ナチスドイツ・ヒトラーが全権を握るまで

ヒトラーは、第一次世界大戦後、陸軍病院で治療を受けているとき、皇帝が退位して、ドイツが共和制となり、敗戦が決定した事を知ったその日、内なる声を聴いた、と回想している。

「その声は私にドイツの人々を解放し、偉大なドイツを取り戻せと、呼びかけていた。」

内なる声からの「呼びかけ」・・・まさに精神異常の兆候である。

 

 ヒトラーは「ドイツの鷲はユダヤ人によって刺殺された」という幻想を持っていた。

 これまた、精神異常の疑いがある。

 ヒトラーの生まれは、オーストリア・ハンガリー帝国であるから、ヒトラーとは、在日韓国人辛淑玉が、扇動演説に巧みな奇才を生かして日本を混乱させる活動を生涯の課題としているのに似て、隣国ドイツを破壊するまで持っていく誓いを立てる。

 

 ヒトラー共産主義者摘発の活動をして力量を見込まれて、頭角を現していく。

 ドイツ国民が不満を募らせたのは、ベルサイユ条約の大きな負担によって、

 

 ヒトラーは極右政党ドイツ労働者党に、当初は軍の命令によって、スパイとして入り込むが、ドイツ労働者党の本格的党員となる。

 そして、ドイツ労働者党は「国家社会主義労働者党」と改名。

 この「党」が急増するかどうかが、ファシズムの兆候であって、日本の戦前戦中に特定のイデオロギー政党の党員が急増したという事実はない。また、アメリカのトランプに関して、イデオロギー政党党員が急増したということない。ナチ党は、一年間で2千人から2万人に急増した。

 ナチは反ユダヤ主義を標榜する。

 国家社会主義労働者党の民間支援組織が反ユダヤ・人種差別の専門新聞「民族の観察者」だった。その編集発行人のアルフレード・ローゼンブルグがユダヤ人虐殺計画の理論的推進者となる。

 

 こうした中、1923年ドイツの炭鉱のあるルール地方が、フランスとベルギーによって占領される。この際、フランス軍の傲慢な態度が撮影され、この映像をヒトラーは、ドイツ人はこのように屈辱と差別を受けているのだと宣伝に利用する。

 

 ちょうど、2016年の日本人が在日韓国人の犯罪多発を強調するような手法をヒトラーは取っていたのだ。

 

 ミュンヘン一揆の失敗によって、ヒトラーは投獄されるが、ヒトラーは巧みな演説を利しして法廷で政府とユダヤ人を激しく非難し、これが傍聴者と裁判官の心証をよくすることに成功。結果、死刑になりかねないところを、禁固5年で、居心地の良い、ホテルのような監房に収容される。

 ここでナチス党が釈放運動をすることを確信しながら、ここで「わが闘争」執筆にとりかかる。2万部発行。その後「わが闘争」は1933年には、8千万部発行され、印税はヒトラー個人のふところを潤した。日本で言うならば、「大嫌韓時代」を老若男女が読むようなものだ。辛淑玉香山リカ上野千鶴子、辻本清美、福島瑞穂佐藤優には、巨大ベストセラーの気配がないところが、政治潮流になりえない要因ともいえる。

 領土の拡大とユダヤ人の撲滅を書いているのだが、日本は後にこの「わが闘争」を分析することを怠り、ヒトラーの毒性に気づかず、ドイツと同盟を結ぶ致命的な失策を犯す。

 1925年、ワイマール共和国のエーベルト大統領が、虫垂炎をこじらせて死去。 

 これをきっかけに、新大統領選挙が行われ、ヒトラーのライバルであったルーデンドルフが、ヒンデンブルグに敗北したので、ヒトラーは極右の主導権を取る。

 ナチスが急伸して、党員17万人になり、ナチスは民間政党でありながら、準軍事組織を持ち、このころから、「ハイルヒトラー」と言って腕を差し出す仕草が定着する。

 

 アメリカのヘンリー・フォード反ユダヤ主義者であったので、ナチスに高額の援助を供与した。

 このころから、ヒトラーは盛んに大衆を惹きつけるポーズを練るようになる。

 ちょうど在日朝鮮人辛淑玉が悲しげな顔つき、厳粛な声色を駆使するようにだ。

 

 ゲッペルスは当初はマルクス主義の信奉者だったが、無名時代のうっぷんをナチに入党して晴らしたのである。

 

 1933年ヒトラーは首相に就任。首相から、総統になったのが、問題なのである。

 1929年に始まる世界恐慌により、ドイツの失業者は600万人に達した。

 このため、日本で言えば、創価学会日本共産党が一気に伸びるがごとく、ヒトラーのナチ党は1930年に国会で第二党となる。

 ここでナチファシズムと戦前戦中の日本とはまるで違うものだった点は、ナチス党党員は軍服に似た制服を着ていたということである。ちょうど三島由紀夫の盾の会の制服のように。日本の戦前にそんな制服を着た政党があったことはない。

