日本の戦争とはなんだったのか
昭和12年7月7日 シナ事変
対米英開戦決意は、ドイツがソ連共産主義を危機に陥れた後である。
その後、日本は蒋介石が米英に支援されていることを知りながら、あえて蒋介石をつぶしにかかる。つまり、蒋介石政権との交戦が長期化すればするほど、英米との対立が深刻化することを知りながら、蒋介石政権との対決を深刻化させて行った。
※産経新聞「正論」元編集長上島嘉朗は「中国大陸の不拡大方針を軍部が無視して戦線拡大に走った」と別冊正論「大東亜戦争―日本の主張」に書くが、事実誤認である。
この時、シナ方面への強硬策を説いたのは、メディアであり、近衛文麿と書記官長風見章は、軍部の中の戦線拡大派と反ソ派の対立のうち、戦線拡大派を支援した。
また、上島嘉朗は、答案のわかっている現代から、「父祖たちを裁いてはならない」と言うが、そうではない。「父祖たち」ではなく、当時の「政府要人」「メディア」「政府諮問機関知識人」が裁かれねばならないのである。加害者は彼らであり、父祖たちは、被害者でしかない。被害者でありつつも、個々の兵士はアジアの解放のために尽くした兵士もいれば、ただ日本政府のいわれるままに戦地に行って、飢えたり、流れ弾にあたって死んだり、病死をしいられたのである。(上島嘉朗は「父祖たち」を強調する。だが、多くの日本国民は当時、戦争をなぜするのか、わからず、ただ始まったし、招集されたから、義務を果たしたに過ぎない場合はおおかたである。そこに開戦責任も指揮責任(敗戦責任)もあるはずがない。)
東條内閣
ソビエトのスパイ、ハリー・ホワイト財務次官がハル・ノート作成
東條内閣はハル・ノートを日本国民に公開しなかった。
また、米国も米国国民にハル・ノートを公開していなかった。
これだけでも、日米両国民に開戦責任はないと言っていい。
当時の戦争責任は次のような者たちにある。
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スム―ト議員、ホーレー議員の保護主義政策とこれを議会通過させた米議会。
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米国政権内部にスパイを送り込んだソ連の重大な干渉。
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満州にテロリストを送り込んだソ連
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満州を新興中華民国の領土と規定した孫文、蒋介石の倨傲。
※これに比べれば一応主権を「満州国」のものとした日本軍は国際法に則った行動をしていた。
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「帝国主義戦争」という奇怪な発想を考え出したレーニン
※帝国主義国同士を戦わせて、疲弊した国から革命を起こさせるというもので、まったく反戦でもなんでもない。
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日本が満州について米国資本を受け容れなかったという失策に続いて、米国の対日感情が悪化。1913年、日本人に土地の所有権を認めないという「特定民族」を差別する法案を通した米国カリフォルニア州)の失策が重なる。
当時米国建国の既得権層のWASPは、(クリスチャンによる)反ユダヤ、異文化である日本への嫌悪(欧州系移民と日系移民が競合して対立)、反黒人などの感情とWASPにとって暮らしやすい社会を構築するために試行錯誤を重ねていた。
つまり、野蛮な侵略国日本を理性と善意・民主の米国が裁いたというわけではなく、米国自身が黒人差別、ユダヤ人差別・黄色人差別を抱え、同時にソ連は米国政府に共産主義スパイを送り込む状態だった。
そして日本もまた、新聞記者たちは、ソ連共産主義を擁護し、シナ膺懲を国民、軍、政府要人に吹き込み、東大・京大の教授たちは盛んにマルクス主義を翻訳出版して、ソ連を肯定的にみる青年を援けた。そのため、日本人は、ドイツがソ連に攻め込んだ時、ソ連を倒して満州から北部方面を制圧すして、米英と協調するという発想をもたなかった。
7.GHQの言論統制は、これを褒めることはないにしても、非難することはできないのは、その時代、日本もまた、言論統制を行っており、かならずや日本が勝利した場合も言論統制したに違いないことが容易に予想できるのは、日本海軍が大いにウソの大本営発表をやっていたからである。そして、ドイツはもちろん、ソ連も国民に情報統制と洗脳教育を行っていたし、米国よりもはるかにひどい言論統制だった。
