朝鮮戦争 4

一方南側では、事態の切迫性を理解できない金九も李承晩、呂運了、金圭植らが相互に妥協することなく、権力闘争を繰り広げてやまず、米国を困惑させた。というのも、北側は、ソ連の後押しを受けた金日成を中心に統一政府が8月30日には形をなしつつあったが、南では、同じ年の12月にいたっても金九が「連合軍の信託統治自体がおかしい。独立させよ」と米軍を批判して、各地で衝突が起きるありさまだった。

 

 信託統治案を受け入れて、順次独立して成長していくという長期的思考ができないのだった。

 

 こうして、南側では、すでに朝鮮労働党とは分離した朝鮮共産党が米軍に対して反米闘争を仕掛け、大韓民国臨時政府派は、金九、李承晩派が対立の上、アメリカに信託統治案を撤回せよと迫って米軍と対立した。

 

 李承晩は国連監視の下、南北統一総選挙を提案するが、ソ連は「連合国」が朝鮮半島を四国統治するのであって、国連ではない、とこれを拒否する。

 

 アメリカは従来の連合国信託統治論から方針転換して、朝鮮問題のすべてを国連に付託するように変更した。というのも、国連とは、当時共産主義国家のいまだ少ない時代だったので、国連イコールアメリカに協調する国の圧倒的多数の国際組織だったからである。

 

 当時、総選挙の実施は、反共産党民族派優位の国会構成の成立を意味したので、ソ連は総選挙に反対したが、国連はやむおえず、南だけの選挙を実施することを提案した。

 1948年2月26日、アメリカの案を国連が多数決承認して、南だけの選挙を国連監視のもと、1948年の5月までに実施することを決めた。

 

 金九、金圭植らは、李承晩の南単独選挙に反対して、金日成に政治指導者会談を呼びかけた。つまり、金九、金圭植には、共産主義者が一党独裁固守する凶悪な性格を持つ組織であるという洞察が無く、話し合いでなんとかなるものだという勘違いがあった。

 金日成はこういう甘い中学生のような認識を示して話し合いを提案する金九らを利用して、1948年の4月に会議開こうと返事をして、南の5月単独選挙案にゆさぶりをかける。

 この南北会議は、金日成の思惑通りに北主導で行われたために、共同声明に「南の米軍の駐屯が朝鮮統一の障害」とされた。

 すなわち、現在も韓国の左翼、北朝鮮政府が言う「米軍は出て行け」論がここではじめて形成された。

 

 こうして、南の大韓民国臨時政府抗日派の金九金圭植が北朝鮮に利用されつつ李承晩と対立する中、南の選挙が実施されて、1948年、「国連の管轄下」選挙が行われて、李承晩が大統領に就任するのだが、李承晩とは、旧両班体制復活を夢見る守旧派抗日に過ぎなかったので、当初から、アメリカは李承晩を嫌悪していた。

 

 5月10日に実施された選挙で誕生した議会は、憲法を7月17日に制定公布し、その直後、李承晩を大統領に選出した後、日程がちょうど日本の降伏日と合致していたので、これにあわせて、8月15日を大韓民国樹立日とした。

 この時の大統領、副大統領、国務総理のナンバースリーまでが、元の大韓民国臨時政府のメンバーであったことから、現在でも韓国では、大韓民国は三一運動の伝統を継ぐもの、と主張するのであるが、その大韓民国臨時政府とは、中身は共産主義者と両班体制復古主義者の闘争体であり、そのうちの両班復古主義者がアメリカに嫌悪されつつ指導層についたのが実態であった。

 

 だからこそ、李承晩はのちに、独裁性をあらわにして、韓国の市民運動に激しい反発を受けて亡命することになる。なんと、韓国では、いまにいたるも、「亡命して逃亡した大統領の就任をもって、彼が「三一運動」の指導者だから、大韓民国は「大韓民国抗日臨時政府の伝統を継ぐ」と言っている。

 むしろ、正しくは「抗日大韓民国臨時政府の指導者が、大統領になってみたら、とんでもない独裁政治をはじめたから、三一運動も「詐欺師と詐欺師にだまされた人々の運動だった」が正解。