群島の歴史社会学 石原俊

[書評]分断された南北は、もう一つの小笠原 : 文化 : ハンギョレ

ハンギョレ新聞のハン・ドン記者は以下のように、日本の戦後経済成長を非難する。

敗戦国日本は戦後、戦勝国アメリカの冷戦政策に便乗し「棚ぼた」のように到来した「特権的」経済成長を謳歌し安住して、周辺のアジア国家に対する歪んだ特権・選民意識の中で彼らを他者化して、人種主義・植民主義を煽り立てた。石原氏が指摘するように、ヨーロッパ外部の他者を恣意的に処分・捕獲することを「先占」と「海戦自由」の法理で正当化した国際法(万国公法)は、西欧諸国の侵略と搾取論理の延長だった。」

 

だが、それなら・・・・ 

 
工藤守 ·
ベトナム戦争でもうけた韓国はどうよ。
それでいい給料もらうようになったハンギョレの記者の立場はどうなの
 

 

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人権とマルクス主義

現代とマルクス主義マルクス主義の変種)

フランス革命が「キリスト教会と家族の紐帯」を革命達成のために破壊。

これに学んだレーニンが

「学校と家族の紐帯」を破壊

 

レーニンを継承し、日本共産党新左翼に影響を与えたフランス共産党ルイ・アルチュセール資本論を読む」の、「学校制度をイデオロギー装置と見る見方」

 

 これに基づく「子どもの権利」条約の「旧社会党」と日本共産党にの協力よる推進。

 (村山首相時代に批准)

 この「子どもの権利条約」の内容を盾に共産党員、社会党員の教師が、県立所沢高校の「反政府行動は正義」の妄想に駆られた生徒を、任侠道にチンピラを引き込むと同様、支持したのが、1998年所沢高校の君が代ボイコット事件

 1997年3月には、京都府立桂高校で、「制服反対」闘争を生徒がはじめて、これを日本共産党社会党系教師が支持。

 「学校の主人公は生徒です」と校則拒否運動を展開。

 1998年には、校則拒否、管理補導否定の風潮が強まり、栃木県黒磯北中学校の英語教師、越塚佳代子教諭が中学一年生にナイフで刺殺された。

 

子どもの権利条約」とは、

  • 「子どもには自由に自己の意見を表明する権利がある」というもの。

すなわち、各国の伝統教育に子どもが抗って、半ぐれ、デモに生きがいを求める者、反原発、反政府に闇雲に生きがいを見出す人間を育てて、社会秩序に犯罪とテロ、自殺が増加することを祈念する運動。

 

 こうして、日本では、「いじめ」が急増するが、校則と道徳否定の学校では増加は必然で、しかも、いじめが起きると学校は必ず「生命の大切さ」を訴える、というのを常套句として、決して「道徳、しつけ」が衰退している結果なので、道徳の教科書をしっかりと輪読させる、とは決して言わないし、言う頭も心もない。

 

 国連の二重性。米国の自由世界秩序維持のための国際軍事協力活動機能。

 ソ連共産主義残党による共産主義イデオロギープロパガンダ組織。

 

 日本人の頭に「人権」の文字ばかりが浮かび上がり、わが日本の国民の法に規定された国民の権利、という発想がすっかり消え失せた。

 たとえば、子どもの髪を勝手に切るのは、なさに国民の権利たる日本の刑法によって、拒絶できるのだが、「人権問題」と思ってしまう無知。

 

中国、北朝鮮に人権は欠けている。

国法自体が人間の基本権を政治犯に認めていないからだ。

ところが、日本、アメリカ、英国は典型的に弁護士を要求する権利など、国法が国民の権利を規定している。

 

 1776年のヴァジニア権利章典は、政治権力の存続を大前提に、権力の抑制を図ったものだが、これをフランス革命の「人権宣言」は「権力それ自体を全否定して、「人権の最大化を図る新規の権力樹立」を目指した。

 

 これを日本でいうならば、「マイノリティの完全平等の実現」すなわち、非国籍だろうが、二重国籍だろうが、違う国籍だろうが、すべて国政から地方まで、参政権生活保護国民健康保険、管理職公務員になる権利、国民年金加入権、すべて同等にするべし、という人権運動である。