当時米国は、米国国民自身にも、米国の正義を宣伝これ務めたと同時に日本軍国主義の悪を宣伝したが、これは米国の言論の自由原則から、たちまちのうちにほころびる宣伝であった。
もし、GHQが米国主導のものではなく、ソ連、中国主導のものであったなら、日本の自虐思想はもっとひどいものであったろう。
8.近衛文麿とそのブレーンの親ソ共産主義者の考え出した反英米思想に発する「大東亜新秩序の建設」は松岡洋祐によって「大東亜共栄圏の確立」という表現に練られて、これは日本人の多くに英米という巨大な国を敵とする事への躊躇を麻痺させる機能を果たした魔語であることは確かであろう。
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チャーチルは国境をはさんで欧州諸国がありながら、ソ連共産主義に対して強い警戒感を持っており、ドイツが崩壊するやすぐさまソ連の危険性を米国の知識人に喚起したが、日本の首相経験者にはチャーチルほどのソ連警戒感はまったくなかった。
※もっともルーズベルトをはじめ、当時の米国人もすっかりソ連について甘い見方をしていたわけで、それには、ニューヨークタイムスの親社会主義派の記者がソ連の悪い話を記事にしなかったということもある。
が、大戦後、蒋介石政権を支援するつもりだった米国は、ソ連が毛沢東を支援して、共産革命を起こそうとしていることに気づいて、もし全世界の共産化が進めば、米国国内の共産党が米国国民の支持を受けるなどという悪夢の始まりになる、とあわててソ連を仮想敵国とみなし、半島と日本をアジア地域における反共の拠点と考えるようになる。
この米国の政策転換は、日本の企業の自由な活動にパワーを与えることになって、日本国民は繁栄を享受するきっかけを得ることになった。
10.そして、チャーチルもまた、過ちを犯していたが、それは大西洋憲章で「領土不拡大・通商・資源の均等解放」「民族自決」と理想的理念を掲げながら、実際には、英国議会において、大英帝国とフランスのすでに持っている植民地は例外と答弁していたのだから、この時点で人類は、「パリ不戦条約」において進歩したが、日本は世界の趨勢に反して武力に訴えた罪があるなどとは言えないし、ましてや第二次大戦後、領土紛争に関連してフランス、英国は戦争をし、ソ連はハンガリーに侵攻しているのだから、パリ不戦条約は日本を戦後日本の知識人(猪木正道や加藤陽子)が非難する理由にはなりえない。
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ソ連は「ソ連国家の拡張主義を糊塗して、世界中の国をソ連傘下に治めることをもくろんで、善意の共産主義者を使って世界各国に共産党を設立させた。それはちょうどポルトガル、スペインの宣教師が世界中に宣教師を送り込んで世界支配を目論んだと同じ事である。この点で、ソ連が日本の「侵略性」を非難する資格はソ連にはない。
このソ連のコミンテルン戦術は、日本共産党という形ではなく、別な形で結実する。それは、日本共産党が存在するゆえに希望を持ちえた河上肇が日本共産党に寄付をしつつ、マルクスの翻訳に取り組み、これが近衛文麿や三木清をはじめ、陸軍、海軍、新聞記者たちにマルクス主義が浸透していくきっかけを作って、いかに治安維持法が日本共産党を摘発しても、非共産党の日本知識人はマルクス主義に強く深く感染して、ソ連を愛すべき人類の未来につながる国、英米フランスは、反道徳の国という観念が固まってしまい、そういう米国財閥の宋一族そのものである蒋介石もまた、もうけ主義の亡者としか見えなくなったのは当然である。
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中国共産党もまた、共産党一党独裁体制を確立し、その後維持するために行った政策は、3千万人とも4千万人とも言われる餓死者と無実の獄中死をもたらした点で、日本批判は現在の中国共産党の卑劣な過去と現在の少数民族支配を隠蔽する道具でしかないのは明白だ。
したがって、中国の主張する日本悪逆論に首肯するふるまいを日本人がするとすれば、それは中国共産党の卑劣性を肯定する所業にほかならない。北朝鮮・韓国についてもこれは同じことで、北朝鮮は言うまでもないが、韓国に対して日本が過剰な拝跪をすれば、韓国人が「光復後」に犯した「済州島虐殺事件」「保導連盟事件」を歴史から抹殺して、日本の非道を世界に向けて発信する資格があるのかと言わねばならない。
12.日本が日露戦争でロシアに勝利しても、大東亜戦争で英国を駆逐しても、植民地からの独立は、非植民地国が自らの力で勝ち取るべきもので、勇気をもらったというのは、二義的問題である。
日本が米国に敗北せずに講和しても、敗北して講和しても、米国は現在とあまり変わらない発展をしたろうが、日本が敗北しなかった場合に現在ほど発展したか、はなはだ疑問と言わざるをえない。
