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立花隆批判 「天皇と東大を」を読む 5

 きわめて広範な資料にあたるという点で優れている立花隆氏ではあるが、平泉澄きよしについては、平泉が「フランス革命の研究」を昭和5年1930年某月から1931年7月まで、フランス、ドイツに滞在して行って、帰国してから、全国の高校、専門学校で「日本精神の復活」や「神皇正統記と日本精神」を講演するようになり、この流れがやがて陸軍士官学校、海軍の将校への皇国教育へとつながった事は省略している。

 そして、この神皇正統記とは、単に天皇にまつわる古典と言うことを意味しない。

 立憲君主制という君主の権力を制限する制度を否定したい思想を含意していることは、日本史をさらった人間なら、すぐに気づくだろう。

 神皇正統記とは、「武力でもって、天皇独裁の天皇親政を実現しようとした後醍醐天皇の再側近である北畠親房の書であり、多くの天皇の中でもあえて後醍醐天皇に焦点を合わせたところに平泉澄きよしの意図があることは明白である。

 この天皇独裁の親政を理想すとする教えを全国の(現代で言えば四年生大学に相当する高校生で、進学率の低い時代だから、相当のエリートたちに教えた理由が本当に単純に皇室尊崇だったのかどうかは、フランス革命研究の直後に始めただけに、そう簡単に解釈はできない。

 

 察しの悪い人に向けてあえて言うなら、現在ある全国の素朴な神社で、いちいち天皇陛下がどうの万歳三唱しましょうだの言えば嫌になって神社参拝する気になるのが嫌になるだろうけれど、この平泉澄きよしの皇国思想というのは、当時の神官、宮司が思いもよらないような異常なものだったのであるが、おそらく、平泉澄きよしの解釈は後醍醐天皇にばかり焦点をあてた偏った天皇理解だと批判する空気がなかったのだろう。

 

 だいいち、平泉自身が、自分以外の国史教育は「政治上の出来事を雑然と並べただけ」と言っている。これは、たとえて言えば、キリスト教の牧師や神父が庶民に生活感覚にあてはめて、思いやりや慈しみに関係のある聖書のエピソードを紹介して、信者の心をやさしい気持ちにして慰めていたところに、「イエスはユダヤ教徒に対して悪魔の子だ」彼らユダヤ教徒は悪魔なのだ、と強調する司祭がいたのに似ていて、国史の中のことさら「天皇親政」を強調する部分を選択して教え始めたとことを意味する。

 

 これがヒトラーと同様の洗脳思想であるのは、(GHQの洗脳どころの話ではないはるかに強力な洗脳)であるのは、平泉澄きよしは、織田、秀吉、徳川の知恵もなにもまったく認めなかった。戦国の武将が特段、天皇陛下に命を捧げたわけではないからである。

 

 ひとつの可能性として平泉はとぼけて、何を陸海軍両将兵に、皇国思想を吹き込もうとしたのかと、今仮説を立てると、まず、

 1.簡単に講和させないこと。猪突猛進させること。

 もちろん、勝たせるために猪突猛進が必要なのではない。死屍累々、凄惨な敗北を見る結果になることを見越してである。

 2.米英と戦うべきか、ソ連と戦うべきか。米英との泥沼の果てには、何があるか、たとえばソ連軍の侵攻がありはしないか。そうした冷静沈着な分析をすべて無用、無化してしまう事。神国なのだから、細かい分析、議論は不要、ということだ。

 3.平泉澄きよしは、フランス革命を研究して、ジャコバン党、ロベスピエールの血で血を洗う粛清と王の処刑の過程を知っていたが、この時代、ほとんどの陸軍海軍の将兵、高校生(現代の大学生の中でも優秀な部類の学生)も、マルクス・レーニン主義は読んで知ってはいても、フランス革命の詳細は知らなかったろう。

 これは現代人も同じで、従軍慰安婦問題に詳しい半知識人は左右ともに、多いが、フランス革命の過程は映画、ドラマが漫画くらいしかないこともあって、リアルなイメージはほとんどの日本人の脳裏にない。

 

