立花隆「天皇と東大」を読む 立花批判 3

立花隆 「天皇と東大」 3

 

 矢内原が東大辞職に追い込まれた1937年の東大経済学部には、大きくわけて三つのグループが存在した(矢内原の場合はグループではなく、非常に特異で目立った存在)。

 まず矢内原忠雄というのは、言っている事は「日本は独占資本主義段階の帝国主義」というのだから、マルクス主義を援用しているのも確かなのだが、盛んに「キリスト教」の観点をからめてものを言いたがる人だった。

 「亡びよ」「造物主に相対して」「天皇は宇宙の同義に従わねばならぬ」とか、まさかマルクス・レーニン主義者なら言いそうもない事を言うのが、矢内原だった。

 

 もうひとつのグループがソ連コミンテルの指令、日本で人民戦線を結成して日本政府の政策を妨害せよという、なんのことはない、その実、ソ連スターリン国益に資するために、日本の共産主義者たちを利用しようという企画なのだが、これに関わって、戦後日本社会党の理論的指導者になる類の大学教授、知識人が逮捕された。

 

 だが、いうほど暗黒時代でもないというのは、北朝鮮や中国、ソ連ならば、銃殺刑、政治犯強制収容所に収監されるところであろうが、この1937年には、すでに陸軍、および近衛文麿ら日本政府指導層の反ソ思想は打ち消されて「反英米」に凝り固まりつつあったこともあってか、1944年9月2日には、無罪が確定した。

 

 日本国内でさえ無罪が確定したのだから、彼らになんの経歴上の傷があるはずもなく、かえって学者、政治家としての箔がついたくらいのもので、彼ら人民戦線事件の検挙者の実に多くの人間が、戦後日本の社会党の重鎮、東大名誉教授になって、特別国家公務員の禄を食んで、結構いい暮らしをして生涯を終えたのである。

 

 向坂逸郎大内兵衛宇野弘蔵美濃部亮吉、佐々木恒三、江田三郎、他446人が起訴されたが、たった3人が有罪になっただけで、他は全員無罪になった。

 その3人とて、鈴木茂三郎は、戦時中は古本屋で生計を立てることになる。

 加藤勘十は1948年には、芦田内閣で労働大臣に就任

 もう一人は山川均で、山川は戦後、日本社会党の主要ブレーンの一人として、非武装中立論を唱えて、日本の国防弱体化の基礎作りに余念がなかった。

 つまり、治安維持法によって、日本社会で生きる余地がなく、自殺や亡命に追い込まれるほどのきつい法というわけでもなかったのである。

 それくらい治安維持法はゆるい法律という側面は否定しがたい。

 

 東大経済学部の三つのグループが、クリスチャンの矢内原忠雄の日本呪詛教、そして、コミンテルの「日本共産党」ではない社会党系の知識人たち。

 

 そして最後のグループが、逮捕されざる、追放されざるグループの体制側の経済理論を担った一群。土方成美(しげよし)経済学部長らである。

 戦後、東大は戦時中の体制側の理論を担った教授は冷や飯を食わされて、大内兵衛ら、東大学内ヘゲモニーを握るのである。

 

 しかし、ばかばかしいことに、もともと、治安維持法は誤認逮捕だったから、無罪だったわけではない。労農派マルクス主義を掲げた「社会主義協会」が1949年に発足して、その会長の大内兵衛が法政大学総長であり、現在の東京大学には、まだこのマルクス・レーニン主義者、大内兵衛の名を冠した大内兵衛賞があるのだから、いかに戦後日本がマルクス・レーニン主義に無頓着であったかがわかろう。

 

 大内はレーニンとスターリンを「経済学者」として超一流とほめたたえた事で有名だが、その後ソ連は大内が激賞して、日本もソ連みたいになれればいいなと言ってから、30年後に、国民の寿命は短くなり、経済不況が続いた果てに、国民に見捨てられてソ連は崩壊するが、ロシアは、日本から不当に奪った領土を返還しようとしていない。

 

 つい大内兵衛に話が及んだが、当時の東大体制派の土方成美の考え方は次のようなものだった。

 

 立花隆天皇と東大」文春文庫3巻 502ページ

満州事変については、日清、日露戦争以来の因縁もあり、われわれの祖先が南満州の荒野に多くの血を流し、白骨を曝している。(略)日露戦争尊い犠牲によって我が国は南満州に地歩を確保し、ようやく、(ロシアの進出を食い止めて)安全が確保されてきた。