 人は平等であり、平等は正義だというのが、「人権」だが、国民の権利とは、「国籍」を条件とするから、「人権」の強調は、究極には、ある国家内部のすべての国籍条件の区別を取り払え、という主張に他ならない。

 

 ルソーの「人間不平等起源論」は、「貧乏人は気の毒だから、いたわろう」というものではない。「各国の宗教、歴史、慣習、伝統」が「貧困と富裕の差」を生んだ。伝統も慣習も道徳、しきたり、マナー、の無い時代は皆平等だったのだから、。伝統も慣習も道徳、しきたり、マナー、を破壊してしまえ、そうすれば、平等は実現できる、というものである。

 

 そこで、福島瑞穂の「離婚を簡単にできるようにしよう」「不倫を自由にやろう」

 「夫婦別姓にしよう」

上野千鶴子の男女の相違は社会的に形成されたもので、本来は差異がないのだから、その自然の姿に戻すために、「おひとりさまになろう」「ひな祭りも端午の節句もやめよう」という主張になる。

 辛淑玉のホモ・ゲイ・レズ・子どものない家庭を祝福して、子どものない家庭を日本に増やそう論になる。

 

 フランス革命マルクス主義における「人権」のある人間は、「労働者階級」と「労働者階級の擁護者」だけで、他の人間に人権はない。

 その具体例が、次の諸例である。

  • 日本共産党におけるスパイの処刑(反革命のスパイには、人権がない)
  • 労働者階級ではない、革命の参加者としてのハウスキーパーには、人権がない。
  • 中核派にとって、警察官、の家族には、人権がない。
  • 革マル派にとって、労働者は殺害対象になってはならないが、学生に人権はないから、殺してもよい
  • 人民革命に反抗するチベット・モンゴル・ウィグル人の反体制活動家に人権はない。
  • 沖縄の基地反対活動家にとって、防衛施設庁の公務員に人権はない。
  • 共産党社民党中核派にとって、放射能を恐怖して地域から出ようとしない福島県民には、人権がない。
  • 政治的に過激な在日朝鮮人には、自分たちの思うように動かない公務員の命という人権は存在しない。

昭和22年6月23日、端山豊蔵関税課長が、どぶろく密造摘発公務を恨まれて、朝鮮人8人に殴る蹴るの激しい集団暴行を受けて、殺害された。

 もし、彼ら在日朝鮮人8名に人権意識があれば、一人の人間である公務員として勤務した端山豊蔵氏の人生を奪い、家族の人生を奪うことはなかったろう。

 

 この実行犯は傷害致死でたった懲役7年に過ぎない刑に服した。

  • 1971年「渋谷暴動事件」において、中核派の大阪正明は、21歳の中村恒夫巡査長の残り多い生涯の人権のすべてを奪いつくしたのである。

彼ら中核派という革命集団は21歳にしか過ぎない公務員、中村恒夫巡査長の命という人権をなんら法の裁きも受けさせず、つまり、法的罪を問うことなく、人権を一切考慮せずに、鉄パイプで殴打したうえ、火炎瓶を投げつけて、全身火だるまにして焼き殺したのであるが、自分自身はその後、革命組織から、金銭的保護を受けて、67歳まで、春夏秋冬を謳歌し、日本の文明的な住居と食事を堪能して生き延びたのである。

  • 政敵には、一切「人権」はないから、狂暴なまでに、追い詰めるだけ追い詰め、自殺に追い込む。この実例が、世羅高校の石川校長自殺事件である。
  • マルクス主義者にとって、労働者に人権はあるが、労働組合員ではない退職者「生活者」やその娘に人権は無きに等しいので、拉致被害者の存在を長年にわたって否定し続け、事実が明るみになってもなお、朝鮮の人々は強制連行されたのだから、それに比べればたいした問題ではないと「人権」を無視したのは、「反差別」の辛淑玉だった。
  • 香山りかという精神科医は、反原発に同意しない者に人権はない、とばかりに「再稼働に賛成する者は、精神科医として申し上げますが、精神に異常をきたいしています」と異なる意見を持つ者を精神異常と決めつけた。