米国人、米国企業との友好的な貿易こそが、日本の発展の原動力となったと思われるのである。
では、敗北してよかったのだろうか。そうではない。英米と戦争をするのではなく、マルクスという奇胎の思想が人類史に出現した以上、現実の国家に胚胎する前にソ連をつぶし、ヨーロッパに位置するファシズム国家ドイツは英米につぶさせるべきだった。
そのうえで自由主義国家群の自由貿易を続けて、徐々に植民地を独立させていくべきだったのである。
日本国民300万人の犠牲、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア虐殺は、共産主義がロシアにおいて国家として結実して、ロシアの国家資産が世界各国に投入されたことが大きい。
米国の資力が西側諸国に投入された結果、西側各国は発展し、豊かさを得たが、コミンテルンとソ連の支援を受けた国々は、内戦と餓死という悲惨な運命に陥ったのである。
では、敗けて良かったかと言えば
昭和16年12月8日 米英に宣戦布告
昭和16年12月12日、この日12年7月7日から「大東亜戦争が始まった」と規定する。
昭和18年11月 大東亜会議
昭和20年8月14日 ポツダム宣言受諾連絡
昭和20年8月15日 停戦を日本国民に周知
9月2日降伏
昭和27年4月28日 終戦
進歩主義とはなにか
封建制から絶対王制(天皇制)フランス革命(明治維新)を経て資本主義へ、帝国主義戦争を経て社会主義革命へという歴史の必然法則理論である。
敗戦から4か月後、1946年元日の朝日新聞は米国式言論の自由を謳歌して、スターリンを礼賛した。
敗戦後獄中17年の共産党幹部が刑務所が飛び出してきて、日本共産党の朝鮮人たちに迎えられたので、日本人は共産党が革命政党、社会党は社会福祉の党と思い込んだ。
だが、実際はソ連のコミンテルンに金をもらって指導された人々の作った党か、マルクスの本を読んで社会主義にあこがれた人が指導している党かの違いである。
社会主義が歴史の進歩の最先端だと信じる人の典型が法政大学総長大内兵衛。
彼は科学的社会主義の科学という言葉の意味をわかりやすく示した。
大内によると科学とは、空想ではなく、実現しうるという意味だった。
1950年代のソ連のエネルギー資源採掘技術による資源確保量も機械生産力も米国の半分程度だった。こんなことならドイツがバルバロッサ作戦でソ連に侵攻したとき、日本はソ連をつぶしにかかればよかったのに。そうすれば、北朝鮮にミサイルを撃って太平洋に沈めるぞと脅されたり、朝鮮人に生活保護をしろと迫られることもなかった。
羽仁五郎の説く民主主義とは、多党制は関係なく、「失業、恐慌のないこと、だれもが教育を受けられること、託児所が豊富にあること」だった。米国も日本も失業と不況が絶えず起こり、託児所は慢性的に不足している。ソ連、中国、北朝鮮はすべてがあるらしいのだった。
封建制から絶対王制(天皇制)フランス革命(明治維新)を経て資本主義へ、帝国主義戦争を経て社会主義革命へという歴史の必然法則理論が進歩主義だが、フランス革命では、革命政権の徴兵を拒否したヴァンデー地方の人々が数十万人殺害処刑された。
1962年マルクス主義経済学者の野々村1970年には、ソ連の工業力は米国を追い越すだろう」と予測し、日本共産党支持者、社会党支持者は快哉を叫んだが、その後、米国の工業力、技術特許収入を追い越す一党独裁政権は一度も生まれたことがない。
1960年、岩波書店「世界」で当時神奈川県知事で共産主義者の長洲一二は「世界市場での価格競争で資本主義は負けるだろう」と言ったが、当たったのは、質の悪い製品の価格競争でのみ、社会主義は勝ったということだった。
進歩主義者はソ連のハンガリー侵攻をうやむやに擁護し、中国の文化大革命、天安門事件をうやむやに擁護。北朝鮮の拉致犯罪は行方不明にすぎないのではないかとごまかしてきた。しかし、彼らはそうした非難をかならず真っ先に擁護し、だれの目にも明らかになると、断固として非難すると声高に言うのだった。
今でも高級官僚には、日本共産党党員は少なくないだろうが、労働省婦人課長田中寿美子はそのハシリだった。田中は1964年に岩波新書「ソビエトの婦人と生活」を書いて、「私有財産制度を廃止し、搾取のないソビエトでは、キリスト教に凝る母親の養育権を奪って父親の権利とする。資本主義の家庭の危機はもはや解決された。」と書いた。
1977年当時現在(2017年時点)の民進党の前身である旧社会党の指導者だった向坂逸郎の発言。「ソ連人の教養というものはね。日本人と比べ物にならない。はるかに高いです。思想の自由も日本と比べ物にならないほどある」
「政府に反対する自由は絶対ないです。体制に反対するのは裏切りですから」
