朝鮮戦争 1

朝鮮戦争と韓国人

 朝鮮戦争についての総合的、学術的論文を在日韓国人を含めて、韓国人が著述したのは、1990年のキムハクジュンがノ・テウ政権時代にまとめたのがのがはじめてである。

 

 つまり、1990年になるまで、韓国人は韓国人自身になる朝鮮戦争の説明を詳細に知る機会がなかったのである。

 

 ドイツと朝鮮半島第二次世界大戦後の分断が起きた。

 韓国の保守派の基本認識は次のようなものである。

 1.1910年の韓国併合は強要であり、合意に基づくものではない。

 2.9年後の1919年3月1日の三一独立運動のあと、4月に中国の上海に「大韓民国臨時政府」が樹立された。

 ※しかし、この抗日独立闘争は米国、ソ連、中国、国内に分かれて、さらに中国では、華北、上海、満州に分かれて、司令塔のないてんでばらばらの「抗日闘争」になった。

 

 3.そして、これら多数に分立した諸派は、極端な対立を生み、統合性を失った。

※そこで以後、韓国マスコミが三一運動と大韓民国臨時政府に言及するとき、後段の「すぐに瓦解しててんでばらばらの国家を思い描くことになった、ことは閉ざして語らないことになった。

 すでにこの時点で共産主義国家と自由主義国家の分断の芽が生まれていた。

 同じ抗日でも、共産主義自由主義との対立が生まれたばかりではない、自由主義の本音は、両班支配の復興にすぎず、自由言論の追究を求めるものとは必ずしもいえなかった。

 

 大韓帝国臨時政府が「自称政府」に過ぎないのは、それが「政府」といえるためには、国際社会の承認が必要なのであるが、「朝鮮人を日本の奴隷状態から解放する」と日米戦争の初期に宣言したアメリカでさえ、上海の臨時政府を政府として認めなかった。

 

 アメリカが上海の臨時政府を「政府」を認めなかったのは、世界各国の独立派の統合機能を果たしているのではなく、単に名前ばかり、「臨時政府」であり、実質的に独立後の責任ある指導層を代表する組織とは考えることができなかったからである。

 

 ソウルの成均館大学教授、李命英は、1986年の「権力の歴史」で、「抗日闘争をしたとは言っても、民族主義者と共産主義者がいがみあって、共同しない抗日だった」と言っている。

 

 李命英は、「まず抗日運動に共産主義と反共民族主義の分裂が存在したのであるから、米ソの思惑によって分断したのではなく、先に分断の重大な要因があった」とする。

 アメリカの多くの論者も、抗日運動自体がすでに内部で分裂闘争を起こしていたのであり、一枚岩の覚醒せるリーダーたちとは言えなかったことを指摘している。

 

 アメリカはサンフランシスコ講和条約などに見られるように日本を国際条約の相手として見ていたのが当然のことであったのは、ワシントン海軍軍縮条約ポーツマス会議など、幾度も日本と外交関係を持ち、国際条約を持っていたからであるが、実のところ、朝鮮政府はアメリカや英国にとってただの一度もまともに外交を結ぶ類の国ではなかった。

 そこでアメリカは、フィリピンがアメリカの統治から50年近い年月を経てようやく自治政府を持ったように、半島の人々は、自治政府を持つのには少なくとも40年はかかるだろう、と考えていたのである。

 

 ルーズベルトの戦後構想では、「蒋介石政権の中国」「スターリンソ連」「英国」、そして「米国」の四国が協調して一定の長期平和が確保されるものとされ、この四国中心の連合国が、暫定統治組織を作って半島を経営していくべきだと考えていた。

 

 このルーズベルトの構想は、まったくの思惑はずれだったのは、この構想を英国と中国の蒋介石が同意していたとしても、ソ連共産党中国共産党は同意していなかったからである。そして、ルーズベルトは、ソ連共産党中国共産党の存在を軽視するという過ちを犯していた。

 

 カイロ宣言朝鮮半島を米ソ英中の信託統治において、一定期間後に独立させるという案を含むが、その中国とは、自由主義陣営の中国であって、共産主義の中国ではない。

 つまり、アメリカとしては、連合国とは、共産主義は一国。あとの三国がアメリカをリーダーとする三国の三対一のアメリカ優位の連合国を意味していた。

 このアメリカ優位の連合国が、朝鮮半島を共同管理する予定だった。

 カイロ宣言の時点で、ソ連は中国をいずれ共産化させるつもりだったのだから、カイロ宣言は実現性の低い構想であることを、スターリンは知りつつ、承認していたが、アメリカはソ連が「アメリカ優位の連合国体制」を謙虚に、承認してくれたものと信じていた。

 

 韓国人の学者は「カイロ宣言」において連合国が日本敗戦後には、朝鮮をただちに独立させよう、とは言わなかった事実をもって、当時の大国に分断の責任があるという見解を持っている。しかし、当時、どの国も韓国人が自治をまかせてまかせられる人々とは、だれも信じていなかった。その理由は、李氏朝鮮末期の朝鮮人のふるまいが、自治をまかせられる態のものではなかったからである。

 そして、その見方は、三一運動以後の抗日運動が散漫なテロとも犯罪集団ともつかない不統一なものとなった事実が米ソの朝鮮人への不信を継続確信させるもととなった。