在日本大韓民国民団神奈川支部議長の慰安婦20万人説否定論

統一日報 : 【投稿】 「慰安婦問題」と今後の韓日関係 韓国大統領候補者の「認識」を問う

http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=82590&thread=01

統一日報2017年4月6日付け電子版に、在日本大韓民国民団神奈川支部議長

 朴容正氏が慰安婦20万人強制連行説は間違いだと、主張している。

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 実は元朝日新聞の植村隆記者は、ハンギョレ新聞インタビューでも、産経新聞インタビューでも、明確に「強制連行」を否定しています。

 しかし、植村隆氏のおかしなところは、「私の見方は韓国のマスコミとは違います」と明言しないこと。朴容正氏のように、もっともっとはっきり、韓国人の多数意見と私はちがいますよ、と吉見義明も朝日新聞も明言すべきです。

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北朝鮮擁護の民進党、共産党の源流

1973年昭和48年 日本共産党系のジャーナリストで元毎日新聞記者の千田夏光が「慰安婦」の写真を見て、「従軍慰安婦」という名称を造語して、「従軍慰安婦 正編」を上梓。

同年「従軍慰安婦声なき女8万人の告発」を上梓。

 この中で、「挺身隊の名のもとに彼女らは集められたのである。総計20万人が集められたうち「慰安婦」にされたのは「5万人ないし7万人」とされている」という記述が、その後の韓国の20万人強制連行説の根拠になっているのではないか、と推測されている。

 

 在日朝鮮人運動史研究家の金英達氏が、この千田夏光の説の根拠を調査したところ、1970年8月14日付けソウル新聞に

「1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5万人ないし7万人と推定されている」とあるのを

 「挺身隊(勤労動員)は、韓国女性については5万人ないし7万人」というソウル新聞の記述を、誤読あるいは故意に改ざんして、「慰安婦」にされたのは「5万人ないし7万人」と、改変したのではないか、と論じた。(高崎宗司氏による)

 

 ここには、四つの問題がある。

  • 「挺身隊に行くんだよ」と朝鮮の性風俗業の業者がだます時に「挺身隊」という名を利用したということなのか、「日本国政府」あるいは「日本軍」が、意図的に「挺身隊」と称して慰安婦を集めたのか、どちらとも解釈可能な記述であり、事実、多くの日本軍国主義に批判的な立場からは、後者の日本が意図的に挺身隊というきれいな名前を使って女性を集めて、実態は性的職業に強制的に就かせていたというふうに解釈した。
  • もうひとつは、当時、日本人であった半島の朝鮮系の人々に対して政府が徴用することを「強制連行」と解釈する強い思考慣行が韓国人に定着していることで、そのために、政府の徴用は「工場労働」でも「強制連行」という前提と「慰安婦」という当時の軍隊付属の「娯楽施設としての性風俗」の強制性が混同されがちだという事である。
  • さらに、戦後の平和ぼけ、貧しさが消え去った時代になっての考察ゆえに、当時の貧困社会では、性風俗で暮らしを立てる女性、またそうした女性の収入に頼る貧困家族が非常に多かったことがイメージしがたいために、売春することは、「強制されたもの」という解釈が先行しがちだという問題がある。
  • また、この問題は、第一次世界大戦において欧州各国で女性が戦場、あるいは駐屯地で戦時性犯罪の犠牲になったことを知らない場合には、日本軍の慰安婦制度は、極悪非道な貧困女性に対する人権毀損の行為と解釈されることになるが、上記事実を知っている場合には、日本軍の現地女性に対する配慮を、当時の性風俗従事者の力を借りて為したものと解せられるという問題がある。

 

 

※この問題は、日本の山口二郎法政大学教授によって、しきりに「慰安婦そのものを否定する暴論」という言い方で批判されてきた。しかし、こうした批判もまた、問題を複雑化する粗雑なものいいである。

 金銭を得ていた民間業者による管理売春を日本軍が誘致していたという事を否定する者はいない。また、この「慰安婦制度」とはまったく別に「軍法違反」の性犯罪行為があったことも事実なのである。

 問題は、大規模で組織的な国家意思として、

  • 「金銭支払いのない強制的な性的労働」を行っていたか、
  • 連れてきたのは、日本軍か、朝鮮人
  • 大部分が朝鮮人業者による「だまし」で、一部分が親の合意を得ていたのか

それとも、大部分が本人の合意による「嫌な仕事だが、貧しい境遇ゆえに甘受した仕事だったのか

  • そうではなく、トラックに無理矢理乗せられ、奴隷狩りのように集められたのか
  • 年齢は15歳から18歳の少女が大部分なのか、それとも、現在の性風俗と同様、まれに少女が紛れ込んでいたのか、どちらなのか

こうした問題がはっきりしないまま一人歩きして、勝手な解釈が横行しているのが現状であり、今後もそうであろう。

 

 千田夏光が「従軍慰安婦声なき女8万人の告発」を上梓した1973年とは、韓国では、朴正熙政権時代であり、日本では、反共産主義の側は韓国を支援し、社会党共産党北朝鮮を支援していた時代であった。

 また、在日社会では、朝鮮総連北朝鮮の正しさを主張し、韓国民団は韓国の正しさを主張して対立していた。

 そうした背景の中でこの「従軍慰安婦声なき女8万人の告発」は、日本共産党の正当性の宣伝情報という意味を担っていた。

 というのは、日本共産党は、少なくとも一般国民向けには、「戦前戦時中に「平和を求めていた唯一の政党だ」と主張していたのだから、日本軍の戦争悪が露骨に白日のもとに明らかになって、なんら自存自衛とか、東南アジアの植民地解放に役に立った」などの正当化などできるような代物ではなく、残酷無残、卑劣非道なものであったことがわかればわかるほど、日本共産党の「平和主義」の正しさが証明されるからである。

 

 ※ただし、この日本共産党の「平和主義」なるもの自体、ウソなのである。

 というのは、当時日本共産党の最上層幹部は、国民に平和を訴えることによって、戦争に協力する日本人の数を極力少なくするように仕向けて、結果的に日本政府をして敗北せしめて、その敗北した日本政府に対して、革命軍による内戦を仕掛ける、という意味の「敗北させるための平和論」だったことを「徳田球一が証言しているからである。

 

 この「敗北させて内戦を仕掛ける」そのための平和運動をした事実を「何事もないおだやかないつもと同じ暮らしの平和」とすり替えたのが、日本共産党プロパガンダ「平和主義」である。

 これは、「資本主義体制」が続くかぎり、格差と貧困もまた、続くのである以上、「平和」とは、「資本主義社会」の維持継続でもあるのだから、日本共産党が「絶対平和主義」を目標とするのが自己矛盾であることに気づけばわかりやすい道理なのだが、日本共産党は、政治革命のためには、社会秩序の大混乱の状態がきっかけになるという大原則を国民にひた隠しにすることに成功して、あたかも、日本共産党とは、「体制転覆。資本主義破壊の政党ではなく、戦争を抑止することこそ政党としての最高目標であるかのように国民をだまくらかすことに成功したといえる。またそれだけひどい愚民を相手にする政党が日本共産党の本質でもある。

 

 1963年昭和38年の週刊朝日の公募「私の8月15日」の佳作入選した吉田清治はそこに「慰安婦」のことはなにも書かなかったが、10年後、千田夏光の「従軍慰安婦」造語を耳にして後、1977年、「朝鮮人慰安婦と日本人」を書いて、著述業への足がかりをつけようとしている。

