立花隆批判 「天皇と東大を」を読む 4

 満洲事変では妥当と言っていい解釈を示した東大経済学部の非マルクス主義系経済学者のグループは、陸軍内部で反英米派と反ソ連派の対立がはじまり、近衛文麿、風見章、昭和研究会らのコミュニスト政治家、知識人と同方向を指向した事もあって、反ソ連派は少数派に追い込まれていく。

 満州事変は1931年

 近衛・三木清昭和研究会の立ち上げは、1933年12月27日。

 近衛・風見コミュニスト内閣成立が 1937年

 シナ事変は1937年

 ※ つまり、この時代日本共産党コミュニストは暴力革命組織の拡大を図って検挙されて転向または、長期拘留され、非日本共産党系(戦後の社会党系)のコミュニストは、約460名にもおよぶ検挙者を出したが、結局無罪になった。そして、日本共産党の転向組と治安維持法の目をかいくぐった、日共の本部指導者になるくらいの力量を持ったコミュニスト知識人が昭和研究会に結集していたのである。

 このあたりをやぶにらみで見ると、まるで戦前戦中はコミュニスト治安維持法によって弾圧されてグウの音もでなかった時代のように錯覚するが、スターリンは、表向きは反ファシズムと称してルーズベルトと手を結んでみせて、対ドイツには、アメリカの助力を得ながら、極東の宿敵日本を壊滅する手段としては、アメリカを手駒に使う一方、日本のコミュニストに「日共系」「社会党系」「非公然コミュニスト」の三方向に働きかけて、非公然コミュニストには、蒋介石英米に向かっての自爆疲弊戦略を取らせたのである。

 その流れの中には東大の甘ちゃんコミュニストが反ソ満州事変を「平和主義」で反対して、自主的にソ連を助けてあげる一幕もあった。

 

 人民戦線事件(非日共系コミュニストの460名検挙)は、1937年12月15日。

 この人民戦線事件は、意図的か偶然かは不明だが、460名という大量のコミュニスト検挙によって、近衛・風見。昭和研究会コミュニスト性をカムフラージュするに十分な効果を発揮した。

 

 つまり、満州事変という反ソ連行動を1933年から、じわじわと親ソのコミュニストが日本全体をレーニンの帝国主義戦争から敗戦革命へという理念と暫時計画経済社会に向けての二股路線へ舵を切った流れが見てとれる。

 

 このような状況が立花隆には、どう見えるかというと、

「当初満州事変にいろいろ疑問を持っていた人も、それを合理化する方向(道義よりも利益)に頭が動いていった。」となる。

立花隆天皇と東大」文春文庫 3巻目 502ページ6行目

 

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 これは非常に粗雑な見方であるのは、満州事変には、もともと道義の問題はなく、むしろ国家機関の一部としての陸軍の上意下達の原則が関東軍の勝手な行動で破られていいのか、正しくても軍隊機構において上部の許可命令しない事を地方組織が勝手に実行するのは重大な軍法違反ではないのか、という疑問が、追認という形で解消され、この追認はその後の二・二・六事件やシナ事変拡大の過程におけるさまざまな脱線、海軍の個々の敗戦情報の隠蔽につながり、そしてなによりも反ソから英米に変化していった事態をすべてすっとばしてしまう見方を立花隆をしているのである。

 

 皇国思想をほとんど一手に引き受けて狂的に染め上げた張本人、平泉澄コミュニスト政治家にして首相になりうる条件を備えた男、近衛文麿と出会ったのは、昭和8年1月、(1933年)大亜細亜協会創立懇談会の席においての事だった。

 この時、平泉澄きよしは、39歳。近衛文麿41歳。

 興味深いことに、昭和研究会立ち上げがその年の12月である。立ち上げと同時に設立を考えるわけもなく、平泉と出会う頃にはすでに近衛の胸中には、昭和研究会設立への構想なり、指向はあったことになる。

 

 平泉澄きよしがいつ、どのように陸軍中枢に入り込み、近衛の後押しでさらに地歩を固め、次に東條の強力な押しで陸軍海軍の将校9割を狂的な皇国思想に洗脳していったかを跡づけることは重要である。

 ※平泉澄きよしと、いちいち「きよし」と表記するのは、読者の頭にしっかりとこの人物の名前を自らたたき込んでもらわないと、日本の戦前戦中の実態を真相に近いかたちで把握することは到底かなわないからである。

 

 日本ファシズム云々より、誰がいつ、この平泉澄きよしという東洋のラスプーチンと言うのでは足らない、日本史上最大の悪魔宗教家の存在をこそ、日本人は歴史の教訓として知るべきである。

 

