朝鮮戦争 3

アメリカはソ連の半島への権益への非常に強い欲求を知っていたから、半島全域をアメリカが支配することでは戦後の米ソにおさまりがつかないと判断して、北部を自ら申し出てゆずるか、否か、ポツダム会談の時点から迷っていた。その時点では留保していたが、実際にソ連が対日参戦密約を盾に、強引に不要な進軍、進駐をはじめると、アメリカはあわてて、半島北部をソ連に差し出して、スターリンをなだめた。

 アメリカ国民に戦争は終わった、という必用があったから。

 もちろん、その思惑は、金日成につぶされてアメリカはふたたび、戦争するしかなくなった。戦争しなければ、半島全体が、ソ連中国共産党朝鮮労働党の連合体になってしまい、やがてはアジア全体が共産化されれば、アメリカの企業貿易はアジアから全面的に締め出されてしまうからだ。

 

 韓国の保守派の現代史の見解を代表するキム・ハクジュンは、「この時韓国の民衆は独立だけを一日千秋の思いで待っていた」というのだが、実際は敗戦が色濃くなるまで、「日本に勝利してほしい」というのが韓国人の本音であった。もし、「独立だけを一日千秋の思いで待っていた」というのが本当なら、なぜ独立運動がちじばらばらで統一のとれない運動であったか、まったく説明がつかない。

 

 キム・ハクジュン自身「不幸にも、抗日独立運動は「すぐ地域的に分散した」「地域的分散よりもっと深刻に、理念的に対立した」と語っているのは、他ならない半島の民衆自身も、共産主義一党独裁国家として独立するのか自由主義多党国家として独立するのか、まったくあやふやだったことを意味するのだが、まるで、「独立」の二文字が「体制」と離れて存在しうるかのように、「独立を一日千秋の思いで待っていた」民衆と架空の民衆像を主張している。

 

半島が38度線でソ連とアメリカに分割占領された後、アメリカはどのような政策を南に側にとったか。

 米軍政庁は、地元の人士が作った「建国準備委員会」を認めなかった。

 なぜ米軍が「建国準備委員会」を認めなかったかというと、「朝鮮人民共和国」を宣言するといったように、朝鮮共産党が強い影響力を持つ政治組織だったからである。

 アメリカは、南の自治から共産主義を排除しつつ自治政府を作る方策として、共産主義国ではなかった日本に共鳴していた人物を積極的に支援した。

 また、一方、アメリカは三一運動以来の抗日派を「共産主義者」もしくは「旧両班勢力の復権を目論む者が抗日を叫んでいたに過ぎない」と軽蔑していたので、「大韓民国臨時政府派をも認めなかった。

 

 アメリカにしてみれば、日本は太平洋戦争で戦った敵ではあるものの、ワシントン海軍軍縮条約ポーツマス条約などで国際条規に則って外交交渉の可能な近代国家にはちがいなかったが、「大韓民国臨時政府」というのは、本当のところ、旧李氏朝鮮王制の高宗の抗日を重視しする復古主義の迷妄に眠る馬鹿者に過ぎなかった。

 そこでアメリカは親日派を支援して自治政府をつくろうとしたが、これに対して日本からの解放意識を募らせた韓国人は、「いい思いをした奴ら」を失脚させて、つらい思いをした立場の者がのし上がりたいという思いを「民族独立」の思いにこめて、親日派が南側のリーダーになることに抵抗して、李承晩、金九等の三一独立運動系のリーダーを支持して、アメリカ軍を当惑させる。

 

 アメリカ軍は半島の民衆が親日派の復権を嫌うことに当惑したが、しぶしぶ、大韓民国臨時政府系が権力を掌握する方向性で妥協せざるを得なかった。

 だが、このアメリカの示した半島南部の民衆への妥協は、以下のような事態につながった。李承晩独裁政治のはじまり。大韓民国内部リーダー候補の間の果てしない暗殺の発生。

 もし、親日派の知識人ならけっしてしないような愚行を、李氏朝鮮守旧派が正体だった大韓民国臨時政府民族派は、その迷妄性をあらわにして、暗殺を繰り広げはじめた。

 

 1945年12月中、アメリカもソ連も朝鮮を5年以内の連合国共同統治にするということでは一致していた。ルーズベルトは40年の信託統治論を言っていたのだが、1945年になると、米ソは「5年」に変えていた。ただし、ソ連は「米ソ共同統治」を主張し、アメリカは「米中英ソ連」四国共同統治を主張した。その意味は、四国共同統治なら、中国とは蒋介石であり、資本主義3国、共産主義1国という構成になるという意味である。

 

 この米ソ両案の相違は、次のように妥協が図られた。

 1.米ソ両国が共同委員会を構成し、この共同委員会が、朝鮮半島の諸政治団体と協議する。

 2.米ソ中心の共同委員会が朝鮮臨時政府と協議したその後で、四国が五年以内の信託統治をする。

 こうした協定を米ソはすでに東欧ではじまっていた米ソ対立を尻目に壮絶ないらつきをおさえつつ、話し合っていた。

 1946年の5月8日までかけひきが延々と続いた。

 こうして米ソが怒りと猜疑の中で交渉を続ける中、1946年2月8日、北部朝鮮の主要政治団体をソ連の後押しのもと、金日成が召集して、「北朝鮮臨時人民委員会」を構成することを主張した。そしてこれに続いて、7月22日には、「北朝鮮民主主義民族統一戦線」という「民主主義」という魔法の言葉で共産主義を糊塗して、北部朝鮮の民衆をまんまとだました。

 8月30日には、ソウルにある「朝鮮共産党」よりもピョンヤンにある「朝鮮労働党」が優位であることを宣言する。すなわち、この時、朝鮮労働党の前身朝鮮共産党北朝鮮分局の責任秘書は金日成だったので、朝鮮労働党設立は、金日成のソウルの朝鮮共産党からの離脱を意味していた。

 

続く