1977年「諸君」7月号 社会党指導者の向坂逸郎インタビュー
「非武装中立は、社会党政権になって、米国の軍事力が社会主義日本を圧迫しても中立なんですか?」「その時になったら、あらためて考えなおす」
1968年「世界」10月号では、ソ連のチェコ介入について、2017年の北朝鮮擁護とそっくりな弁護をしている。「軍事偏重は資本主義国が包囲するから不安になった」
「西側が敵視するから、硬直して変革できない」「西側が封鎖するから経済困難になる。制裁を解除するべきだ」
自民党の幹事長、政調会長、官房長官、防衛庁長官経験者、日中友好協会会長経験者の加藤紘一は、学生時代東大の坂本義和のゼミに属した。坂本義和の持論は、「米国はソ連に対して圧倒的優位だった時に対ソ協調を図ることが可能だったのに協調しなかった」
これに学んだのか、加藤紘一は中国、北朝鮮にODAやらコメ支援やらを送り続けた。
1975年ソ連共産党がヘルシンキ宣言の「話し合い」で米国は軍事費を削減したが、ソ連は軍事費を拡張し続けた。同様に北朝鮮も、米国が軽水炉原発技術や重油を供給すると約束しても、攻撃用核兵器を開発し続けた。
ソ連と北朝鮮の大きな相違点。それは、レーガン政権が欧州にパーシング2戦術核と巡行ミサイルを配備、SDI構想を打ち出した時、もはやたちうちできないと悟ったソ連軍部は共産党に従わなくなったのだが、北朝鮮は意気軒高だという点がちがう。
佐藤和夫千葉大学教授は1990年ソ連崩壊が迫ると、「東欧の豊かさ日本の貧しさ」でユーゴスラビアの人々は競争主義から免れ、豊かな社会保障が受けられて幸せだと書いたが、たちまち1991年からユーゴスラビア紛争が始まった。
1952年の時点で同志社大学教授の蜷川新は「経済往来」8月号に「日本国憲法」は「資本主義を否認している憲法を持つ日本の人民は、ソ連、中国の現に共産主義を実行している国の人民の幸福を祝うべきだ」と書いた。
1955年岩波新書「昭和史」は、朝鮮戦争について「北朝鮮軍が侵略したという理由で韓国軍が38度線をこえ進撃した」と北朝鮮の侵略はデマで、韓国の侵攻が実際であるかのように書いて、朝鮮総連を喜ばせた。実際には、北朝鮮は釜山まで侵攻し、米軍は仁川上陸して反撃した。日本にリベラルは、米国がわざと北朝鮮に侵攻させたのだと信じた。
1973年9月7日札幌地裁長沼基地訴訟判決は「交戦権否認は自衛権をも否認している」として、「侵略国国民の財産没収」をして抵抗すればいい」といってのけた。
1979年3月森嶋通夫輪舞大学教授は、「他国に侵略されたら、支配されて日本に適合した社会主義につくり変えればいい」と侵略国国民に都合のいい法律が適用されることを想像していないようであった。
1980年9月社会党の石橋正嗣は「攻めるとか攻められるとかいうとげとげしい関係にならぬように努力しつつ非武装になるのです」と言って、その後、社会党は、北朝鮮、朝鮮総連との友好関係を強めていったが、日本の植民地の極悪性を喧伝したために、朝鮮人の日本憎悪を助長した。
1982年岩波新書「憲法第9条」で小林直樹は、平素、日本は朝鮮人を強制連行したというのが持論であるにもかかわらず、「日本は占領しても日本人の人口が多くて占領しずらい国」と、日本人が逆に強制連行されることはありえないかのように、国防不要論を唱えた。
1893年生まれの柳田謙十郎は1942年には、51歳の壮年。戦時中に「日本軍の将兵たちは弾丸飛雨の中、天皇陛下万歳を唱えつつ安らかに死んでいくことができる」と唱えて喝采を浴びたが、戦後は日本共産党に入党。日中友好協会会長、革新都政を作る会の呼びかけ人になって、戦中戦後通じて喝采を浴びて老後を楽しく過ごした。
平成3年4月末 海部俊樹首相が謎の演説をする。
この時、すでにサンフランシスコ講和条約を経て50年もの間、武力紛争のかけらもない日本の首相が、いったいなんの意図があったのか、わざわざ事あらためてシンガポールで「アジア・太平洋地域の人々に苦しみを与えた」(アジア・太平洋の人々にとっては三年半)と反省の意を表明する。
ちなみに、これを聞いたインドネシアの元新聞記者ヤン。ヴィダルは「5百年アジア・アフリカを支配したヨーロッパ諸国が謝罪したことなどないのに、日本の首相が今謝罪する意味がまったくわからない」と首をひねった。
またこの時点で中国はチベットを植民地支配し、台湾を恫喝し、香港の民主化を弾圧し続けている。にもかかわらず、日本政府は中国と友好条約を結び、友好関係を持続しながらのこの発言である。
アジア諸国が中国の脅威に対して対抗できるよう、日本の助力を期待しているとき、日本は中国に悪い事をしました、反省しています、中国に対抗してアジア諸国が断固としてスクラムを組むべきこと、そのために日本は技術と資金の援助を惜しまないと意味を含む演説を一切行わなかった。