 アメリカ合衆国も、大正6年の石井ランシング協定において日本の南満州における特殊利益を認めている。たまたま張作霖政権の下で日本人の土地所有権も認められず、南満州の治安も乱れがちであり、日本は南満州から締め出されんとして、数十年にわたる日本の満州経営がフイになる惧れもあった」と言った。

 

 

 ここで土方が言っている張作霖政権とは、満州だけの軍閥政権で、当時シナは軍閥政権が乱立して、国際社会において実質的に代表兼を持つ統一政権は存在していなかった。

 張作霖政権とて、なんら民族国家として民衆の支持を受けて統治しているわけではなく、銃口の力によって強制的に統治しているならずもの擬態国家にすぎなかった。

 2016年のシリアのイスラム過激派の占領する地域に日本軍がからくも日本人を保護しつつ駐留していたような状況だったのである。

 

 ここに日本人が開発して暮らしやすくなると、100万人もの漢民族満州流入するのだが、日本の左翼の学者たちは、満州には、漢民族が大多数を占めていたのだから、漢民族の地に日本は侵略した、そういう悪行だったのだ、と言った。

 

 しかし、それなら、すでに停戦が決定して、陸軍も日本の民間人もすべて引き上げようとしていた時、なぜ、ソ連軍が他民族の地に進軍する必要があったのだろうか。

 

 また、現在、日本では、中国人であれ、韓国人であれ、日本国内の土地を購入し、所有権を持つことは可能であるが、張作霖政権はこれを許していなかった。

 満州の治安を維持し、民衆を安心させていたのは、むしろ日本陸軍だったのである。

 

 立花隆満州国を思うがままに動かした陸軍は、これに味をしめて、満州国の統制を日本国全体に適用して軍が国を掌握しようとしたのだと見立てるが、そうではない。

 

 満州国関東軍石原莞爾にしてみれば、思惑とちがって、日本リードが過剰になりすぎて、五族協和の理念、日本人・朝鮮人満州人・漢人・蒙古人の調和が取れているとはいいがたかったので、大いに不満があり、また石原莞爾は日本以外の諸民族に対して申し分けないという気持ちを持っていたのである。

 

 そして、満州事変以降、226事件を経て、陸軍の主流派は、石原グループを左遷した。

 すなわち、立花隆の言うような、満州事変、満州国運営の関東軍グループと日中戦争拡大派から英米戦争実行に進んでいったグループは同一で、満州に味を占めて日本国全体を軍が掌握したということはない。

 

 満州事変に際して、当初参謀本部は、それが関東軍の越権行為であった事から、処分に悩んだが、元来、なぜ関東軍南満州にるのか、それはロシアが清国の領土を、義和団の乱のどさくさに紛れて、(ちょうど日米戦争のどさくさに紛れてソ連北方領土を侵略したと同じ)軍事侵攻して満州を占領したので放置すれば、さらに南下する事が目に見えていたので、ロシアを排除する能力のない清国に代わって、多大な犠牲のもとに、ロシアを北へ追い戻した結果であって、単に侵略侵入ではないのだから、ならず者張作霖によって、その日本の満州地歩が暴力的になしくずしに排除されることは、結局は、ロシアの張作霖篭絡まで待つことになる、という考え方で、関東軍の行動は追認されることになった。

 

 ここまでは、ロシア帝国の侵略体質、そしてこれを継承するソ連の侵略体質に対して先手を打って封じるという意味では、日本はまともだったのである。

 

 ところが、東大の革新派経済学者には、ハンナ・アーレント、バーク、ハイエクに通じる自由の哲学がなかった。

 東大には、共産主義反日キリスト教徒と革新国家計画経済派の三派はあっても、反共産主義、反全体主義、絶対的に「多党制と言論の自由」保持する自由の哲学を持つ保守思想が完全に欠落していたたのである。

 

 そのため、反ソ、反共産主義の動機は、ただ天皇制を否定させないという弱い動機しかなかったために、簡単に英米敵視に向かってしまった。

 

 英米自由主義のほうが、政治犯収容所、言論統制の面で本質的に共産主義よりも軽いということを、戦前戦中日本人のほとんどすべてが理解できなかった。

 いまでさえ、GHQの洗脳を言い立てるくらい、共産主義の思想洗脳、言論表現の統制の悪質性に無頓着である。

 というのは、GHQの言論統制は、占領期間中だけの事であり、禁書図書でも、個人所有は許容された。ところが、共産主義社会は、個人所有でも相互告発によって摘発され、政治犯収容所で強制労働から拷問、処刑までが待っているのである。

 

 

 

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