 

 ヒトラーゲッペルスのプロパガンダの巧みさが桁はずれだったのは、ヒトラーは大統領選挙に立候補して、ルフトハンザ航空から航空機を提供してもらって、「空飛ぶ指導者」という名のもと、100以上の都市を遊説。映画ニュースを利用して宣伝する。

 

 若者たちは、ヘルコリアならぬヘルドイツの希望をヒトラーに託すようになる。

 つまり、既存政党を数年の間に一気に抜き去る政党が熱狂とともに、出現した時が危機の兆候なのである。

 

 ホルスト・ベッセルはチンピラからナチス党員になり、殉教者となった。

 これはまた「のりこえネット」「しばき隊」やくざあがりの活動家の存在に似ているではないか。

 1932年、ヒトラーナチス党は第一党となり、ヒトラーは第一党の党首となるが、ヒンデンブルグ大統領はヒトラーに閣僚のポストを与えるに止める。

 これに対してナチスは「国民の意志を反映していない」と宣伝。

 ヒンデンブルグはついにヒトラーを首相に指名。

 ほかにヒトラーは、ナチスから2名だけを閣僚に入れるよう要求して、ヒンデンブルグを油断させる。

 

 すでにヒトラーは、全権を奪う覚悟を固めていた。

 ヒトラーは左翼の有権者に対しても呼びかける。「われわれを非難した数百万の人々が仲間になる」と。

 

 ゲッペルスは「ウソにまみれたユダヤ人」と言うのは、在特会が「息をするようにウソをつく朝鮮人」というのとそっくりである。

 

 ヒトラーは権力掌握の直前の総選挙の投票日直前である1933年2月27日、国会議事堂に放火し、これを共産党の仕業という事にして、かねてよりナチス党から閣僚に出していたゲーリングによって、共産主義者による反乱革命だとして、4千人の共産党員を検挙した。

 

 さらに、100万人ナチス党員は「共産主義の暴力革命からドイツを守る正義の人々」なのだとして、党員に銃を持つことを許可させる。

 

 1933年5月、こうして行われた選挙で、ヘルマン・ゲーリングナチスの勝利を宣言。

 続いて、共産党議員の当選を不正の結果だとして逮捕、ダッハウ強制収容所に送る。

 

 一気に10万人の政治犯が生まれる。

 

ドイツ国会は、社会民主党が少数野党、ナチスが圧倒的多数、そして共産党員は強制収容所の中という状態だったが、こうした状況の中、ヒトラーに全権を委任する議会投票が行われる。

 強制収容所へ入れられる事を恐れて、91人の社民党議員を除いて、ヒトラーへの全権委任が決定する。

 

 ヒトラーはすぐさま、ユダヤ人商店の不買運動を大規模に展開する。

 日本で言えば、在日系企業、商店のボイコット、韓国で言えば、日本企業製品のボイコットを強力に始めたようなものである。

 2017年に中国共産党は、韓流をボイコット、日本のアパホテルの宿泊拒否を命じている。

 少なくともナチスに見られる「反知性主義」とは、ユダヤ人の書物の文字通りの「焚書焼却」「知性」ではなく、「強い意志の賞揚」である。

 これに比べれば、2016年に日本の言論界に流行した「反知性主義」非難なんてものは、日本の戦前戦中をファシズムと言ったのが、検討違いなものであると同様、日本に「反知性主義」なんてものはない。

 「強い意志」を誰かが強調し始めた時が本当に「反知性主義」の兆候だといえよう。

 この「強い意志」の強調の現れが、レニ・リーフェンシュタールの「信念の勝利」であり、卓越したテレビ演出、あるいは映画監督によって、共産主義者あるいは排外主義民族主義者が人気者になる時、危機の兆候だともいえる。

 

 1934年、ヒトラーは、突撃隊のレームを親衛隊によって、粛清する。80人が殺害された。プーチンに似た暗殺の多様が初期ヒトラーの手法であった。

 これもまた、日本の戦前戦中の政権中枢に無い手法である。

 続いてレニ・リーフェンシュタールが監督制作したのが、ナチス宣伝映画「意志の勝利」

 すなわち、「意志の強さ」「意志の勝利」を強調するところにこそ、「反知性主義」が宿るのであって、それがないにもかかわらず、アメリカのトランプを「反知性主義」と言った西部邁や安倍首相を「反知性主義」と評した日本の左翼は、まったくのカラ手形を発行してみせたのである。