 ここでも、その内容は、在日朝鮮人の集落の女性が慰安婦に就業する女性を紹介するという内容であって、強制連行の物語を吉田はまだ思いついていなかった。

 やがて、その5年後、1982年になって戦争時代の思い出話の講演の中で、刺激的な話を思いついて、トラックに無理矢理奴隷狩りにのようにして、朝鮮女性を狩り出したというふうに、講演で吹聴しだしたことから、これを朝日新聞大阪版がとりあげて、吉田は新聞に取り上げられたことに味をしめたか、このトラックに無理矢理奴隷狩りにのようにして、朝鮮女性を狩り出した話を本にまとめて翌1983年に出版した。

 その翌年、1984年には、朝日新聞松井やよりが11月2日、夕刊紙上に「8万人とも10万人とも言われる従軍慰安婦の多くは、生きて帰れなかった。」と根拠不明の記述をしている。また、「日本人巡査が、殴る蹴るして、車に押し込んで慰安所に連れて行った」とこれまた、証拠不明の放言をなして、その後の慰安婦問題の混乱に拍車をかけた。

 

 ちょうど同じ頃、満州から渡日した在日朝鮮人民族主義活動家の宋斗会とともに活動していた大分県在住の青柳敦子が、「朝鮮人に公式謝罪を求める運動を朝日ジャーナルを通じて始める。これが1989年5月。

 1989年8月には、吉田清治の「私の戦争犯罪」(すなわち「日本軍兵士が、朝鮮人女性を無理矢理トラックにのせて慰安所にたたき込むイメージ」が、韓国で大ベストセラーになり、韓国の脚本家、ジャーナリストのバイブルとなる。

 

 こうして、韓国マスコミで慰安婦問題が沸騰する中へ、青柳敦子と宋斗会が乗り込んで、「慰安婦裁判募集の原告募集の広告ビラ」をまいて、韓国の政治活動家慰安婦テーマの火をつけるのである。

 

 こういして翌1990年、平成2年には、親北朝鮮派のユン・チョンオク教授がフェミニズム共産主義をこきまぜて女性の人権擁護の観点から日本帝国主義の悪行を謝罪、賠償をさせるという運動を開始する。

 「韓国挺身隊問題対策協議会」英語名sexual slavery

この組織は、日本キリスト教団の資金援助により結成された。

 翌1991年には、弁護士の高木健一、福島瑞穂が韓国の元慰安婦を日本によんで、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償」訴訟を起こす。

 1974年の北朝鮮における金正日権力継承、1983年、ビルマラングーンの韓国要人爆殺テロ、1987年の大韓航空爆破テロ事件1989年6月の中国天安門事件、1991年12月のソ連崩壊のように、社会主義の成功例の幻想が崩落する中、日本国民、韓国国民の目をひたすら「日本帝国主義の悪」につなぎ止めて、共産主義の悪性に無関心になるよう誘導するように、必死の工作を開始したのである。

 1995年には、松井やよりが「アジア女性資料センター」、

 1998年には「戦争と女性への暴力」日本ネットワークを設立して、次代の女性、青年の問題意識をあげて資本主義国家日本の落ち度に関心を誘導して、共産主義の「全体主義」「反自由」の害毒性への考察をあげて破壊しつくした。

 2002年8月には、韓国ソウルで「軍事主義に反対する東アジア・米国・プエルトリコのネットワーク」を開催して、一貫して、学生。女性の知的関心を中国、北朝鮮の人権問題、言論抑圧、政治犯収容所問題への関心を抹消し続けた。

 

 キリスト教共産主義は水と油の関係のようではあるが、日本、韓国においては、事実上、共闘関係にある。

 1.共産主義者松井やより福島瑞穂のふたりが仕切った1992年アジア連帯会議は、ソウルのYMCA会館で行われた。

福島瑞穂は2008年の社会主義インターナショナル副議長である。

 2.松井やよりは、いささか奇妙な事に、名前の由来からして、「耶蘇に帰依する意味」の「やより」であるが、弟は日本共産党員。父親の平山照次は日本共産党系の原水爆禁止日本協議会の理事であると同時に東京山手教会の創立者でもあった。

 つまり、日本共産党キリスト教を弾圧することはないと信じ込んだクリスチャンにして共産党員だったと強く推定される。

 3.日本婦人キリスト教矯風会親北朝鮮系団体である「韓国挺身隊問題対策協議会による「水曜デモ」に資金提供をしている。

 高橋喜久江会長は、日本共産党系のジャーナリスト千田夏光の著書を韓国の親北朝鮮活動家で梨花女子大学教授のユンチョンオクに見せて憤激させている。

 また、高橋喜久江は、朝日新聞植村隆記者を公然と支援した。

 4.恵泉女学園大学の前理事長一色義子は、日本婦人キリスト教矯風会理事長も兼務していた事があり、恵泉女学園大学は、韓国の左派思想活動家のイ・ヨンチェを大学教授として厚遇して、日本のクリスチャン女性に韓国左派親北朝鮮思想の継承に努めている。

 

 現在、「差別、差別」と何かの宗教に入ったみたいに「差別反対」を叫び始めた民進党の源流、社会党北朝鮮の関係はそう単純なものではなかった。

 朝鮮戦争直後、社会党の出した見解は、「北朝鮮の韓国への侵略」というものだった。

 ところが、1974年に、社会党は「米軍侵略説」を唱え始めたのである。

 そして同時に、「朝鮮労働党」と「友党関係」を結ぶ。

 この社会党の方針転換が、辻本清美、福島瑞穂辛淑玉、有田よしふの出現を準備したと言ってよいだろう。

 辻本清美は1960年生まれだから、社会党北朝鮮との友党関係確立時に、14歳だったことになる。福島瑞穂は1955年生まれなので、社会党北朝鮮と友党になったその時、19歳である。辛淑玉は、1959年生まれである。有田よしふは、1952年生まれ。社会党が反米極左になったとき、有田は22歳だった。

 現在の民進党は「旧社会党」と「旧民社党」の集合体が基盤なのだが、そもそも、戦後1945年11月の結党したころ、すでにその中に反共の資本主義肯定者が含まれており、それが、1959年に民社党として分裂。

 民主党とは、1945年末から1959年までの約14年まで一緒だった組織が分裂して、1998年にふたたび合体した政党だと言っていい。

 

 1951年1月23日付け朝日新聞で、社会党委員長鈴木茂三郎は「再軍備反対」「非武装」を唱える。その根拠が、「日本は天然の防壁をめぐらしていて、「危機はありえない」というもであった。

 2016年に集団安保法案に関して鳥越俊太郎は、日本にどの国が侵略するというんですか、と発言したが、その発想は、すでに1951年の社会党委員長発言にはじまる。

 鳥越俊太郎は1940年生まれであるので、鳥越が11歳の時には、すでに社会党の非武装と、その理由はどこも日本に侵略しないから論が始まり、この発想が定着する時代に青年期を迎えたことになる。

 

 日本共産党では、1951年に非常に奇妙な出来事が起きた事を私たちは肝に銘じて覚えておいたほうがいい。

 ソ連と一体の国際共産主義コミンフォルムが、日本共産党の「アメリカ占領軍」に対する解放軍規定を非難。武装闘争をしろ、と非難するが、これに宮本顕治が従おうとし、徳田球一は反発するのであるが、事態は意外な方向に進展する。

 中国の人民日報が徳田球一を批判したとたん、徳田球一は一転、武装闘争を決意して、中国に亡命したうえで、日本共産党の武装闘争を指揮しようとするが、病死してしまう。

 すると、当初、武装闘争せよ、というコミンフォルムに従っていた宮本顕治は、党内ライバルが消えたとみるや、4年後、国会議員の地位確保に味をしめてか、共産党を「武装闘争を放棄したまじめな党で、武装闘争をせよ、という他国の干渉を断固としてはねつける独立独歩の党である」と奇妙奇天烈の威張り方をしはじめるのである。

