北朝鮮と韓国、中国についての断想

 金正恩朝鮮労働党第一書記、国防委員会委員長だ。ふたつの役職は、常に兼務であり、国防委員会委員長が、統帥権を持つ。

 

 「1998憲法上、北朝鮮国家元首格は最高人民会議常任委員長であったが、199895日の最高人民会議10期第1回会議において、北朝鮮の最高指導者である金正日朝鮮労働党総書記)の国防委員長推戴が最高人民会議常任委員長の選出に先立って行われ、金永南(同 日、最高人民会議常任委員長に就任)が推戴演説で国防委員長を「国家の最高職責」と宣言したことから、事実上は金正日北朝鮮国家元首と看做された。 20094月の憲法改正で国防委員長は「国家の最高指導者」として憲法に明記され、国家元首として位置づけられたが、上述の通り、最高人民会議常任委員 長が対外的に国家元首としての職責を果たしている。

 

 とウィキペディアでは、説明されている。

 

 そこで、仮に、韓国と北朝鮮が連邦制で合意した場合は、最高人民会議委員長が韓国の大統領と同格だと北朝鮮が主張する場合がありうる。

 

 その場合、連邦制で、任期を交替交替に、連邦最高権力者を担当したとき、韓国側が連邦の責任者になった期間においても、北朝鮮の軍事統帥権は韓国から独立し続けることになる。

 

 北朝鮮大日本帝国憲法立憲君主制の部分を骨抜きにして、絶対王政にした上で、統帥権金日成の子孫に引き継がせるように企図したとことなのかもしれない。

 

 北朝鮮の主観では、金日成の子、孫が日本における天皇にあたり、天皇の場合は、名目上の統帥権であったところを、北朝鮮の場合は、実質的な指揮担当者になる。

 そして、日本の首相に該当するのが、北朝鮮では、最高人民会議委員長であり、これには、金正恩はわざと就任しないのだ。

 

 北朝鮮では、国防委員長世襲制にしており、大日本帝国のような「形式的統帥権」ではなく、「実質的な国防担当者」なのだ。

 

 李承晩の時代、韓国は多党制ではあった。李承晩の時代の大きな欠陥は、李承晩の異常ともいえる権力欲に基づく長期政権への意欲、執着であり、それよりもさらに怪物的な、当時の韓国国民の大多数にあった賄賂、選挙不正への鈍感性が、李承晩の長期政権を可能にしたということだったので、学生の李承晩政権への否認は、当時の韓国の学生たちの世代と韓国の大人の世代の俗物根性への抗議だった。

 

 李承晩が倒れたという事を簡単に「民主化」といえないは、民衆自身の俗物性が李承晩政権を継続させていたからで、李承晩政権の崩壊は、「民主化」ではなく、当時の韓国民衆の俗物性が子の世代に激しく反発されて、権力に空白が生まれたという事を意味した。それは、権力の空白であって、民主化ではなかった。

 

 その権力の空白を埋めたのが、「軍事独裁政権」朴チョンヒだった。

 なぜ「軍事独裁」というのかといえば、国民の選挙で選ばれた大統領ではなかったからである。

 ただし、韓国のおかしなところは、李承晩が80歳を超えて三選を狙ったとき、「「替えても変わらにゃ、長老(李大統領)がマシ」と、かなりの支持者がいたという、けったいな実態だったように、軍事クーデターで大統領職に就いた人物を、韓国国民の少なくとも半分以上は、約10年間、大統領として遇し続けたという、この民衆の側の奇怪な「民衆の非民主的感覚」が問題の本質にある。

 ソウルオリンピック開催時の大統領もまた、クーデターを指揮したことを持って、大統領に就いた人物が、そのまま、韓国国民に実質的に追認されて、ソウルオリンピック開催の責任者となった。

 つまり、韓国国民自身が、大統領になったきっかけがクーデターという異常事態であるなら、そのような人物を長期間にわたって大統領職に就かせて置くことはけっして容認しない、とは思わなかった。

 またそのような人物を大統領にした状況下で開催しても、オリンピックは愉しくない、とは韓国人は思わなかった。また、全斗煥 クーデター政権の右腕だったにもかかわらず、韓国国民は、盧泰愚についても、拒絶意識を持たず、大統領にする選択をした。

 軍人出身者だから問題なのではく、クーデター首謀者だから問題なのだが、韓国国民には、その意味がわからない国民が多かったという証左だった。

 

