九条の会 「9条護憲」本当の目的とは

 

 小田実大江健三郎井上ひさし加藤周一に共通しているのは、彼らが小説家、文芸評論家であって、「原発研究」をしたこともないし、北朝鮮の政治思想、民主主義の発展史、軍事研究なども研究したこともない立場ながら、思い付きで、それらに言及し、これを報道するマスコミもまことしやかにひとかどの卓見扱いをしていることである。

 鶴見俊輔澤地久枝の場合は、鶴見は大衆文化研究者、アメリカのプラグマティズムの研究者であり、言ってみれば、ソ連史研究、マルクス主義哲学の研究者でもなんでもなく、澤地は近現代史の資料発掘に定評のあるノンフィクション作家で、これまた政治哲学にはまったくの門外漢である。

 三木睦子もまた、政治学を研究したことはなく、ただ財閥の娘だったから、有力政治家との縁談があり、夫が自民党の総理総裁に上り詰めたから、周りがおだてあげ、その気になって、北朝鮮という「人権抑圧国家」になんの批判的意見ももたず、北朝鮮から勲章をもらったという女性に過ぎない。

 梅原猛は日本仏教史、奈良時代史の研究者であって、政治学についてはまるでド素人である。

 つまり「九条の会」というのは、憲法、政治学に研究し精通しており、そのうえでの意見表明をしているのは、奥平康弘ただひとり。

 

 それ以外は、あらゆる派生団体、各種職能団体の「九条の会」賛同人というのは、多かれ少なかれ一般無名の大衆にとっては各界ひとかどの著名人というだけのことなのであり、まったく「政治無知」の人々の思い付きの意見に過ぎない。

 

 政治無知の思い付きの意見表明を、賢者の断固たる信念表明と受け取るなら、「九条の会」の事務局の思うツボなのであり、彼ら著名人とともに、「九条護憲」に回って、さて、その「九条護憲」の信念を行動に反映させるとすれば、選挙公約で、「憲法九条が平和を守ってきたんです」と演説する党首の党しかないことになる。

 

 「憲法九条が平和を守ってきたんです」と演説する党首の党はいくつもある。

 公明党もそうだし、共産党社民党民進党山本太郎の党もそうなのだ。

 そこで、「九条の会」の話を聞いて、自民党は戦争をしようとしている、だから憲法9条を守らねばならない。そのためには、憲法9条を守る、と強く言っている党に投票すればいいことになる。

 

 公明党は、憲法9条を守らない自民党と組んでいるのだから、信用できない。

 ならば、民進党かな、共産党かなというふうに、選べばいいことになる。

 

 こうして、「九条の会」というのは、民進党共産党国会議員、県会議員、市会議員の議席維持に端的に貢献していることになるのである。

 そして、そればかりではない。九条の会で、憲法、戦争、に意識を向けることになり、日本政府がいかに危険なことをいようとしているのかを知らされた人々は、もっと詳しく知ろうとして、原発の危険性のこと、従軍慰安婦のこと、日本の植民地支配の悪、などを勉強しようとするので、朝日新聞が売れ、岩波書店書物が売れ、NHKスペシャルやETVの日本の戦争犯罪ドキュメンタリーに関心がもたれて、視聴率が上がる。

 

 つまり、人びとが九条に関心を持つことで、職業生活がいよいよ安定する人々は実は意外なほど多いのだ。

 裏を返して言えば、日本に対する憎悪感情が減少すればするほど、政治論、憲法論の大衆向けの本は売れなくなり、市民フォーラムとかいう団体の主催する講演会は閑古鳥を呼び、会が小規模になればスタッフもいらなくなる。

 現象としては、アウトドアスポーツや、観光旅行、大衆音楽に興じることに時間を費やして、真剣にテレビのニュース番組を見ることもなくなるので、視聴率が下がり、政治を扱う番組は赤字化してしまうのである。

 

 結局、憲法9条だの護憲だの言っても、そこに働いている力は、一に「日本共産党」という組織を守りたい議員と事務局が総力をあげて、有名人、著名人を担ぎ出して、旗を立て、これに各分野の小有名人たちが自己顕示欲もあらわに手をあげたところへ、これを宣伝材料に、「九条の会事務局」の事務局員の仕事が増えて、これで給料が出、生活ができるわけのものなのであり、取材報道する「ジャーナリスト」にも仕事があてがわれるのである。

 

 三木睦子のような大ボケ婦人は別として、加藤周一鶴見俊輔大江健三郎らにあるのは、おそろしく根深い「大衆蔑視感覚」である。

 ※三木睦子は、「金正日ノーベル平和賞をとってほしかった」と真顔で言ったことがある。

 このような「九条平和」至上価値のごとき観念に大衆を引き込むこと、あたかも「政治的関心の最終の価値が平和であるかのように」宣伝することは、ほとんど、次世代の日本人、とりわけ中学生、高校生に対する犯罪でさえある。

 

 「自由とはなにか」をまったく問い直さない日本人。

 そして、「長き非戦の時代」すなわち「平和の達成されてある時代においてさえ」世界には、自由を奪われつつ生きている人々がいること、そのことへの考察から、まったく、目を閉ざすことになるかねない恐ろしい無思想状態についての恐れが、加藤周一鶴見俊輔大江健三郎にまったくないのが問題なのである。