 

 

 

 

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佐久間象山と大東亜戦争

佐久間象山が「国体論」を検討する段階にいたると、徳川幕府天皇守る将軍だという制度の否定まで行かなければ、「西洋に対抗しうる統一国家」になりえないと考えたようだ。

 佐久間象山がなぜ、幕府否定の思想に至ったかというと、ハリスの「日米修好通商条約案」を佐久間象山が独自に検討して、幕府に建白書を出したところ、幕府がこの建白書を拒んだため、佐久間象山は、徳川幕府に西洋列強の侵略脅威に対処する対応力なし、と判断したからだった。・・・そうだろうと思う。

 佐久間象山が西洋の考え方に恐るべきものを感じたのは、大使の「治外法権」をいきなり迫るその図々しさ図太さが西洋にあるということだったろう。

 (正直、わたし自身は、戦後日本の平和ぼけに生きているからか、治外法権がそんなに悪いことなのか、ピンと来ないが、佐久間象山の梁川星巌にあてた手紙によると、この治外法権問題に佐久間象山はカチンときたという事だ。)

 佐久間象山は考える。治外法権が必要だと、西洋が言うならば、それを受け入れるとしても、幕府が同意するだけではいけない。かならず、朝廷が条約を許可する、という手続きを踏まねばならない、と。

 ここで政治の向きは、すべて幕府がこれを行うという、徳川幕府の考え方と佐久間象山の、朝廷の勅許がかならず、必要だという発想が対立する。

 わたしが、この佐久間象山の考えにピンと来ないのは、現代が、安定的に大使の交換がなされているからで、外交関係慣行の安定的運用の無い時代では、主権がなしくずしに奪われる危険性を感じて当然だった。

 通商も、在外公館もあってもよい。ただし、それが、日本国の法の適用外だと言うのなら、それを幕府が独断で受け入れる権限はない。朝廷が勅許を出さねばならないというのだった。

 象山は、「不筋(ふすじ)の次第は、ぜひ申し伏せ候よう、これなくしては」と、言っている。

 つまり、アメリカ人の言い分にスジの通らないところがあるのなら、堂々と反論して説き伏せるようでなければ、わが国は立ち行かない、と言っている。

 おそらく、このような、議論で西洋人に勝つという発想は朝鮮にも、中国にも、夢にもない発想だったのではあるまいか。むしろ、現代日本にも無いと言ってもいいくらいだ。ある意味、大東亜戦争とは、論理で勝てない日本人の意地という側面もあったのかもしれない。

 すでにこの時点で、佐久間象山は、西洋は世界万国が一族一党のように友好貿易関係を結ぼうという理念を打ち出している事。しかし、それは、本音は、自国の利益拡張なのではないか、ととっくり、聞いてみたいものだ。

 そう聞けば、当然、アメリカは、いや、もちろん、自国の利益のためではない、「公共の道理」のための通商だ、と答えるだろう。ならば、

「次のように重ねて質問せねばならない。「公共の道理」のための通商、真に受けるわけには、いきませぬ。なぜならば、あなたがたは、唐国の人々にアヘンを売っていますよね、と。しかも、アヘン売買は、唐国の政府が禁止している事。それを守らずアヘンを売るあなた方は、なんだ。それだけではない。大砲を積んだ船まで押したて、その上でのアヘン売りつけではないか。それで公共の道理に基づく通商などと言えるのか?」

  こう、アメリカを説き伏せよ、と象山。

 「アメリカが、いや、信用してもらいたい、平和に通商したいのだ。アメリカは、武器によって、他国の領土を取った事はない。」と答えるなら、

「では、なにゆえに、6年前に、来日した時、軍艦大砲を積んできたのか。いかなる理由で、脅迫的態度に出たのか。なぜ、その時、アメリカの使節は、大胆にも、これを使えと白旗を日本に贈るなどというとんでもない図々しい事をしたのか、あの時、こちらが我慢したからよいものを、戦になって、死人が出てもおかしくなかったのだぞ。わが国が武器を持ってたちあがる事を控えたのは、民が塗炭の苦しみに落ちるのを避けたからなのだ」

 こういうアメリカに言いたい事を考えている時点は、1858年。

 イギリスのアヘン戦争は、1842年に終っている。そして、インドのセポイの叛乱などが起きていたが、佐久間象山は、イギリス、アメリカが、「たしかに、インドや清国との間に紛争はあるけれども」の言い訳のひとつもなく、「天地公共の通商」を言うのがますます胡散臭かった、という事なのだ。

 仮に、アヘンは売らないと言ったところで、武力を背景に、密売に及べば、同じだろう。

 これでは、日本人の地道な暮らしを守れない。これが、佐久間象山の考えだった。

  そして、幕府はこれを理解する器量にかけていた。

 条約を結ぶにしても、このように、説き伏せておいての交渉でなければ、相手のいいようにごまかされるだけだ、と象山。

 

  海軍軍令部総長永野修身ながのおさみ

 日米戦争の直前まで、日本もアメリカも、どちらも、ものすごい不況だった。

  ルーズベルトニューディール政策は効き目が無かった。

 日米戦争がはじまると、アメリカはみるみる景気がよくなる。

 なんでアメリカの景気は戦争中からよくなって、日本はよくならないかというと、アメリカは戦争をする前は、資源があっても、その資源で作ったものを買う人がいなかった、が、英国は、戦争をすると、アメリカの物資をアメリカから借金して、アメリカの企業に支払って、買った。それから、アメリカの企業は、社員を雇って、製品をつくり、政府に売った。これらは、アメリカ映画「われらの生涯の最良の年」に描かれている。

 アメリカは兵士が地獄の苦労をしている間、銃後の国民は、一気に幸福になった、それは戦争が終わる前から、はじまったアメリカの戦争にいかなかった国民の味わった幸福だった。

 昭和16年9月3日、政府連絡会議で海軍軍令部総長は、次のように言う。

 「日本は各方面で物資が減りつつある。逆にアメリカのほうは、増産して、強くなる一方だ。もし戦争すれば、長期になると思う。長期になれば、ますます物資が困窮する。

  王手で行く手はない。(つまり、アメリカ本土を攻撃するなんて、考えられない。できない。)国際情勢に変化でどうなるかわからない、それをあてにするしかない。

 ただ、待っているだけでは、確実にどんどん物資は減り、相手は増産する、その方向で差が広がるだけだ。」

 日本の指導者は、むちゃくちゃ、困っていた。

 3日後の会議でも、盛んに繰り返しているので、悩みに悩んでいる。

※近衛と尾崎らの共産主義者が戦争の準備をして、陸軍が引っ込みのつかない地点においあげたのである。

「外交交渉で日本の自存自衛の、やむにやまれぬ要求でさえ相手が容認しないと言うことになれば、死中に活を求めるしかない。避けることができる戦いを避けないで、あえて戦争したいというんじゃないんだ。大阪冬の陣を見たまえ、一度、和平はしたものの、外堀を埋められた後は、簡単に敗けたろう。

 いまの日本とアメリカの情勢では、待てば待つほど、確実に日本は敗ける。」

 これを聞いていた。大蔵大臣賀屋興宣は、

「このまま戦争せずに、がまんして先延ばしにしたら、どうなる?」と聞く。

 永野修身

 

「三年間、じりじり疲弊して、三年後はさらにやりにくい」

 賀屋興宣

 