 マルクスが自分自身は生涯のほとんどの時間を大英図書館ですごしたように、平泉澄きよしは、自分自身はあくまでも各地の講堂でしゃべりに徹して、皇国思想を将兵と軍指導層に皇国思想を狂信させて、フランス革命に似た激動の権力闘争の成り行きを見ていればいいというつもりだったという疑いがある。

 

 もしそうだとすれば、平泉澄きよしが戦争中にでも、なにか重い病気にでもかかって突然死でもしていれば、それこそ、後は野となれ山となれ、で平泉澄きよしの巻いた種は勝手に開花して、凄惨な日本壊滅は示現して、嫌が応にも天皇廃位、退位、あるいは死刑、またあるいは日本人民に処刑された可能性があるが、現実には、そうはならなかった。

 しかし、少なくとも、敗戦の後遺症は華族の廃止等様々な制約を生んで、現在では、果たして皇室が存続しうるかいなかさえ危ぶまれる状態になっているのである。

 

 そして、奇しくも平泉澄きよしの一番弟子の田中卓が、皇室制度の廃止につながる「女系天皇」を人気者の小林よしのりに教示しているのは、偶然であろうか。

 それとも、平泉澄きよしも、田中卓もそこまで用意周到かつ遠大な人民主権革命を狙ったわけではなく、単なる、とんでもない奇妙な天皇親政論者、後醍醐天皇マニアにすぎなかったのだろうか。

 謎というしかない。平泉澄きよしが単純に短慮な国際関係に無知な国史学者であるゆえに、真剣に戦えば勝てると無責任に思い込んで将兵に吹き込んだに過ぎないのか、「天皇親政にあらざる皇室など、消えて無くなってもいい」という奇怪な妄念を持っていたか、それとも、ルソー型人民主権を目指して意図を隠して日本を米英への講和なき長期戦という破滅にわざと向かわせたのか、証拠はないのである。

 

平泉澄きよしが、いかに深く陸軍最上層に食い込んでいたかを如実に示すエピソードが立花隆天皇と東大」に紹介されている。

天皇と東大」文春文庫版 3巻目 295ぺーじ

 (阿川弘之著「井上成美」の引用

海軍大学校では、教官の徳永栄大佐が、末次信正張りの国粋主義者で。東大平泉澄きよしの学説に傾倒していた。」

 

 「(平泉澄きよしの本人の回想)

私は陸大、海軍大学校海軍兵学校陸軍士官学校、海軍機関学校、霞ヶ浦、それから各部隊から来てほしいでしょう。それを都合つけてまわった」

 

 戦後(年度不明)立花隆同書引用の「軍事史学」第17号「平泉史学と陸軍」

 著者は平泉澄の私塾「青々塾会員」だった竹下正彦中佐

「昭和9年頃には、当時の陸軍士官学校の幹事、東條英機少将によって同校の国史教程が平泉澄きよし博士によって編纂されることになり、またその頃には、毎年博士を招いての講和が催されるようになった。その皇国史観は軍の中枢幹部にも浸透していったと考えられるのである。」

 

 この皇国史観は極端な誇張を含むがゆえに、愛国にとって、両刃の剣となった可能性がある。というのも、阿川弘之が述べるように、井上成美などは、「平泉澄の考えを真に受ければ死に急ぐ若者が増える」と嫌悪していたという。

 それだけなら、まだしも、たとえば、太宰治の弟子を任じていた女と酒に酔いつぶれた田中秀光は、当初、単なる愛国青年だったが、戦後は日本を呪詛しつつ日本共産党に入党し、日本共産党の欺瞞にも憤懣を感じてもだえるように、女におぼれて先が見えないまま、太宰の墓の前で自死するのだが、平泉澄きよしの大仰、誇張と空威張りと迷信の無い混ざった皇国思想を強制されて命の危険にさらされては、日本をひとしお憎んでもおかしくない。そういう変な反発で、戦後日本共産党に入った人も多い事を思えば、平泉澄きよしは、むしろ、露悪的に、まともな精神の日本人なら、嫌になるような国史解釈をわざと広げて見せた可能性も否定しきれないのである。

 