 民主主義とは、「有権者により期限付きで権力を付与された者による統治」である。

 菅直人は首相時代、国会答弁で、「議員内閣制は期限を切った、あるレベルでの独裁を認めることだ」と、言ったが、そうではない。民主主義では、つねに権力が分立していなければならないのである。

 

 「独裁」とは、「三権分立の否定」、「メディアコントロール」「反対党の法的規制」によって成立する。

したがって、民主主義と「独裁」は、まったく両立しない概念なのである。

 

 民主主義が「独裁」を生み、いわば状況が「独裁」に上書きされて、民主主義は消滅するのであり、独裁と民主主義が同時並存することはない。

 また、「独裁」は、かぎりなくいまわしい状態である。

 

 なぜ朴 正煕 および全 斗煥(チョン・ドゥファン )および盧泰愚軍閥政権であり、前二者が独裁政権だったかというと、前二者がクーデターによって就任して、その地位と権力を利用して、反対派を弾圧した事実があるからだ。そして、なぜ盧泰愚軍閥であるかというと、前二者が独裁によって築きあげた権力構造の中で、重要な役割を長年果たして、大統領候補になることが可能になった、軍人だからだ。

 

 杭州湾、杭州市、上海市あたりに、浙江財閥といわれる財閥がいくつかあり、その中でも特に有力な財閥が、「孔祥 」「宋嘉樹 」などだった。

 

  孔祥 煕はオハイオ州の大学に留学、その後、(現在の山西省)に戻り、キリスト教系の学校を経営するが、辛亥革命直後の混乱するシナ大陸で、石油ビジネスを起こし、巨富を得る。

 この巨富は1925年に孫文が死去するまで孫文活動の資金になった。 

 

 宋嘉樹 もまた、クリスチャンで宣教師だったが、聖書販売の印刷業をはじめて巨富を得て、財閥になった。

 

 この宋嘉樹の長女、宋 靄齢(そう あいれい)は 孔祥 煕の妻になった。

 次女の宋 慶齢(そう けいれい )は、孫文の妻。

 三女の宋 美齢(そう びれい )は蒋介石の妻になった。

 宋子文は宋 慶齢(そう けいれい )のひとつ下の弟である。

 

 中国国民党とは、アメリカ留学帰りのクリスチャンが当時希少価値のあった英語力を活用して商売をはじめて巨富をなした同じ地域の二大財閥が、婚姻関係によってつながり、地方軍閥を巨額資金によって成長させた上で、財閥の中核ファミリーそのものが、シナ大陸全土を支配することに成功した政権の中枢部に入り込んだ財閥と軍閥政治家が一族を形成した軍閥政権だった。

 

 財閥宋一家の娘たちと息子はそれぞれ、単に、シナ革命に財閥として資金を提供するにとどまらず、反日宣伝、中国統治において重要な役割を果たした。

 

 次女で孫文の妻だった宋 慶齢(そう けいれい )は、後に、中華人民共和国の副主席に遇された。宋 慶齢は孫文死後、妹の夫である蒋介石と対立する。

 国共合作派ではあったが、反日活動にも熱心であったといわれ、国民党名誉主席に選出され、のちに中国共産党でも、なぜか毛沢東に尊重されて、晩年には国家副主席格にのぼりつめるという数奇な人生を送った。

 

 日教組婦人部長仁木ふみ子は、宋 慶齢を偉人扱いしている。

 

 中華民国とは、上記の宋ファミリーと蒋介石、 孔祥 煕の財閥一族、そしてもうひとつの財閥、陳果夫証券取引所経営で財を成す)が支える四大ファミリー支配の政権だった。

 

 「孔や家族が官でも民でもその権力を利用して投機を行ったり、私財を肥やしているとして大きな不満の対象となった。アメリカ人もこの正常ではない私腹の肥やし方に着目していた。

 と言う厳しい見方もある。

  

 宋子文も以下のようにけっして評価は高くない。ウィキペディア

 戦後の国民政府日中戦争期の多額の出費や第二次国共内戦を控えた社会混乱、更には自由貿易政策やハイパーインフレによる経済混乱といった問題を抱える中、宋は適切な政策をとらなかったとして批判を受けた。国共内戦再開後の19472には傅斯年が『世紀評論』上で「這個様子的宋子文非走不可」という弾劾論を発表し、これがきっかけとなり宋は3行政院長を辞職した。