「自分はアメリカのほうからは、攻撃してこないと思う。戦争はやめよう。」

 東郷茂徳外相

「わたしもアメリカのほうからは、攻撃してこないと思う。いま、戦争する必要はない。」

 永野修身

「相手が来ないでくれる、ということをアテにしてはいけない。来るかどうか、来ないでほしいが、と思いながら待てば、待った先には日本の抵抗できない弱体化した日本がある。その時には、アメリカは、大増強して、フィリピンのアメリカ軍基地周辺に敵艦を配備するだろう」と。

 とてもじゃないが、これではイケイケドンの軍国主義でもなんでもない。

 悩みに悩んでの決断だった。

 後に東郷外相は、ハルノートを見て、「何が何でも戦争はするまい、だから、どんな条件でも呑み込もうと思ったが、ハルノートを読めば読むほど、喉がつかえて、のどを通っていかない。」

 悩んでいたんだよねえ。まったく、いけいけどんの軍国日本、天皇ファシズムというには、あまりにふさわしくない悩みかただった。

 とはいえ、それが軍国日本、天皇ファシズムではなかったというだけで、日本も、いや、正確には、近衛と昭和研究会のクソ共産主義者ども、風見章が、そして、ルーズベルトも、戦争がしたかった。

 米国人も、現在の日本人が本当のところ、大東亜戦争の真因がわかりづらいのと同様、よくわからないのである。

 というのは、日本が明確な侵略意志で統一していたわけではなく、共産主義思想が、政府、マスコミ、陸軍各分野に入り込んでいたと同様、米国も、ヴェノナ文書で明らかになったように、政府中枢に入り込んだ共産主義者に戦争を誘導されつつも、自国の権益確保を考えていた者もいたから、一貫した強い意志が抽出しがたいのである。

 だからこそ、戦後、米国はルーズベルトソ連と密約した内容を議会が知らされていなかったという事実をもって激しく、ルーズベルトの行動を批判した。

 けっしてただ勝利に酔いしれていたわけではなかった。

 なぜか。近衛、尾崎秀実、風見章、昭和研究会ソ連という社会主義国家の先達と戦争したいはずもなく、憎んでいたのは、米国であり、日本資本主義だった。これは、現在の右翼も左翼も米国の国際金融資本の邪悪な世界支配と軍産複合体の儲け主義を貧乏人のために憎むのとまったく同じで、戦前も戦後も日本人の善良性は米国を憎むのである。

 あまりの同一性に驚くほどだ。

 海軍軍令部総長は、山本五十六には、万が一、交渉がうまく行ったら、すぐに引き返せよ、と念を押した。これが天皇ファシズムのやりとりといえるのか。

 敗戦後、海軍軍令部総長永野修身東京裁判の被告となり、ブラナン弁護人が弁護を引き受けた。

 ブラナン弁護人は1987年夏、死去して、その後、永野修身の未亡人永野美沙子にあてて、ブラナン弁護人の書いたメモが届けられた。

 「永野氏がアングロサクソンを生来の敵と考えたことはなかった。永野氏が、米国、英国に対しての憎しみを言動をもらしたことはけっしてなかったし、むしろ、彼は西洋人に対して個人的友好関係の感情を重んじていたのが真実だ。

 1907年のハーグ会議で、交戦開始直前に告知して、間をおかずに攻撃してもよいとされたのは事実である。だから永野海軍大将のような米国英国のような大国を相手にした場合、において、実戦司令官を指揮した責任や米国へのメッセージが遅れた責任を、彼に負わせるべきではない。」

 米国人には、こういう話のわかる人間がかなり多い。共産主義の指導者、韓国、北朝鮮には食えない奴しかいないのである。

 東郷茂徳外相は、開戦の通告が遅れたことについて、永野修身が悪いと、文句をつけたが、同時に、「米国の交渉態度は、在米資産凍結以来、きわめて。非妥協的で、時をかせいで戦争を準備しながら、もう、戦争を決意しているように思えた。現に8月12日には、大西洋条で、ルーズベルトチャーチルに日本は30日くらいしたら戦争をはじめるだろう、と言い、チャーチルは、もう少し先のほうがいいと言ったところ、それへのルーズベルトの答えは、「アイキャンベィビー・ゼム・アロング」日本を三ヶ月くらい、あやしておける、と言ったといわれる。先に手出ししなければ、どう挑発してもいいというのは、偽善、悪徳、卑怯だ」と言った。

 

 昭和26年5月3日、アメリカ上院軍事外交委員会で、マッカーサー元帥は次のように証言した。

 「日本は半分が農業。あとの半分が工業生産に従事していました。

  日本の擁する労働力は、量的、質的にきわめて優秀です。

 日本の労働者は、怠けている時よりも、働いている時のほうが幸福だと発見していたのです。労動の尊厳を彼らは知っていました。しかし、彼らは資源を持っていませんでした。

 日本は絹産業以外は、ほとんど何も固有の産物はないのです。

  彼らは綿がない。羊毛がない。石油がない。錫がない。ゴムがない。

  それら一切のものがアジアの海域にはあるのです。

  これらの原料輸入を断ち切られたら、1千万、2千万の失業者が発生することを、日本の指導者は恐れていました。

 彼らが戦争に飛び込んだのは、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。

マッカーサーは近衛、尾崎、昭和研究会がなぜ米国と戦争したかったか、米国にぶつかって、壊滅した上で、国内の共産党員の赤軍派に内乱をおこさせるという夢を思っていたことは想像だにしなかったらしく、そんなふうに、日本に同情した。

 朝鮮戦争を経験して、自分だけは損をせずに、他国に戦争をさせて得をとるソ連のやりくちに呆れたからである。

 東京裁判未提出弁護側資料 八巻には、東京裁判後のエピソードとして、昭和25年10月15日、マッカーサートルーマンに、東京裁判はするべきではなかった、と語ったと記載されている。

 永野修身は昭和22年1月5日、米軍陸軍野戦病院で病死。

 

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創氏改名と慰安婦の真実

創氏改名

 1910年から1936年まで、26年間は、むしろ日本は、朝鮮の人々が、中国人向けに、日本名を名乗る事を禁じていた。

 朝鮮人の中に、現在の韓国人にも日本人にも、ジェームス何とかとか、ミッキーなんとかとなのりたがる洒落者がいるように、当時、朝鮮の人々には、中国人と相対する時に日本名を名乗るほうが格好がつくからと、日本名を名乗りたがるものがいた事も事実だった。日本はこれを禁止していたのである。朝鮮名を大切にしなさい、と。

 1937年には、新生児にかぎり、日本名を名乗りたければそれでもよい、と禁止をゆるめた。

 1939年になってはじめて本格的に「創氏改名」が現実味を帯びて論議され、1940年になってこの制度が導入されるのだが、これはあくまでも、許可制であって、強制ではなかった。強制ではないから、くれぐれも勘違いしないようにと念を押すほどだった。

 その結果どうなったか。朝鮮の知識人ほど、強制でないと知っていたから、朝鮮名そのままだったのである。

 

 日本人には、日本国憲法9条に武力放棄と交戦権の放棄を明記しながら、戦闘機と戦車を保有する自衛隊を持って、しかも、法治主義と言い張るめちゃくちゃなところがあるのだが、韓国併合の際、日本は、1919年大正天皇名で、「朝鮮民衆を愛すること一視同仁、朕が臣民として(日本人)との間に秋毫の差違あることなく」と言いながら、実際は、韓国人の日本への渡航の自由は制限され、国政選挙の選挙権など、けっして、完全なる平等ではなかった。