 仮に香山りかが時の権力者と組んだら、反対派は皆、精神異常判定されて収容所に入れられる事は確実であろう。

(安部首相に対して)「お前は人間じゃない」発言(これも人権無視ではないのか)

  • あさま山荘事件とは、人権派マルクス主義者がただの生活者である小さな保養施設の管理人の女性を10日にもわたって、人質にして死の淵に立たせた人権無視の犯罪である。罪のないこの女性を救出しようとして、自ら身代わりを申し出た一般人を、私服警察官だと誤認して、頭部に弾丸を撃ち込んで死亡させた人権無視の犯罪でもある。彼らが一般人(非労働組合員であり、デモ活動家でもない普通の生活人)の人権を無視する気がないなら、自ら官憲につかまって、まず、無関係の人間の人権を最優先にしたことであろうが、そうはせず、人権をないがしろにして、普通の人を自らの逃亡のために、人質に取ったのである。人権意識が高いはずがないではないか。

 

 他者のいのちを人質、拘束行為によって、人権を棄損しておいて、当時犯人の加藤倫則みちのりは、警察が大きな鉄球を山荘の外壁にぶつけて破壊して強硬突入して、人質を救出しようとしたところ、なんと、警察に対して「卑怯だよ、あんなの」と言っており、これを40年以上経っても、本人が悪びれず、発言しているのである。つまり、単なる保養所の管理人を自分たち政治犯の逃亡のために拘束した人権侵害と卑劣非道性をまったく気が付いていない非道徳性なのである。

 

 人権派朝日新聞毎日新聞山崎朋子が、「地球市民」「世界市民」を強調するのは、まことに筋が通っている。彼らは国家未成の原始時代が「人権のある平等」の理想だから、国家なき、「地球」「世界」の市民を「人権のある無国家」社会と信じているのである。

 

 けだし、彼ら「地球市民」が世界の危険地帯に放浪しては、イスラム過激派のふところに飛び込んでは、時に処刑されたがるのも、「地球市民」の妄念ゆえである。

 

 また、韓国の反大統領デモや従軍慰安婦デモに日本の労働組合や、民主党国会議員が参加したがるのも、逆に韓国民主労総の組合員が沖縄基地闘争に参加したがるのも、「国家消滅後の世界と国家未成原始」にルソーの自然状態の平等を妄想して地球市民になりたがっているからだ。

 

 だが、実際には、国家未成の状態、国家死滅の社会とは、法のない状態、道徳のない状態に他ならない。

 というのも、社会が形成されない前の人間に、道徳はなく、殺し合いと奪い合いしかないからである。だからこそ、ルソーは、人類は出合頭に性交した、と言った。恥も道徳もないその状態で平等だった、とルソーは言ったのである。

 そこに民族の歴史の思い出も、知恵の思い出もない。個別の獣性の生存あっての平等があるだけだ。

 

 そして、地球市民世界市民の人権とは、「民族史」「国柄」「慣習」「お祭り」「祭祀」「民族文化」の否定なくして「地球市民」はありえないのは、当然だろう。だからこそ、彼ら革命の徒は「国家」「国旗」を否定したがるのである。

 

 

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日本人が直視すべき戦前とは、軍国主義ではない。

 占領時代を直視するのではなく、戦前とは、京大、東大の大半がマルクス主義者で、その薫陶を受けた者が、官僚、マスメディアの幹部であり、京大、東大のマルクス主義者が翻訳出版した社会主義理論書を陸軍の幹部、右翼が読んで社会主義をもくろんでいたことを直視すべき。  戦後は、GHQの強権を利用して、GHQの思惑を超えるほどの国家解体思想を民法、ほか多くの個別法に注入したのが、東大のマルクス主義者たち。  この事実を見誤った米国の「日本軍国主義観」を利用して、社会党共産党シンパのマスコミがいっせいに、軍国主義を反省しようと言って、「社会主義かぶれ」が英米資本主義を敵視した戦前思想の根源だという真実を隠蔽した。