194710からは広東省政府主席となったが、ここでも経済混乱は収束させられず、逆に官僚資本を通じて暴利を貪ったとの批判もある。1949長江を越えて広東に人民解放軍が迫る中、宋子文香港へ、さらに6アメリカニューヨークへと逃れた。以降は台湾中華民国政府側からの台湾「復帰」要請にも応えず、1963に僅かの間、台湾を訪れたのみであった[19]1971サンフランシスコを訪問中に客死した。

 徳岡孝夫「日本をたたきつぶした宋美麗」によると、

 「四大家族のメンバーはそれぞれ要職につき、蓄財に励みつつ蒋介石の独裁を助けた。それは底の知れない腐敗であり、国家の富の横領だった。私は子供の眼で一 九三〇年代中頃の上海を見たが、人力車夫の顧客争奪や天秤棒に担がれた丸裸の「売り子」など、民国の民の貧しさは悲惨だった。



 日本でも韓国でも、日本が朝鮮半島の日本統治時代に韓国人を徹底的に支配抑圧したことになっているが、実は、「日本統治時代にも、十分、朝鮮地主資産家は生息しており」、彼ら朝鮮人資産家の息子たちこそが、日本の大学でマルクス主義にかぶれて、後の北朝鮮の政権の要職についた。



 金正日の最初の妻、成 蕙琳(ソン・ヘリム )の父親は南の資産家の息子で、日本の慶応大学卒業生のマルクス主義者だった。

 北朝鮮政権初期の副首相朴成哲も日本の大学在学経験のある資産家の息子。

 黄長燁ファン・ジャンヨプ 金日成総合大学学長で主体思想の発案者も、地主の息子で、日本の中央大学在籍経験がある。

 つまり、植民地時代、日本に虐げられたというが、朝鮮人にお金持ちのお坊ちゃんは、なんぼでもいた。

 詩人の茨木のり子は、「崔承喜(チェ・スンヒ)が十六歳で石井莫の門下生となった直後、大正天皇崩御があり、その葬列を 見送る時、彼女は後ろむきにお辞儀したというエピソードがあった。・・・『崔承喜』(高島雄三郎著)という本を読んでそれが事実と知ったのである。彼女 は、「私たちの国をいじめるところの一番偉い方でしょう、天皇さんを拝む気持ちにはどうしてもなれません」とはっきり言っていた。十六歳で、と改めて思 う。 」と書くが、なんのことはない崔承喜(チェ・スンヒ)もまた、「貧農の娘ではなく、ソウルの資産家の両班の娘だったのである。

 茨木のり子朝鮮半島では、両班以外の身分のものが、大地主になることはまず不可能だったことを知らなかったのだろう。

 「200329日に、1969年に亡くなったこと、遺体が愛国烈士陵に葬られ墓碑に「舞踊家同盟中央委員会委員長、人民俳優」と刻まれていることが公式筋より公表され」のであるが、 茨木のり子は、1989年まで、「朝鮮民主主義人民共和国」で、後進の指導にあたっている」と信じていたが、とっくに死んでいたのである。

茨木のり子の以下の文。

1945年以降は、親日芸術家として、祖国でも苦難の道をあゆむことになる。はじめソウルに戻ったのだが、やがて夫、娘と共に北朝鮮へ脱出、現在は(1989年現在)朝鮮民主主義共和国で後進の指導に当たっているという。



 北朝鮮とは、「大学出の暴力団幹部」のようなもので、日本の大学でマルクス主義を学んだ南の資産家階級出身のエリートと金日成軍閥の結託集団と言っていい。



 北朝鮮の日本支部にあたる朝鮮総連の副議長白宗元もまた、日本の京都大学経済学部出身のエリートである。なんとなれば、1923年生まれの白宗元が18歳のころ、1940年前後に帝国大学に入学するには、よほどの例外でもなければ、かなり裕福な家出身でなければありえない時代状況だった。「1923年に中国国境に近い朝鮮平安北道義州に生まれ、家族と共に奉天瀋陽)に移り住み、その後金沢の旧制四高に入学、京都大学時代に敗戦を迎え、戦後は民族教育のために奮闘してきた。 」というのだが、日本人でさえ、中学卒業で集団就職する時代がまだ長く続いた時代に、白宗元が貧乏人の息子だったということがありえようか。

 日本の植民地時代、富裕な生活を送った朝鮮人とその息子、娘の実存こそが、後の北朝鮮反日指導層を作り上げて行ったのである。