統帥権天皇にありとしながら、実際には、天皇は指揮権をふるうことはない、憲法9条は武力を放棄しながら、自衛隊は戦闘機を持つ。天皇陛下の一視同仁、大和大愛、と言いながら、渡航の自由は制限され、国政選挙の選挙権に差別があるなど、日本人というのは、つくづく言葉を大事にしない国柄と言ってよい。

 

 村山談話では、筆舌に尽くしがたい苦痛を味あわせたと意味不明の事を言って謝罪し、河野談話もまた、広義の強制性などというわけのわからない表現を根拠に謝罪している。小泉純一郎もまた、「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」とウソを言っている。植民地支配ではなく、併合であり、同化政策であった。

 朝鮮総督府は勝手に朝鮮に朝鮮神宮を設立しておいて、「大正天皇、ご創立あらせられ」とこれまたありもしないウソを書いた。これは、天皇大権に反して、勝手に大正天皇のあずかり知らぬ事を大正天皇の名を借りて、正当化しているので、つくづくいい加減だったのである。

 ※左翼は、天皇の戦争責任を長年言いながら、いまだかつて、皇室典範廃止を主張したことが一度もない。なぜ、そうなのかといえば、憲法改正をただの一度でも、それが皇室廃止であろうとなんだろうと、行われたとたん、蟻の一穴で、憲法9条改正に手を付けられるのが嫌らしい。すなわち、天皇戦争犯罪を言い立てながらも、皇室典範を容認するのが、日本的左翼の態度なのである。

 戦場における性の諸相

1.ロシア・モンゴル型

 

13世紀のモンゴル軍の将兵の行う戦争に被征服地の女性の強姦はごくふつうの事であった。「白ロシア」「よくオリンピックなどで、ベラルーシと聞く」「ベラ・ルーシ」とは、モンゴル軍団が地形的都合から、ベラルーシ地域を避けて通ったために、「女性の純潔が維持されたロシア」という意味の国名がつけられた。

 ベラルーシではなく、ふつうのロシアは、モンゴル軍団の犠牲になって、女性たちが、強姦された。

 このモンゴルの習性を継承したソ連(ロシア)の兵士は、満洲朝鮮半島で、終戦間際、北朝鮮の女性や満洲ひきあげの日本人女性に暴虐の限りを尽くした。

  ソ連軍は東欧やドイツでもこうしたふるまいにおよんだ。

 ※朝鮮人はこの機会に乗じて、日本女性を暴行した。

2.十字軍型

 アラブに攻撃を仕掛けたヨーロッパの十字軍には、十字軍の行く先々の都市の前線基地や占領地に十字軍兵士を客とする売春婦の街が作られた。(日本で言えば、吉原のようなもの)

 コレに類するのが、朝鮮戦争時の米軍兵士向け韓国売春施設。戦後日本にあふれた米軍兵士向けパンパンガールやGHQの要請により作られた性的レジャー施設。

 1945年8月15日からわずか11日後、26日に特殊慰安施設協会が、GHQの要請により発足して、最初の広告の文面は、「戦後処理の国家的緊急施設、新日本女性求む」だった。

 アメリカ人記者マーク・ゲインは、「RAA特殊慰安施設協会には、事務員450名。ダンサーは2000名で、全部ではないが、大部分は「淫売」と書いた。

 ベトナム戦争時の南ベトナムにも、同じような風景が見られた。

 現在の世界各国の米軍基地周辺の歓楽街。

 3.売春婦、売春業者が軍の意志とは別に基地周辺で商売を起業する場合。

 湾岸戦争イラク戦争などの主に近年の中東地域の紛争地帯に見られる。

 4.軍隊が売春婦を雇用する民間業者を軍属に近い形で、兵站に近接した場所に設置を許可して、性病などをコントロールする。

 この習俗は第一次世界大戦のドイツ・フランスを起源とする。

 第一次世界大戦の際、戦場となった地域の背後に位置するフランスの各都市には、将校用娼家、兵士用娼家が設けられた。

 ドイツの側にも、同じように、将校用娼家、兵隊用娼家が設置された。とくに、兵隊用娼家は門前に長蛇の列が、映画の入場待ちかなにかみたいに並んでいた。

 第二次世界大戦の日本と朝鮮戦争直後の韓国がこれにあたる。

 問題は、日本の左翼が、日本の場合だけが世界で唯一の女性に対する人権抑圧として断じて、世界史のトータルな視野での、女性の抑圧史を踏まえないで物を語って、なにか、日本に謝罪させれば人類の大きな進歩にでもなりそうな、独善的錯覚に居直っている事である。

以上の問題は、モンゴル・ロシア型を除けば、結局は、貧困を解消すれば、同時に消えるものなのである。軍隊があるから、というよりも、本質的には貧困ゆえに、そのような職業に従事することが、貧困家庭出身の女性にとって、生きるよすがとなっていることに本質があり、どこどこの軍の人権犯罪という問題ではない。

 なぜなら、貧困と都市のあるところ、戦争があろうとなかろうと、女性のみじめな境遇は存在し続けるからで、戦争のあるなし、平和への願いとこの問題の根絶はまるきり関係がない。

韓国人の日本批判の根本には、日本が韓国を武断統治さえしなければ、韓国は自力で近代化できた、という確信がその根本にある。

 日本でもよく視聴されたNHKの韓流ドラマ「イ・サン」に登場する実在の朝鮮人学者チョン・ヤギョンの「牧民心書」モンミンシムソは、日本人・韓国人必読の書だ。

 牧民とは、当時の日本でも、韓国でも、社会の指導層が民衆を善政によって幸福にするべきだという理想主義的観念があって、日韓両国とも、これを「牧民」と表現した。

 朝鮮ではモンミンと発音するらしい。

 「朝鮮の農民は、多く収穫する者800斗、少ない者600斗、もっと少ない者で400斗だが、農民は田を所有せず、皆、人の田を借りて耕している。

 土地の所有者は、収穫の半分を賃料として、とりあげるので、農民の取り分は、600斗収穫すれば、300斗になる。そこから、来年の種をのぞき、借金を返し、税金を払いなどすれば、残るところ、100斗を割り込む。貧困は極まって、哀哀たる下民何をもって生きん。」とある。

 また、フランス人、ダレの「朝鮮事情」は、「朝鮮では、飢饉が頻繁に見られる。貧しい農民には、6月7月、次いで9月、10月の二度、定期的に飢饉の襲われる。

 金銭は法外な利子でしか借りられず、わずかばかりの貯蓄を使い果たした不幸な人々は、惣菜の元はおろか、米や穀物すら買うことができない。

 かれらは、塩水で煮詰めたわずかばかりに草木を生きる糧としている。」

 このように、朝鮮は日本が関わる以前から貧困の極みであり、日本とちがって、どのような欧米留学などの努力もなかったから、自力で立ち上がる事ができたなどというのは、まったくの幻想にすぎない。