 戦前とは、軍国主義ではなく、「愛国」と「道徳」重視の日本であり、正常に国防重視の国ではあったが、が、「反道徳」の「社会主義」を道徳と思い込んで自壊していこうとしたのが、戦前から戦中への日本の姿であった。

 

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日本国民には、国民の権利があり、人権は不要。

 本日付の朝日新聞読者の投書欄に54歳の主婦が次のような文章を投書していた。

 娘が中学生の頃、天然パーマなのに、パーマと誤解されて、学校の補導の教師から、無理矢理に髪を切られた、と。当時は、黙認してしまったが、今なら人権問題だろう、その時、抗議しなかったのを後悔している、というのだ。

 

 この人は、日本では、他人の髪を同意なしの勝手に切るのは、刑法の傷害罪にあたることを知らなかっただけである。人権問題でもなんでもない。

 そして、傷害罪で訴えることが可能なのは、日本国の国民としての権利であるからで、これが北朝鮮なら、訴える事はできない。

 だからこそ、北朝鮮、中国には、人権問題が多数存在しているのだ。

 人権、人権というが、日本には、幸福追求の自由を保証する自由社会日本には、人権ではなく、日本国に生まれて日本国の国籍を持つ者が享受できる日本の国法によって保護されていることを知らない国民が多い。

 そのように、誘導したのは、地球市民のための新聞、朝日新聞である。

 

 

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人権派は、亡くなった被害者を徹底的に無視し、殺人者を捕縛し、死刑に処する社会に異を唱える

2017年5月24日、「昭和49年から翌年にかけて三菱重工の本社などを連続爆破して、罪のない生活者の生命を多数奪った殺人者大道寺将司死刑囚が、多発性骨髄腫のため東京拘置所で死亡した。

 

 これについて、作家の辺見庸は、同年5月28日のブログに、

◎夏深し魂消る声の残りける

「『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)26頁。1997年。
詞書に「東京拘置所永山則夫君ら二人の処刑があった朝」
とある。「魂消(たまぎ)る声」は、朝、とつぜんに刑場に
連行される永山のすさまじい絶叫であった。大道寺はそれを
聞いてふるえた。永山の声を耳にのこし、大道寺は逝った」

と、書いた。

この永山則夫君とは、

第1の殺人事件
1968年10月11日東京東京プリンスホテル綜合警備保障(現愛称:ALSOK)に勤務する27歳のガードマンに対し2発撃って射殺した。
第2の殺人事件
1968年10月14日京都八坂神社境内で69歳の守衛員に対し6発撃って射殺した。
第3の殺人事件
1968年10月26日函館で31歳のタクシー運転手に対し2発撃って射殺した。
第4の殺人事件
1968年11月5日名古屋で22歳のタクシー運転手に対し4発撃って射殺した。
まぎれもない、殺人者である。

このような、大道寺将司や永山則夫のような殺人者を哀悼するということは、殺人者の被害者をの非命の人生を哀悼しないという事である。

 なぜこのように、人権派マルクス主義者が、常にこのように、無辜の生活人の命を奪った殺人者の命を哀悼しても、被害者の事は哀悼しないかといえば、理由は明確である。生存絶対視、生者優先で、死んでしまった者には、毛ほども関心が向かず、ただただ悪逆非道の者に同情を寄せる倒錯者だからだ。

以下のように、有田芳生もまた、辺見庸に共感を寄せて、生ける殺人者に哀悼の意を表している、倒錯者の一人である。

  2 時間2 時間前

辺見庸◎夏深し魂消る声の残りける『棺一基 大道寺将司全句集』。詞書に「東京拘置所永山則夫君ら二人の処刑があった朝」とある。「魂消(たまぎ)る声」は、朝、とつぜんに刑場に連行される永山のすさまじい絶叫であった。大道寺はそれを聞いてふるえた。永山の声を耳にのこし、大道寺は逝った。

 
 
 
 
 
 
 

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学校からいじめを無くす根本的方法は何か。道徳教育の復活とマルクス主義の壊滅こそ、必要

 学校からいじめを無くすには、学校教育の当事者である教師たちから、マルクス主義を一掃することなしに決していじめは防止できないし、また、いじめの萌芽に断固とした確信的対処も教育もできない。