ヨーロッパにも中国という覇権主義大国にも従属したくないアジアにとって、日本が中国および韓国の反属国になるのは、自国の危機に直結す問題なのである。
韓国が日本の技術をすべて盗んだ上で軽量機器産業でアジア地域のトップに位置したとき、アジアは韓国の産業、中国の軍事力に牛耳られることになる。
ましてや、中国・韓国の日本に対する歴史攻撃の詐術によって日本が衰退するならば、その詐術の手口は、台湾、フィリピン、インドネシア、ベトナムなどの国々にも応用されて、やがてアジア地域は韓国と中国の世紀になるとという悪夢さえゼロとは言えない。
「広島の原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」について作者の広島大学教授雑賀忠義は「この過ちの主体は広島市民」「広島市民が軍国主義、戦争に加担するという過ちをして、反省し、死者に謝罪したのだ」と明言した。
(日本を経済封鎖した米国ルーズベルト政権が日米戦争の責任者だというパール判事への反論として)
この雑賀忠義の考えは間違っている。戦争責任というのは、政府最高決定会議の当事者にあるのであって、その国の国民が開戦責任を死者に反省するなどでたらめもはなはだしい。
どんな戦争も一義的に「政府最高決定権力者」そこに大きな影響力を及ぼした諮問機関の知識人、マスメディアにあり、もし、広島に碑文が書かれるとすれば、ソ連に対抗することなく、シナに向けて軍事侵攻のかじを切ったメディアの主要メンバー、諮問機関の知識人、政府要人の名前を書き連ねるべきで、市民の名のもとに謝罪するなどとんでもない。
むしろ、メディア、諮問機関知識人、政府要人の名をはっきり書いてこそ、末代まで過ちを刻印される責任のある仕事をしているのだという事を現代の政治家、知識人に自覚させるべきなのだ。
実際、広島市民が過ちを犯したというが、当時広島市民は原爆というものが世の中にあるという事実を知る由もなかったのだから、雑賀教授の言う広島市民の過ちとは、戦争そのものに反対しなかったという責任になる。
だが、当時、戦争に反対する政治党派は、共産党以外にはなかった。しかも、戦争に反対する理由は、ソ連を防衛するための、反戦であって、共産主義者はソ連に攻撃を仕掛けるのでなければ、仕掛けて日本が自滅するのを望んでいたから、日本国民のとるべき選択は、膺懲シナを叫ぶ朝日新聞を買わないという事くらいの事しかできなかったのが、実情である。
そして、朝日新聞が膺懲シナを扇動するとき、それにだまされないことがどれほど至難のわざであることか、そんな至難の技ができなかったからといってそれを過ちだなどということはできない。
当時最も重大な罪を犯した当事者は、近衛文麿、風見章、朝日新聞記者の三者だと言っても過言ではない。なぜなら、彼らは自分自身は身を痛める立場でないにも関わらず、多くの人々を死地に出し、その家族を塗炭の苦しみに追い込んだからである。
日本のとるべき選択は、ドイツがソ連に侵攻した時、日本もソ連に侵攻してソ連共産主義を崩壊させ、ドイツに対しては英米に任せるべきだった。そして、アメリカのフィリピン独立の流れと同様、日本は徐々に朝鮮、台湾を自立させ、切り離しつつ、英米・欧州との貿易を持続させていくのが懸命だった。
この時、朝鮮に王族を戻して大韓帝国に戻すように交渉して、英米日共同で韓国を支援するようにしてやれば、今のようにひねこびた民族主義と親北朝鮮に領導された半日プロパガンダはなかった。
1945年以降の日本人のゆがみは、米国の大半が共産主義への共感と決別したにもかかわらず、日本の知識人だけが、ソ連派、中国派、北朝鮮派という形で強い肩入れを行ったということにある。
もうひとつは、英国、フランス、米国は、自国と利害の対立する外国に対して、謝罪、支援を行った例はないが、日本に限って、奇異にも「韓国という産業上の競争相手になる国」に巨額の援助を続け、法的便宜を図ったという事である。
特に対韓関係で日本が犯した大きな過ちは、米国の場合、欧州からの移民受け入れは後に「米国国家」に総体として貢献する米国国民を形成することになったが、日本の在日韓国人知識人の場合、ロシア系米国人、ポーランド系米国人、ユダヤ系米国人とちがって、日本国家そのものの破壊イデオロギー、歴史ねつ造プロパガンダの発信者として猛威をふるったという事実である。
たとえば在日韓国人映画脚本家の李相日は、米国映画「許されざる者」を曲解して日本版にリメイクして、「少数民族アイヌを虐待した」という物語をこしらえあげて誇張している。
「許されざる者」と慰安婦問題
許されざる者
1992年 米国 アカデミー賞作品賞受賞作品
この作品の主人公は「登場しない人物」であるという点で非常に特別な脚本である。