 関東大震災における朝鮮人虐殺は6000名と信じている日本人は舛添東京都知事(当時)をはじめ、非常に多く、また韓国では、さらに誇張されて20000名ともされる。

 しかし、実際には、陸軍は在日朝鮮人暴徒を返り討ちにする日本人暴徒、行き過ぎた自警団の過剰防衛による朝鮮人への暴行を止めようとして日本人362名を逮捕した。

 朝鮮人暴徒の被害者は、死亡231名、重軽傷43名だった。

 現代の「アメリカにおける黒人暴動や韓国の光州事件のような異状事態」に類似の騒乱事件が未曾有の災害によって起きたと言える。

 朝鮮人暴徒と誤認されて殺害された日本人は59名、重軽傷は27名だった。

 総じて日本としては、公正に、差別意識を排して、朝鮮人保護に努めて日本人を逮捕起訴したことも確かな現実だった。

 また、朝鮮人の中によからぬ者がいた事は、日本人に犯罪者がいることと同様で、三件の放火、六件の強盗、三件の強姦が大規模な震災の混乱のさなかにあったのも事実だった。

 日本政府は、震災の被災者の朝鮮人を放置せず、職業斡旋をし、半島への無料の帰国船を手配した。これが、おそらくは、日本の支配秩序転覆を目論む在日韓国人マルクス主義者のプロパガンダによって、6000名の大虐殺などというとんでもない作り話が捏造されて、ナイーブな日教組婦人部長の著書などによって拡散していった。

慰安婦に対する謝罪と賠償TBSや日本の左翼が騒ぎ続けるうちに、2000年には、アメリカカリフォルニア州で日本に対する謝罪と賠償要求論に火がついた。

 民主党のハイデン上院議員が「第二次大戦の奴隷労働被害者への損害賠償請求の時効を2010年まで延長する」という民事訴訟法改正案をカリフォルニア州議会が可決され、続々と「在米日本企業への戦後補償請求訴訟」がはじまり、件数で百件、総額で100兆円を上回る。

 もし、日本が戦争の罪悪の反省と謝罪と賠償を前のめりに、なにもかもすべて、日本が悪いのだと、左翼の求めるとおりに、それをしてこそ、日本人は正しく戦後を終えるのだと、謝罪と賠償をしていけば、日本は破産することになる。

 いったい、左翼というのは、庶民が貧困のどん底になることは厭わないのだろうか。

  「謝罪と賠償」をしてこそ、日本人は新しく出発できるとは、聞こえはいいが、前のめりに、謝罪し続ける時、日本は中国・韓国・北朝鮮・東南アジア・アメリカ・英国・オランダ・の謝罪と賠償要求に殺到されて食いつぶされるのである。

 その時、国会前にデモをする年金で結構豊かに暮らす老人たちの生活も破綻する。

  カリフォルニア州の対日賠償請求決議の出発点となった東京の「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」には、州決議の提案者マイク・ホンダも出席。

 そこで、元日弁連会長土屋公献が「日本帝国主義が行った侵略と捕虜虐待」と言って、補償請求を呼びかけ、日本側メンバーの元長崎市長本島等は、「真珠湾攻撃は人をだますことが日本人の遺伝子の中に組み込まれている」と発言。

 ※ならば、アメリカの黒人差別やメキシコ人差別はアメリカの遺伝子に組み込まれ、韓国人の大国依存とウソつき外交、被属国癖は遺伝子に組み込まれているのだろうか。

 日本人は謝罪と賠償請求に異議申し立てする覚悟を持たなければならないのであるが、日本のマスコミはにやけ笑いのうちに、政府の対応を眺めながら、一方で、日本の戦争犯罪を無邪気に暴き続けている。

2015年8月3日箱根町消防署の救急隊模工場が摘発されたし、中国・韓国といえば、あらゆるコピー品、賄賂、性犯罪のるつぼだが、そういう社会が、戦争の時に限って、礼儀ただしい正義の戦争をしたなどと誰が信じよう。

 また、アメリカも、1945年から1970年にかけていかに黒人差別、メキシコ人差別がひどかったか。また、暴力犯罪率の高いアメリカが、戦争する時だけは特別紳士的だとは誰が信じよう。つまり、軍の横暴、日本にかぎった事ではないのである。

 現代韓国もまた、性犯罪と汚職と夫婦間暴力のるつぼのような社会である。彼等がベトナム戦争の時だけは、紳士的だったとは誰も信じないのである。

 磯崎首相補佐官が、安全保障法制の整備について、「法的安定性よりも現実の危機に対処する事が重要」と口をすべらせた時、マスコミは大騒ぎした。

 これがいかに、「羹に懲りて膾を吹く」の類で、意味のない大騒ぎかというと、首相補佐官というのは、法務大臣でもなければ、防衛大臣でもないのだから、多少の語弊ある発言をしても、首相がわたしはそうは思わないと言えばそれまでなのである。

 補佐官の言うことを首相が聞かなければならない義理はない以上、何の権限もない首相補佐官の発言が重大なものではありえない。

 が、それでも、日本では大騒ぎになる。なぜなのか。

 この日本の「戦争恐怖」は、「空襲恐怖」と「夫が息子が兄が戦死する恐怖」にほかならない。これを阿呆な戦後民主主義者は、「男女平等お互いに尊重しあって、殺しもせず殺されもせずきた」とかっこうつけて言い換えた。

 しかし、男女平等・男女同権というが、戦後日本の精神の退廃は、実際は、戦前をはるかに上回る「家庭内暴力」「ストーカー殺人」「セクハラ」「離婚率の高さ」を出現させた。

 

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戦前日本はファシズムではなかった理由。

ファシズムの要件とは、宗教、または政治イデオロギーが新興的に結成されて「結社」「党」として形成され、これが広範な大衆の支持を得て、国家の上位に位置して、国家権力を掌握して、結社の構想する理想に向けて、強力に戦争や他民族、他宗教の圧迫に向けて動く事である。

 北一輝の226事件における国家社会主義革命、オウム真理教幸福の科学創価学会・・・これらが、広範かつ急激な国民の熱狂支持のもと、実際に国家権力を握った場合が、ファシズムなのである。

 これらの組織は常にファシズムの主役を目指すが、実際に実現するかどうかは、最初にあげた条件が実現するかどうか次第である。

 

 ところが、日本の戦前においては、日本人にとって皇室は「新興宗教」ではなく、また、なんらかの「天皇イデオロギー」の特定の結社が、日本政府の内閣、軍のそのまた上位に君臨するということがなかった。

 

 それを目指す勢力はあったことはたしかである。そのひとつが、田中智学の新興日蓮宗の八紘一宇で、天皇およびアジア人全体を日蓮宗徒にすることだったことは、忘れられている。

 これがもし、天皇に上奏するよりもなによりかにより、天皇の輔弼をする結社が、国家の司法・立法・行政三権すべての指導をしている場合が戦前戦中にあったのなら、ファシズムなのだが、日本は実際にはそうではなかった。

※朝鮮に神社を作ったのをかんちがいして、強制だと言う人がいるが、あれは日本にキリスト教の教会があると同じ意味で、特に神社参拝を絶対視して強制したわけではない。むしろ、儒教ファシズムを解体して、現在の日本人のように、宗教何でもありの状態にしたのが、併合期の朝鮮半島である。

 ドイツのナチズムとは、まさに、このファシズムの要件に該当するものであることだった事を確認してみるとよい。

 丸山真男をはじめとする戦後民主主義者が、日本について「天皇ファシズム」だったというのは、日本人が当時、現在の世界のカトリック教徒がバチカンの法王に大きな敬意を表すると似たような態度を皇室に持っていたことを、ファシズムの型に無理やりあてはめたにすぎない。

 天皇ファシズムというのが、危険なのは、現在の世界のカトリック教徒が法王を崇敬するのを見て、ファシズムだと言う事が途方も無い事だというと同じである。

 日本人は、親鸞空海日蓮に大きな敬意を払ってきたのと同じような意味あいで、平凡な一生活者とは違う尊い存在に敬意を表してきたのだろう。

 