 マルクス主義とは、道徳不信の哲学であり、

教師が創価学会幸福の科学のような「新興宗教」の狂信者であってもダメである。

もし教師がそれら新興宗教の信者であれば、目の前のいじめを、「いじめは、創価学会にはいっていないから、そういう事になる」と解するからだ。

 いじめの結果、命を落とした子どもに対して、教師の取る態度が「命の大切さ」という道徳とまったく関係のない子とを強調することからも、戦後教育がいかにむしばまれているか、よくわかろう。

 いじめとは、道徳の教え直しの問題であり、それ以外のなにものでもなく、命の問題ではない。

 「自分より弱い者を攻撃するのは恥だ」「にんげんには強い者と弱い者が必ず生じる。その時、良き心根の強い者いれば、悪しき心の強い者も必ず現れるから、人は悪しき者に負けぬように、鍛錬したほうがいいし、それが不得意な者がいじめられていたら、良き心の強い者は、助けてあげるべきだ」という道徳をもはや思い起こす能力も喪失した者が現代の平和と反差別に狂奔するマルクス主義に汚染された教師たちである。

 

 

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自由と道徳 民主主義と道徳

 では、バークが自由の条件としてあげた「美徳ある自由」の「美徳」すなわち「道徳」とは、日本においてどのように息づいてきて、現代、失われつつあるのだろうか。そして、教師たちに民進党共産党議員たちは、子どもに道徳教育をするな、と言っている、その「道徳」とは、どんなものなのだろうか。

 

 新渡戸稲造

「廉恥心は少年の教育において養成せられるべき最初の徳のひとつであった。

笑われるぞ、体面を汚すぞ、恥ずかしくないのか、等は、非を犯せる少年に対して正しき行動を促すため・・・少年の名誉心に訴うることは・・・・彼の心情の最も敏感なる点に触れたのである。・・・・名誉は人間の至高善として貴ばれた。」

 

 「富にあらず、知識にあらず、名誉こそ青年の追い求めし目標であった。」

 武士道

 

 そしてバークの言う「美徳ある自由」とは、「躾しつけ」のことでもある。

「躾しつけ」がなっていないからこそ、いじめが終わらないのであって、命の大切さ以前の問題である。

 

 自由とは、「何々からの自由」ではなく、正しくは、「何々をなし得る自由」であるから、巧みな弁舌を行使する能力は、他者をだますこともできるし、他人を愉快させたり、快く納得させる能力の行使も自由である。

 前者の、詐欺をなしうるという自由が悪徳の自由なら、後者の自由が「美徳ある自由」といえる。

 

 また、スポーツの大会に出て、修練した能力を披瀝するとき、韓国人は比較的に反則が多いが、日本人にはまだ比較的フェアな作法が守られている場合が多い。

 つまり、自由とは、「自らの人間的能力の開花」のことであり、自由社会においては、共産主義社会に比べて、社会のありとあらゆる多様な能力が開花する条件が用意された社会だと言えよう。

 

 が、それでも、日本は韓国人に近くなり、韓国はどんどんシナ人に近くなっていく傾向が押しとどめようもない。

 日本人も韓国人も、民主主義、民主主義と繰り返し、「平等」「反差別」と連呼してやまない。

 鳩山由紀夫管直人らは、「社会民主連合」の綱領で「自由・平等・博愛」を言ったが、この「自由」は「美徳ある自由」の事ではない。

 そして、まさに「自由・平等・博愛」の起源になった「フランス革命」について、エドマンド・バークは、「フランス革命省察」の中で、「民衆が(日本の国会前デモのように)集団で行動するとき、どんな悪徳も悪評をわずかずつ分け持って恥じ知らずな行動をてんとして行うようになる」と言った。

 

 「完全なる民主主義はこの世における破廉恥の極み」 バーク

「人間の歴史をすべて均等化する民主主義は、生命の質的、価値内容の低下であり、人間のタイプの低下である。(現代に勝海舟も、西郷隆盛坂本龍馬のような政治家が皆無な理由)民主主義は高級なタイプの人間の養成にはまったく関心がないため、よりよき道徳性高き人を創造する力を持たない。」

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