李承晩大統領

 

李承晩

韓国は上海臨時政府の法灯を継ぐと称している。

 

李承晩は、22歳の時、高宗退位要求をしている。

 

 現在の韓国では、高宗は日本からの併合に抵抗した人物として英雄視されているので、高宗の現役時代に若き李承晩は、高宗に批判的だった。

 李承晩は、世宗の兄で、素行が悪くて、王になれなかった人物の末裔にあたる「王族」と言われる。また、世宗とその兄の実父、太宗とは、父親の李成桂に嫌われながら、兄たちを血祭りにあげて、王の地位についた粗暴な暴君として有名な王である。

 

 1904年には、すでにアメリカのジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学プリンストン大学で学んだことになっている。それにしては、大統領就任後の李承晩は、アメリカ政府から嫌われていた。

 

 韓国が「上海臨時政府の法灯を継ぐ」と称しているのは、李承晩が上海臨時政府のワシントンDC支部を設立したからである。

 

 その後、上海臨時政府のトップになりかけるが、失脚して、ハワイに居住する。

 

 満洲事変の際に国際連盟総会に上海臨時政府代表として出席したことになっているのも、現在の韓国の「上海臨時政府の法灯を継ぐ」論の根拠になっているのだろう。

 

 ただし、韓国人にとって痛いのは、北朝鮮金日成抗日闘争をしていたのに比べて、李承晩も金九も実際には、軍事闘争をしていたわけではなく、外交のまね事とのんびりした暮らしをしていたからだ。

 

 李承晩の政治運動の出発点は、「独立教会」の加入である。

 「独立教会」とは、甲午農民戦争の指導者が、李完用とともに「絶対王制」を否定して「立憲君主制」を目指した政治団体で、当初この団体は、アメリカの宣教師が支援していたといわれる。

 

 独立とは、なにからの独立かというと、ロシア依存状態からの「独立」だった。

 高宗はロシア公使館に逃げ込んでいたので、高宗に対して、王宮に戻るように説得した。

 

 この独立協会は、日本が清に勝って、朝鮮が清から独立したことを喜んで、「独立門」を建てた。

 

 李承晩はロシアへの依存状態に批判的な青年だった。

 

 大日本帝国立憲君主制だったのに比べて、これを真似ようとした李承晩らの願いはかなわず、高宗は絶対王政を維持しようとしたため、対立が深まり、李承晩は投獄された。

 こうして、独立協会は解散させられた。

 

 つまり、現代の韓国では、高宗が日本の併合に抵抗した英雄となっているが、高宗は「絶対王政」に固執する守旧派でもあった。高宗が絶対王政に固執しなければ、韓国は日本に学んで立憲君主制になって、その補佐の一人に李承晩も入っていたかもしれないが、李承晩は併合の6年前には、アメリカに渡って、大学に入学。

 

 学生時代に韓国は絶対王政の韓国は混迷を深めて、ついには、国を失うことになる。その事態を李承晩はアメリカで聞いていた。1910年にいったん帰国して、ロシアの属国だった朝鮮が今度は日本の属国どころか、完全に亡国となった事実に直面する。

 

 寺内正毅を暗殺しようとして、投獄されて、アメリカに亡命。

 

 アメリカの一流大学で学んだのは、経歴詐称ではないかと疑われるほどに、李承晩の素行は悪い。

 

1.朝鮮戦争前に、韓国国内の左翼を転向させ、管理するために、「保護し、導く」という意味の「保導連盟」を組織した。

 

 この保導連盟とは、反共の大統領をトップにいただく国家体制の内部で生きる術を得るために「左翼転向者」が加盟して、その加盟員が非転向の共産主義者を見つけては、自首させるという奇怪な運動体だった。

 

 1948年末からはじまり、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、この保導連盟がそのまま、北朝鮮に加担するのではないかという極端な猜疑心が生まれて、30万人の元共産主義転向者のうち、20万人が虐殺されたと言われる。

 