 これを日本の左翼は、天皇に対する日本人の態度のみを、奇怪異様なものとして告発したが、親鸞空海日蓮に対して示した日本人の大きな尊敬にはいっさい関心を示さなかった。

 しかし、本当は日本人の心情の実態は、天皇親鸞空海日蓮に対する土俗的新興心情とたいして変わらない。

 こうした認識がいかにいい加減なものであるかは、活字媒体による戦前批判には、「天皇ファシズム」「天皇主権」という言葉はいくらでもあるが、彼らは、テレビの前では、けっして、このことに言及しない。「軍国主義」あるいは「中国に侵略したことはまちがいない」と繰り返す。

 

 姜尚中は、著書の中では、「日本は天皇の戦争責任を処理しなかった」と繰り返しているが、これをテレビで一言でも言ったことがあるか。

 無いのである。TBS,テレ朝、NHKも同じである。彼らが信奉する「戦後民主主義」は、元来「皇室の存在を否定しているのであるが、テレビでだけは、これをけっして公言しない。

 なぜか。言いだしっぺのテレビ局が、まっさきに世論の袋叩きにあうことを恐れているからだ。

 「軍国主義」あるいは「中国に侵略したことはまちがいない」という主張は、世論が猛然と反発することはないと安心していられるのだが、たとえ本音では思っていることでも、自己保身のために言わないのが、彼ら「戦後民主主義者」であり、自民党左派、民主党の連中の姑息なところである。

 歴史修正主義者を非難する彼らが、では、自らの信じる歴史であるところに、日本は「天皇ファシズムで、昭和天皇に責任がある」という歴史認識は秘匿するだけで、あれは間違いだったとは、決して考えない、それが彼らのいやらしいところだ。

 ※吉本隆明西尾幹二のふたりは、この「天皇ファシズム」という認識を概念としておかしいと明瞭に指摘している。(吉本の場合、著書で言っているかどうか、不明だが、講演で日本はファシズムではなかったと明言している。吉本にとって、戦争悪は、日本特有の問題でもなんでもなかったのである。)

 内閣参与(日本の世界遺産ユネスコ登録担当)加藤康子ニューズウィークへの寄稿

 

「韓国の代表は、「ドイツと日本は同じような歴史背景を持っているのです」と繰り返し、アウシュビッツを引き合いに出した。

 戦時徴用というのは、戦時中に国民が協力するというもので、これとアウシュビッツはまったく関係ありませんよ、と反論すると、議長国ドイツの担当者は、「あの写真を見た?(日本の世界遺産のひとつ軍艦島のこと)そんなきれいなことばかりじゃないでしょ」といきり立った。」

ナチスファシズムとは、

1.ユダヤ抹殺のあとには、ロシア民族抹殺というように、次々に極端な他民族抹殺イデオロギーを構築していった。

(日本に他民族を抹殺するなどという発想はまったくなかった。)

 

韓国併合は過ちだったのだが、それは、アメリカのハワイ併合を考えれば、そう極悪なものともいえない。事実、

2.国軍と別に、親衛隊(SS)のように、ヒトラー直属の武装集団を保持していた。

 (日本に天皇の直接指揮する武装組織はなかった)

3.ナチスは心臓疾患者、身体障害者の結婚を禁止し、子孫を残せないように、断種措置を取った。日本が朝鮮人に断種などをするわけがない。

この民族浄化思想を、外部に向けて発展させたのが、ホロコーストであり、日本とまるで異質なもので、ドイツは謝罪したが、日本は謝罪していないなどと引き合いに出されるようなものではなかった。

4.1992年7月、日本弁護士連盟のシンポジウムが、次のように言った。

 

「日本はインドネシアに国家賠償をしたが、個人補償をしていないが、ドイツは個人補償をしている。だから、日本は個人補償を慰安婦にするべきだ」

 

 このとき、日本人も韓国人も、ドイツは誠実に国家賠償の上に個人補償をしたのだと思い込んだ。

 そして、戦争相手ではない韓国人も、個人補償を要求できるもんだ、と思い込んだ。

 しかし、実際には、ドイツは「国家賠償」をしてはいない。

 最近、ギリシャが国家賠償を言い出したのは、国家賠償がすんでおらず、しかも、ドイツの侵略行為の事実関係が明白だからであるが、日本の慰安婦問題は、「金銭のやりとりのある風俗営業の一種なのか、奴隷狩りのような強制連行なのか」いまだに不明瞭な問題だという違いがある。

 ドイツは国家賠償という集団責任を回避して、ナチス党員の責任だとしたかったので、ユダヤ人に対して個人補償した。(戦争講和の賠償とは関係なく、しかも、日本は朝鮮人に対してホロコーストをしたわけでもない。)

 これが、混同されて、日本とドイツを並べて論じたがる風潮が、池上彰をはじめとして、一向に消えない。

 ドイツの論理では、戦後ドイツ国民は、ナチスから解放された国民なので、ナチスの罪を謝罪する必要がないのである。

 だが、韓国人が日本人に、ドイツは謝罪している、と主張すると、そうか、日本も謝罪しようと勘違いしてしまう。

 実際には、ナチス国家社会主義党の党員は、1200万人。成年男子のふたりに一人だった。

 これをごまかして、ナチスから解放された、とドイツは称した。

 むしろ、日本こそ、そのようなイデオロギー政党自体が存在しなかったし、日本の庶民が政党の党員だったということもなかった。このことは、アメリカ国民がなにかの政党の党員ではなかったと同じことだった。

 ※大政翼賛会は新興の国民が参加する「党」の設立を目指したのであるが、失敗した「看板だおれ」に終わったのである。

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併合相手国、植民地国に対する賠償

彼等は「拉致問題に対して認識が薄い」というどころの話ではなく、拉致問題よりも国交正常化が優先されるべきだという考えを持っているのである。

 国交正常化をして、その過程で、日本に莫大な植民地賠償をさせたい、そして、中国のように日本の資本援助、技術援助をしてやれば、北朝鮮は発展するはずだし、彼等は善人だから、わかってくれて、拉致被害者を帰らせることになる・・・というのが、彼等の思惑にほかならない。

 しかし、植民地賠償というのは、ありえないのである。併合賠償は当然ありえない。

フランス、オランダ、英国はもちろん事、アメリカも植民地賠償をしたことがない。


 大江健三郎あたりは、罪障意識さえあれば、他国の賠償しない「植民地賠償」でも、ありうると思っているらしいが、ありえないのである。 

 

 いくら馬鹿な外務省でも、併合賠償、植民地賠償というのは、国際常識に無いという事くらいは知っている。韓国に日本が莫大な支援を続けてきた理由は、北朝鮮の脅威を前に、世界の貧困国だった韓国に十分な防衛能力を持たせる必要があったからだ。なにも、植民地に対する謝罪意識があったわけでもなんでもない。日韓協定に謝罪の意味はまったくないのである。

 

 韓国は、共産主義勢力の侵略によって、日本の残した遺産の多くを消失してしまって、最貧国に転落していた。それよりさらにさかのぼると、

 韓国、朝鮮は、合邦前から、極貧の借金踏み倒し地域で、日本は面倒を見続けて、敗戦を機に逆恨みされたまま、ただ北朝鮮対策のために、韓国をおだてる必要に迫られたのであり、協定に謝罪の意味はこめられることはなかった。


 また、それで正しかったのである。

 韓国に日本は貢献したことはあっても、貧困化を加速させたのは、韓国自身と共産主義勢力の要因が大部分だったが、朝鮮戦争後の韓国は、李承晩政権が、ひたすら反日を言い続けてきた。

  

 北朝鮮拉致被害者をかえさなければ、日本にとって常にトゲとして残り、北朝鮮への強い嫌悪は消える事はないし、仮に解決しても、かつて韓国に配慮しなければならなかったような配慮は無くなるのだから、いずれにしても、今後、日本が韓国・北朝鮮に技術移転、経済援助をする時代は永遠に過ぎ去った。