わたしはそう見たのだが、意外に、他の鑑賞者の感想文を見ているとその点語られていないので、書き記しておこうと思う。
見巧者の町山智浩なら、言及しているかもしれないと思って確認してみたが、やはり言及してはいなかった。
イングリッシュ・ボブという高名な賞金稼ぎのドキュメンタリーを書くために随いてきた雑誌のフリーライターが、本で読んだがこのイングリッシュ・ボブさんは、英雄的な人だと思っているから、随いてきたんだ、というと、保安官は「それに書いてあることは、嘘だ。なぜ嘘だとわかるかというと、俺はその場にいたからだ」と実際にあったことを説明する。
それで、そのフリーライターは、その誰かが書いた記事はフィクションだったことを知る。実はこのシーンがラストの伏線になっていて、作品の最後に「登場しない主人公」である「クローディア」の母が長旅をして、娘クローディアに会いに来るが、すでにクローディアの夫もその子どももクローディアもどこかに引っ越していていない。母は、娘クローディアが病気で死んだことさえわからないまま、帰るわけだが、その時、最後まで疑問でならなかったのが、なぜあの娘がならず者なんかの妻になろうとしたのだろう、不思議でならない、という思いだった、と説明される。(正確には、このクローディアの母は、娘が病気で亡くなったのは人伝てに聞いたが、ただ一人娘の孫に会いたかったのかもしれない)
なぜ、このクローディアの母が、そういうふうに思うかというと、主人公のウィリアムマニーが「許されざる者」たちに敢然と立ち向かい、闘って、最後に「娼婦を人間らしく扱え」と叫ぶ男だということを目撃していないからであるのだし、その前に、生前の一人娘クローディアがウィリアム・マニーと若き日に出会って話したり、食事したりする時のマニーの態度を見てはいないからである。
この実際には見ていない場合、人はまったく違う事実を事実と信じ込んだまま、真実は埋もれていく、ということが、すでに保安官とフリーライターの「あの記事は嘘だ。なぜなら、あの場に俺はいて、見ているからだ」という場面が伏線になっている。
町山智浩は保安官がファシストだというが、そうではない。
※町山はファシストを暴力と強圧で支配する者という意味で言っているらしい。
専制君主のようにふるまっている、とか独裁者のようにふるまっている、という表現のほうが近い。
この保安官はどういう人物かというと、犯罪行為に対する裁きを下す権限を持っている状態で、その判断に対する批判を暴力を行使して許さない、その上で、その町における地位と自己の人生の安定を確保しているのである。
ところが、実際にやっていることは、娼婦を人間扱いしないことだ。
つまり、カッとなっただけで女の顔をナイフで切るような卑劣な行為をした町の男を、半殺しの目にあわせて町から追放するくらいが妥当なところを、何頭かの馬を売春宿の経営者に差し出せ、という罰だけで済ませる。
憤懣やるかたない娼婦たちはお金を出し合って、賞金を出して、顔を切った卑劣な男を殺してくれ、と依頼を出す。そんな賞金目当てに来た賞金稼ぎによって卑劣な男は殺された、これは保安官にとって自分の治安を差し置いた無法ということになる。
本来、保安官は賞金稼ぎを許さないというなら、それはそれで賞金稼ぎで殺人を犯した者を追及するべきだったが、感情的になって、賞金稼ぎの名前を隠しただけの男を殺してしまう。だから、「許されざる者」なのである。
「許されざる者」とは保安官で、この保安官がなぜ「許されざる者」なのかというと、「娼婦を人間扱いしていない」ということ。そして「人を殺してもいない男」をそうと「知りながら殺して」いるからである。
もうひとり「許されざる者」がいる。売春宿の経営者である。(ただ経営者だから、許されないというのではなく、その経営者の態度が、女たちをないがしろにしていて、人間扱いしていないというように描かれている。
この映画は、ウィリアム・ビル・マニーが、なぜ女房が亡くなった後も酒も飲まず、友人から、女を買って遊ぼうじゃないかと言われても、いや、俺はいい、死んだ女房に申し訳ないというのか、・・・そんな女性とは、いったいどれほど人間的魅力にあふれる女性だったんだろう、という謎を提示しているのである。
ウィリアム・ビル・マニーは、俺が多少ともまともに生きられるようになったのは、死んだ女房のおかげだ、とも言っている。
顔を切られた娼婦デライラは、自分の顔を切った卑劣な男の殺しを依頼するお礼に、私を抱いてもいいよ、というが、マニーはそんなことしなくていいから、という。
すると、デライラは、自分が顔を切られていて気持ち悪いからなのかな、と思うそぶりを見せる。