 全斗煥大統領が国民に募金を募って建設した、(1982)平安チョナンにある独立記念館には、「韓民族の試練」とあるのだが、まさに30万人が転向を強要され、保護され監視されて、ついには20万人が虐殺された保導連盟事件こそ、「韓民族の試練」そのものであり、独立記念館に展示されている「日本軍、日本警察の拷問なるもの」は、実際は、保導連盟の監視機構と転向を強いた韓国警察当局の拷問と処刑の実態をそのまま日本にあてはめたものではないのか。

 

 ところで韓国国内の左翼団体は「保導連盟事件」について、その犠牲者を114万人としているが、「従軍慰安婦20万人」というアホな数を平気で言う駄法螺吹きの悪癖が常習であるため、にわかに信じるわけにはいかない。

 

 問題は、20万人でさえ、途方も無い数の処刑なのだが、これには、まったく無視して反日独立記念館には、熱心に取り組むというその異常性である。

 

 「歴史を忘れた民族に未来はない」と反日独立記念館には掲げられているのだが、韓国では、保導連盟の残酷無惨、非道を蝋人形によって再現してみせる博物館は存在しない。

 

 そればかりではない。済州島4.3事件、麗水・順天虐殺事件、聞慶虐殺事件など、李承晩時代の韓国は、虐殺につぐ虐殺の連続であり、まさに韓国人受難の時代だったのだが、これについては、口数少なく、そして声を大にして、李承晩時代の国民受難と残虐被害を日本帝国主義の悪行に移し替えて次世代の子どもたちに伝承するというとんでもない転倒の狂気を行なったのが、1982年から全斗煥大統領時代から最高潮に達する反日教育の狂気のはじまりだった。

 

 李承晩はアメリカのハーバード、プリンストン大学で学んだと自称する割には、驚くほど厚かましい権力の亡者であり、1954年当時、大統領の任期は二期までという規定があってもなお、初代大統領にかぎっては、三選も可とする改憲を行なった。

 議会の3分の2にあと一票届かぬところを四捨五入するというすったもんだがあったが、問題は、3分の2に達するほどの国会議員が三選に賛成するという韓国の議員たちのていたらくであった。

 

 1956年にすでに80歳を過ぎてなお、大統領に執着する異常な男の独擅場が示現する韓国であった。

 

 1960年になっても、なお四選を狙って大統領はまたも当選。

 選挙の不正工作不正投票、買収が横行したため、これは李承晩の強権独裁というよりも、李承晩をかついだ、韓国国民のいいかげんさの表現といえよう。

 そしてこの韓国国民の全般的ないい加減さに叛旗を翻したのが、高麗大学ソウル大学の学生たちだった。

 

 これは、李承晩という独裁者と民衆の戦いではなく、李承晩という80歳を越えてなお大統領にしがみつく人物を不正投票、不正工作、買収を横行させながら、拒絶できない韓国のおとなたちと学生たちの戦いだった。

 

 ソウル、および主要都市で数万人規模のデモが起こり、拡大した騒乱の中で、12年目に李承晩は辞任の上、刑事責任追及を恐れて、ハワイに亡命して、5年後、90歳で生涯を閉じた。

 

 果たして、李承晩が独裁だったといえるかどうか。

 まず二期で憲法通りに退任せずに三選四選を望んだ事に異常性が特筆されるが、問題は、韓国の国会議員が再選改憲に票を投じさえしなければ、起こらなかった再選であり、その後の三選、四選も、結局は韓国国民が買収にのったり、積極的に李承晩に投票するという行動を起こしさえしなければ起こらぬ事態だった。その点、けっして李承晩単独の強権の結果としての独裁ではなく、韓国国民自身が選択した12年の不正選挙投票だった。

 

 韓国では無数のドラマが作られており、全斗煥政権時代も逐一ドキュメンタリータッチで長編ドラマが作られているが、李承晩時代は大河ドラマ化されていない。

 おそらく、この時代をドラマ化すれば、必ずや韓国国民は、韓国人の悲惨な歴史は、韓国人自身が作ってきたのではないか、という強く深い疑念に直面せざるをえなくなるにちがいない。