 わが日本人の中の、まじめで研究熱心な理科系の人々が優秀で、日進月歩、特許技術を開発し続けていることで、日米二国が世界で突出した巨額の特許収入保持国であることに感謝したい気分になる。

 TBS、テレ朝のテレビマンがなぜ、民主・社民・共産連立政権を待望するかというと、はっきりしていて、彼らが「原発即時廃止」「辺野古移設停止と普天間基地維持」

 を切望しているからだ。

 東洋諸国を旅行見聞したイギリスのカーソン卿は、日韓併合前の朝鮮について次のように記録している。

 「宮廷と後宮の神秘に包まれ、宦官、(性器を切り落とした執事)宰相、官吏、女官の密集した円環に囲まれて、陰謀に支配された空気によってほとんど無力にされた名のみの国王、浅薄きわまる仮面になれきった官職の所有者と官職を売買する者たちの階層制度。

 惰弱にして無意味な軍隊。枯渇した国家財政。質の悪い貨幣。貧困民衆。これらは改革されることなく、こうした衰弱した身体をかぎつけて、西欧の国々が、四方八方から、借款、利権、銀行、造幣所、工場の利益を朝鮮の利益を西洋に吸収しつくす処方箋を授ける指南の一群と朝鮮。

 これが、開国後、十年の朝鮮の姿である。

  カーソン卿の指摘した朝鮮王宮の腐敗は、朝鮮の、少数の富裕な商人や田舎に大きな土地を持つ、朝鮮の、土地所有者をのぞいては、国民大衆は極めて窮乏していた。 

 農村は崩壊に瀕し、やむことなき、朝鮮両藩支配による苛斂誅求と農民の間に鬱積していた王宮と両班に対する、憎しみ、うらみは動乱の前兆を感じさせていた。

 

 日露戦争における日本の勝利の後、朝鮮では急速に親日派としての開化政策支持が増えたが、日本が三国干渉に押されて、国際協調のために、譲歩するや、朝鮮の官僚たちは、日本は頼りにならぬ、とロシアに依存するようになった。

 結果、ロシア公使ウェーベルと閔妃(ミンぴ )は、次のように諒解事項を交わした。

 

1.王妃とミン一族は一体であり、ミン一族は、歴史的に日本とは相容れない関係にある。

2.韓日両国は海を隔てる関係にあるが、ロシアとは地続きであり、ロシアとの関係のほうが大韓帝国にとって、重要である。

3.ロシア国が強国で、弱小日本とは、比較しえないことは、遼東還付が生きた証拠である。

ロシアは、大韓帝国の独立を害せず、内政に干渉せず、ロシア自身、君主国であるゆえに、韓国としては、ロシアに保護を求めることとする。

 日本に輸出するものはドラマ、キムチ、スマホくらいしかない韓国は、核

保有国の中国には、売れる物がある。李氏朝鮮時代から行動洋式は変わらない。

 このとき、閔妃(ミンぴ )は、日本は韓国と両立しないから、たとえいくばくかの領土を他国に割いて譲歩するとしても、日本人にだけには復讐しなければならぬ、と言ったと伝えられる。

 まあ、そうでもあろう。問題は、こういう自国民を苦しめておきながら、そのことにはテンとして恥じることなく、ひたすら、隣国に対する競争意識むき出しに、ロシアに頼ろうがどうしようが、どうしても、日本に一泡吹かせたいとする、朝鮮・韓国支配層伝統の思考様式に気づかず、ひたすら、配慮し続け、また、戦後も友好関係がありうるものとしてきた日本人も日本人なのである。

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併合前の皇帝のいた大韓帝国はどういう国だったか。2

皇帝のいた大韓帝国時代には、紙幣さえもなかったのである。

あったのは、現在の50円玉、5円玉のような形状の、穴あき銭を数百年使い続け。日本のような小判のようなものさえもない、ぞんざいな国柄であった。

高価なものの取引はいちいち馬に運ばせるしかなかったのが実情。

 

 大韓帝国の民衆は、関東大震災で日本人に殺されるよりも何よりかにより、韓国人の高利貸しに苦しめられたのである。

 

 大韓帝国の官吏、地主、高利貸しこそ、日本人どころではなく、朝鮮民族の民衆を苦しめ続けた。近代的金融機関が存在せず、ただ日本の第一銀行が明治11年釜山にできて、大韓帝国臣民は、高利貸し以外の金融業を知った。

 日本の財政顧問が韓国政府に教えてあげて、ようやく韓国人は韓国銀行を設立することができたのである。

 

 朝鮮がなぜそれほどまでに遅れたかといえば、「儒学の暗記」のみが成否を決める「科挙」が明治25年まであったから、京城の最高学府と言っても四校も、各郡の郷校、書堂もただ句読の暗唱と訓話だけで、日本のような医学、西洋語学、軍学などはまったくなく、西洋に留学できる素養もなかった。ここで日本と韓国に大きく差がついた。

 

 併合後、日本人は朝鮮半島の民衆の実業知識の普及のために、昭和9年までに、公立農業高校28,公立商業高校16,公立水産高校を3校作ってあげた。

 また、高等女学校は25、女子高等普通学校は17,実業学校は55と教育の普及に努めた。

 

 これは、イギリスのインド支配、フランスのベトナム支配、アメリカのフィリピン統治にはないことだった。

 この日本人の親身な貢献は、「関東大震災という未曾有の大災害のパニックと火事場泥棒化した不逞朝鮮人との自警団の戦いのなかで起きた事件はともかく、日本が半島の民衆に与えた多大な貢献といえた。

 

 併合後、日本が神道朝鮮人に押しつけたというのは、まったくのウソである。

 事実は、併合後に仏教キリスト教、が盛んになったのである。

 明治44年9月寺刹(じさつ)令により、僧侶の地位は保証されて、その財産の保有が確固としたものとなったのであり、神社神道を強要したというのは、捏造である。

 

 明治40年の日韓協約、そして併合まで、韓国では、行政庁たる郡守は司法権も兼ねていたので、つまりは、行政権力が司法権力も兼ねていた。

 

 これを考えても、いかに韓国人自身が韓国民衆を苦しめていたかがわかろう。

 これを日本が改革してあげて、韓国民衆は歓喜したので、関東大震災のチンピラ朝鮮人が死んだ騒ぎどころではなく、当時の朝鮮民衆は日本に感謝していた。

 

 大韓帝国の警察制度は、常に権門有力者の手先になって、民衆に圧伏を加えているばかりの恐怖政治の暴力装置そのものだった。

 これを公僕制度に変えたのが、日本の指導だった。

 これもやはり、明治37年、日本から派遣された警察顧問によって、韓国人は警察官のなんたるかをはじめて知ったのである。

 朝鮮宮中には、組織だった消防隊さえ、初めてできたのは、明治40年1月になってである。

 朝鮮がいかに衛生状態が悪かったかを示す事例として、コレラの流行がある。

 大正8年には、1万6千965人がコレラにより死亡。

 大正9年には、1万3千568人がコレラによって死亡した。

 こうした悲惨な状況は、韓国人が医学の普及に努めず、民間の占いに頼って、長く不衛生な暮らしを続けてきたからである。これに対して、日本は極力、コレラ予防の意識を持つよう、注意喚起をして、民衆を助けようと努力したのであるが、こうした努力は忘れられて、ただただ、「関東大震災虐殺」と言い立てるのが韓国人と日本左翼の低脳児の無知なところである。

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