が、わしの名は「さいしょうか」ではない、と言って一円訴訟をしたのが影響しているといわれているそうだ。

 この在日韓国人の起こした裁判は、以下のようになった。

  1988年最高裁は『人は他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有する』

在日韓国人の氏名を日本語読みによって呼称する慣用的な方法が是認されていた社会的状況の下では違法とはいえない』 損害賠償請求裁判は敗訴となった。

 

 だが、これはこの韓国人の被害妄想から、最高裁まで行く騒ぎになったのである。

 日本人だって、九十九という名字の人が、くじゅうくさん、と別件で裁判所で呼ばれたら、いえ、私の名は、つくもです、あっそうか、失礼、で終わりだろう。

 

 御手洗(みたらい)という名字があるが、これも、おてあらいさん、と呼ばれたら、裁判起こすか?

 現在、韓国語読みに近い、カタカナをあてて読む慣行が定着しつつあるのは、日韓関係が貿易、文化、観光面で密になって、ああ、この漢字はこう読むんだな、という人が増えてきたのが、前提で、人権問題でもなんでもない。

 

 読めないから、崔昌華は、さいしょうかで、いいかな?くらいにしか考えなかったのが人権侵害だとうなら、九十九をくじゅうくと読むのも、人権侵害になってしまう。

 

 わたしは、むしろ、現地読みが可能なら、現地読みでいいと思う。

 というのは、朝鮮日報の記者には、

韓三熙(ハン・サムヒ)

姜天錫(カン・チョンソク)という人がいる。

これ、日本語読みで読めるか?「かんさんぴ」「かんさんき」なのか、迷うだろう。

姜天錫も、「きょうてん」までは、無理に読めるが、「錫」の字、なんと読むかわかるまい。実際は、韓国人の名前、日本語読みの不可能な日本人にとって、見たことのない漢字もかなり多いのだ。

 

 そうかといって、韓国語読みもわかるはずがない。

 結局は、無理矢理、てきとー読みするか、現地語の読み方を知っているひとに聞いて、韓三熙(ハン・サムヒ)をハン・サンヒ、となるべく、現地語に近づけるのが合理的で、少なくとも、デタラメ読みにはならない。

 

 その前提に、韓国語を解する人間が国内に非常に多くなったということがある。

 そういう便宜の問題にしかすぎないものを意固地な韓国人が、人権問題に仕立てたのが、崔昌華の一円訴訟なるもので、さいしょうか、チェ・チャンファは、人権問題を日本に問題提起したつもりになって大まじめになっていたのである。

 

 ちなみに、崔だって、現地読みでは、チォエチャンホアらしい。しかし、冗談じゃない、そこまで、正確に発音しろと言われても、無理。そこで、なるべく近い読みで、チェ・チャンファと読む場合もあるだろう。少なくとも、通訳から読み方を聞く機会のあるマスコミは。そして、マスコミが言っているのを聞いた日本人は、ああ、そうか、「朴」は、パクなのか、とわかっていくわけだ。人権問題でもなんでもない。

 

 外国語の知識の問題なのだ。それを韓国人の変わり者が人権問題にする。

 

韓国の朝日新聞、ハンギョレのTHHAD拒絶の論理

[コラム]“安保の絶壁”に直面した韓国経済 : 社説・コラム : ハンギョレ

ハンギョレはTHHADの韓国配備について、以下のように書いている。

米国は2年前まで「同盟国(韓国)防御」に必要だと主張していたが、反対世論が続くといつの間にか「在韓米軍防御」のために必要だとして韓国を圧迫した。そして、配備の時期も「年内」から「今年前半期」に操り上げ、既に一部の装備は搬入した。韓国の新政権がスタートする前に混乱に乗じて先占するという態度だ。反米感情を刺激しかねないことが分かっていながら、米国はゴリ押ししている。

 

 「韓国防御」のためではなく、「在韓米軍防御」のため、だから「ゴリ押し」だというのだ。ハンギョレは韓国国民をだましているか、本当に間抜けかどちらかなのだろう。ちょうど、朝日新聞みたいに。

 

 在韓米軍防御のため、で何が悪い。在韓米軍にミサイルを撃ち込まれたら、韓国を守る反撃能力が失われるではないか。

 やはり、ハンギョレは韓国を中国、北朝鮮の傘下に収めてほしいんだなあ。

 

 

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