マニーは、「あっ、そうじゃないんだ。君は顔に傷がついていても、美人だと思うよ。それに他の娼婦も含めて誰かを選べと言われたらきっと君を選ぶと思う。おれがそれを望まないのは、妻に申し訳ないからなんだ」
デライラは驚いて、「そうだったんですか。わたしはいままで、不実な男性ばかり見てきたものですから、気がつかなかった」
マニー「そうだね、不実な男は多いよね」
という会話があり、さらにこの後、デライラは、娼婦の館に帰ってから、仲間達に「あのマニーさんは立派な男だわ。奥さんに申し訳ないから、抱かないって・・・」と言う。
「マニーに奥さんはいないわよ。もう亡くなってる。」
デライラはマニーが帰ってから、奥さんに隠し事をしたり、バツの悪い思いがするのが嫌だというのではなく、亡くなった奥さんを愛し続けてるのだと知って、いったいそこまで、ひとりの男性の誠実さを引き出す女性とは、どんな女性だったのだろうという厳粛な思いになる。
マニーが娼婦たちを人間扱いしなかった許されざる者たち5人を皆殺しにして立ち去る時、デライラの顔がアップになって、畏敬の念さえ浮かぶのは、マニーに対する畏敬の念ではなく、マニーの亡き妻への畏敬の念を示す表情なのだ、という演出が施されている。
娼婦を人間扱いしろ、というウィリアム・ビル・マニーの叫びは、殺した五人のごろつきと遠巻きに見守る町の者たちに向けられている。
けっして米国という国には向けられない。
それは国家の擬人化された善悪の悪ではなく、ひとり一人が負うべき倫理だからだ。
ひとつ言っておけば、韓国の慰安婦問題とは、人間の個人倫理の問題を国家の擬人化された善悪問題における悪として抽出して、むしろ問題を矮小化してしまっているのである。
だからこそ、朝鮮人の親、朝鮮人の売春業者の倫理が、卑劣軽薄にも放擲されて平気なのである。
この映画は日本映画でもリメイクされたが、日本のリメイクでは、わたしがここで説明した「登場しない人物」が実は主人公だという側面、そして、物事の真実は語られない限り、埋もれてしまうというメカニズムのこと、この二点重要なモチーフはまったく理解されていないようだ。
この文章を書くにあたって他の複数の映画ブログを確認したが、ほとんどの人は町山智浩氏の解説にひきづられているようである。
マニー自身が許されざる者という感想が多いのだが、もしそうなら、五人を殺してひきあげるマニーを畏敬の念を持ってみつめる娼婦も許されざる者となり、全員が許されざる者だというなら、およそそれは相対的でそこに善も悪もないというアノミーになってしまう事に気づかない人が多い。
戦後民主主義とリベラルの敗北
1955年までは日本の産業構造は農業水産業中心であったから、実際には農林水産業従事者は、共産主義思想、政府転覆思想を理解する素養自体がなく、同時に「快楽消費に対する渇望」がなく、ある程度村々の中の生活に充足していた。そのため、普通選挙は、むしろ、現状追認の保守政党が政権を取る結果となった。
高度成長に入ると、それはそれで農林水産業から第二次産業に移動した人々には、それなりに希望が生まれ、豊かさへの憧れはアメリカ映画、テレビ、音楽がなによりの証拠として作用して、いかに進歩的知識人がソ連は良い国と述べ立てたとしても、現にソ連の豊かさ、華やかさを証明するソ連映画はなかったから、多くの日本人は米国と協調する自民党政権を選択し続けた。
これはやがて自民党の派閥政治、収賄・利権政治の醜悪な側面が鼻につくようになり、1950年代に20代から40代だった人々が40代から60代を迎えて、ちょうど子どもの世代が社会の中枢になった1970年頃から、前世代の日本人の保守性、無教養性、盲従性が嫌悪されるという形で世代間対立が起こるのである。
そして、1970年に20代だった青年達にとっての教祖的役割を果たしたのが、1974年にアメリカがベトナムから全面撤退するまでに活動したベトナム反戦運動の小田実。
1967年の「万延元年のフットボール」で安保闘争のような政治運動を肯定してみせた大江健三郎の二人であった。
小田実、大江健三郎がさらに飛躍的に当時の20代から40代の日本人の心情をつかむには、小田実、大江健三郎が賞揚した中国・北朝鮮が事実、輝きを示す必要があったが、そうではないということが、革新派の致命傷になり、ついに共産党・社会党の連立政権は戦後日本にただの一度も実現しなかった。
ここで、朝日新聞・岩波書店、日本共産党、社会党、大江健三郎と小田実の使った詐術が、豊かさよりも「平和」「反核」が大事だという発想である。
これは米国の発展とこれに相似する発展を続ける日本について、「核の危機」に覚醒しない、また「核の危機の元凶たる米国」と決別しようとしない日本人は覚醒していないのだという批判を若い世代に対して小田実、大江健三郎は突き続けたが、これまた、中国が軍拡を続け、北朝鮮が一党独裁制を強化し続けている実態が知られるに連れて、小田実、大江健三郎は信頼性を失っていった。