 ヒトラーが単に「ファシズム」にとどまらず、「アーリア民族主義イデオロギー」を妄想して、アーリア人種の優越性など考えた事もなかったドイツ人にこれを宣伝したように、日本はこの「平泉澄きよし」によって、英米への自爆を本格化させたのであり、戦後日本人が常に疑問とする、「いったい講和を想定しない戦争だったのか」という疑問への回答は、この平泉澄きよしが陸海軍将兵に講和の二文字を消し去る観念と異常に昂進した皇国尽忠思想を与えた、ということなのである。しかも、それは、はっきりと、「ソ連ではなく、「英米」を標的にしていた。この平泉の誘導した「講和なき徹底抗戦」は、ソ連の歴史的進歩性を信じたアメリカ内部の多数の親共産主義者の、アメリカの共産化が無理なら、まずアジア、東ヨーロッパから、という体制変革構想に合致するものだった。

 

 

 ※もちろん、アメリカ内部の反共グループにしてみれば、太平洋における障害物である日本の脅威を、日本小国化によって除去した上で、蒋介石国民党と組んで反共自由市場を確保したというところだろうが、これは、結果的にソ連に有利な結果をもたらして、アメリカは、ソ連が人的に消耗しない「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」を西側として一手に引き受けて米国国民の血を流す負担を引き受けることになった。

 

 まず平泉澄きよしの名前を、日本人のほとんどが知らないということが、日本の戦後平和教育、進歩的知識人、市民主義者の平和教育の茶番性の証拠である。

 

 平泉澄きよしのヒトラー類似の狂人性狂人的思想を言わずして、戦後日本の進歩主義者、市民主義平和思想は、「国家神道」を排撃、非難してきた。怠慢も甚だしい。

 ヒトラーの演説、ヒトラーユダヤアーリア人種主義をつぶさに研究する必要は世界的に常識であり、これをドイツ民族主義だのナショナリズムの危険性に還元して済まされるとする者は少ない。まさに、ヒトラーの狂性はそれはそれとして重要なのである。

 

 なぜ平泉澄きよしがかなり狂っていたかというと、江戸時代の庶民も戦後の庶民も、同じように神社に参拝し、伊勢参りをするが、そのとき、いちいち「天皇陛下」に意識を思い及ぶことはない。ところが、この平泉澄きよしという人物は、日本史の学びも神社のお参りも、すべて天皇尊崇、忠に結びつけたのだから、異常というほかない。

 まさに今の北朝鮮が、「子供の教育も国民の行事も皆、偉大なるジャングン様、将軍様

と、(日本人があまり知らないだけで知れば腰を抜かすほど、ジャングンさま、ジャングンさま、金正恩さまと言うがごとく、平泉澄きよしこそが、さまで天皇陛下天皇陛下と思ってもいなかった軍人にまるでずっと前から狂信していたみたいに教え込んで狂信軍人反米凶人を作り上げたのが、平泉澄きよしである。

 

 つまり、戦前日本人は天皇陛下万歳と狂信していた、というのは正しくなく、平泉澄が現れて以降、洗脳がはじまり、そしてかなり洗脳が効いた、というべきものである。

 ドイツ人がドイツ民族の狂性を第一次世界大戦以後、じわじわと開花させたわけではなく、ナチスドイツに領導されたという側面が強いように、

 

 明治以来の天皇陛下の存在がじわじわと日本人をして天皇陛下狂信に向かわせたわけではない。ドイツに凶人ヒトラーが出現し、なおかつヒトラーが政権を掌握してドイツ全体を暴走させただけの政治社会状況があったように、平泉澄きよしは、日本を暴走させた劇薬だった。

 

 いったい誰がこの平泉澄きよしを軍隊内部の講演に呼んだかはわからないが、昭和7年から平泉澄きよしは軍隊で講演するようになった。当時、平泉澄きよしは東京大学国史学科助教授で、教授昇任は昭和10年である。

 平泉澄きよしの経歴には、非常に「怪しい」ところがある。というのは、昭和5年、1930年に平泉澄きよしがフランスで研究した目的が、「フランス革命」なのである。

 時の王、王室家族を皆、ギロチンで処刑した、革命を研究したのである。

 果たして平泉が他国の宗教事情や他国の王制史ではなく、なにゆえに王族を処刑したフランス革命を研究したか、何を思って帰国したかは謎というしかない。

 しかし、この点、革命を研究したことが事実である以上、彼は単なる国史専門家ではなかったことは、史実である。

 そして、この平泉澄きよしの弟子である田中卓は、2016年の今上天皇陛下の皇位

継承問題で、小林よしのりに対して、「女系天皇」積極説を説いているのはいったい何を意味するのだろうか。これもまたすこぶる「怪しい」としか言いようがない。

 

                                   続く)