やがて1990年代になると、この時点での20代から40代の日本人の意識は、ソ連崩壊と労働組合役員の管理職への成り上がりという現象が多数見られるようになったことを体感したことから、社会党・共産党の自治体議員から国会議員までも、結局は自分一身の政治家としての利益がほしいというのが本音ではないのかという疑念が普遍化していく端緒でもあった。
さらに同時にバブル景気と大衆文化の高揚がみられてきた。
1990年のアメリカ映画「フィールドオブドリームス」「いまを生きる」「オールウェイズ」「ドゥザライトシング」英国映画「マイレフトフット」「マグノリアの花たち」台湾「非情城市」「アイリスへの手紙」「ダイハード2」「バックトゥザフューチャー3」「ゴーストニューヨークの幻」「グッドフェローズ」「トータルリコール」「プリティ・ウーマン」というように、西側資本主義国が精神的な豊かさと経済的豊かさの可能性を持っているのではないかと思わせるに十分な大衆文化の達成を示した。
一方日本の大衆文化はこの頃、映画は著しく衰退したものの、大衆歌謡はシンガーソングライターによるヒット曲が爆発的に開花した。
邦楽年間ヒット曲の上位10曲のうち、歌手と作詞作曲がまったく別の組み合わせである曲は4曲で、過半数はシンガーソングライターという現象が現れ、これは1990年から1994年まで変わらぬ傾向だった。
これは日本人の経済的な豊かさが、精神的な豊かさに至ったことを意味しており、果たして「革命」が必要なのかどうか疑わしくなったことを意味したのが、奇しくもソ連崩壊の年と一致していたのである。
このような状況で、「平和の大切さ」を訴える戦後民主主義(2017年になって名称をリベラルと自称)は、大きな欺瞞を抱えた思想ではないのかと問われざるを得ない。
なぜなら、平和とは、ただ「戦争ではない状態」なのであり、人間にとって大事なのは、
1990年から94年の邦楽ヒット曲の次のような歌い手の世界が表現する細やかな人間世界の洞察がなければ、「平和」それ自体に意味はないという事を若者は実感しはじめるようになっていった。
米米CLUB、LINDBERG、たま、プリンセス・プリンセス、THE BLUE HEARTS、長渕剛、サザンオールスターズ、小田和正、中島みゆき、浜田省吾、荒井由実、CHAGE&ASKAなどである。
慰安婦・夫婦別姓・福島瑞穂。日本共産党・ソ連
日本共産党はソ連と闘ってきたと嘘をつくが、1949年総選挙で日本共産党は4議席から35議席へと躍進。1946年のベストセラーがソ連のスパイとして処刑された朝日新聞記者尾崎秀実の妻との書簡集であったから、この頃、共産党支持者の日本人はソ連に通謀する日本人を英雄視していた。
ノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんは、「小さき人々」と呼ぶ民の声を発掘し、チェルノブイリ原発事故被災者の苦悩を描き。2000年に「小さき人々」をテーマに対談した作家・徐京植さんと16年ぶりに再会し、未来をいかに生きるか、語る。 こうしてNHKは徐京植をゴリ押し
米国の現代の価値観では、売春はホワイトスレイブリーである。米国において、韓国人売春業者が「ナゴヤ」だの「日本人女性がいます」などと偽ってマンション売春を行っているのは、明白なホワイトスレイブリーである。在米日本人はぜひ、この件の報道を収集して、米国人に知らしめてほしい。日本の女性人権団体は、韓国人権団体と協力して、ソウル市内に韓国女性の国内から国外に進出するまでのニュース報道の変遷史を交えた記念館を設置して海外観光客と韓国人に広く知らしめて、この恥ずべき現代の性奴隷制度を根絶するべきではないか。国連でも、韓国人権団体と協力して発表するとよい。
2004年性売買特別法の禁止強化により、韓国人売春婦が台湾に大挙して進出し、台湾で売春に従事する外国人女性たちを追い出し、「売春市場で韓流が流行」と報じられた。2011年韓国MBC放送は、韓国人売春婦が日本、オーストラリア、米国に、10万人おり、韓国政府は困惑しています、と放送。
カズオイシグロの「私を離さないで」のクローン人間はいわば人為的な種族なのである。夫婦別姓夫婦とその子は、「夫婦別姓」という新法創出の慣習外の人為によって作り出される新しい種族であり、かならず親子関係の希薄な、なおかつ母違い、父違いの兄弟姉妹を持ちがちになる。
福島瑞穂の言う「事実婚」推奨思想は、イケメン、金余り男の妾好き、(舛添が事実そう)ヤリマン、捨てられ子、親子関係の希薄な人間が大発生。そういう人間でも国家によって高等教育を受けて心情はアナーキー。 これはカズオイシグロの「私を離さないで」のクローン人間の心情で描かれる虚無と同一。