 小林秀雄は戦後、晩年になって書いた「本居宣長」の中で、宣長の強調した「大和心やまとこころ」は、猪突猛進、勇猛果敢のことではない、本居宣長は、大和心やまとこころ」は、柔らかいこころ、考え方のことで、山賊、強盗に押し入られたら、勇気を出して踊り出て立ち向かうのではなく、冷静にいったん、隠れて、後日に復讐の方法を練り直すのが、やまとこころだと言った。

 

 が、平泉澄きよしは、日本精神の極地は、「忠」の一字に帰する、と教えた。

 まさに偏りとしか言いようがないのは、長い平和の時代もあるだろうに、平泉澄きよしはただただ、日本国のために命を捨てるのが日本人すべてになればいいなどとたわけた事を大まじめに語った。

 

 潜水特攻兵器、人間魚雷「回天」の開発発案者である黒木博司海軍大尉は、人間魚雷回天の実験中に自らが事故死を遂げたが、彼が人間魚雷回天を、思い詰めて発案した閉経には、やはり平泉澄きよしの異常な皇国思想に心酔したという事が大きい。

 

 平泉の影響は陸軍、海軍だけではなく、内閣中枢にも及んでいた。

 立花隆 天皇と東大 文春文庫版 3巻目 342ページ

保坂正康が取材した226事件の決起将校の同士のひとりだった末松太平の証言。

 

 末松が226事件の嫌疑で逮捕されて下獄した後、近衛内閣の書記官長、富田健治宅を訪ねる機会があった。そのとき、富田宅に和歌を書いた色紙が飾ってあって、それが富田健治書記官長の師、平泉澄きよしの直筆だと富田が言ったという。

 しかも、その歌は「みちのくの つもる白雪 かき分けて

 いま日の皇子は 登りますなり」というもので、226事件の時の秩父宮が「日の皇子」なのではないかとも言われる。

 

 これには、ふたつの解釈がありうるのである。

 増田甲子七(ますだかねしち)当時対満州事務局課長は、柳川平助第一師団長が「皇位がありがたいのであって、人がありがたいのでないから、血統が正当なら、別の人でもよい」と言ったのを聞いたと回想録に書いている。

 

 これは押し出しの強い対外強行派の天皇を単純に望んだとも考えられるし(実際柳川はそのつもりだろう)、あるいは、実質的にも天皇親政にして、戦えば、本当のところ、勝てはしないし、悲惨な結末での敗北なのだから、指揮者として天皇家は断絶になるという遠大な構想があったのではないか、とも疑われるのである。だいいち、実際、日本は必ず敗北すると予想していた人は予想以上に多いのだから。

 

 が、現代(2016年頃)の社民。共産、民進、辛淑玉姜尚中徐京植香山リカ上野千鶴子山本太郎、らアナキスト群のようなわかりやすい状況とちがって、戦前戦中の日本は実に解明は一筋縄ではいかない、謎に満ちているのである。

 

 というのは、226事件の後の翌日、2月27日に平泉澄きよしは、自分に特に傾倒する陸軍砲工学校高等科の学生井田政孝と陸士出身の田中謙五郎を平泉澄きよしが呼んで、三人で226事件の反乱軍に殴り込ん(斬り込み)で約7人で殺されよう、と言ったというのである。

 これを井田が告白したのは、平成4年中央公論である。

 井田のウソの疑いもある。なぜなら、井田は当時、北一輝の研究会に参加していて、「国家社会主義天皇制の衣をかぶせただけではないか」と反感を持った、というのだが、国家社会主義天皇制をくっつけたもの、というのは当時の秀才エリートにはわかりきったことで、その上での肯定だったろうし、なによりおかしいのは、平泉澄きよしの「天皇親政」強調がなぜ当時の将兵を強く引きつけたかといえば、昭和天皇と宮中側近の実態が立憲君主的で、親政を拒否するものだったから、平泉澄きよしの主張が「現状批判の革新」を意味するものだったからなのである。

 つまり、平泉澄きよしの天皇親政は結局国家社会主義的な計画統制経済の納本主義であろうから、北一輝の国家改造とたいして変わりない。

 立憲君主制の自由尊重の「天皇親政」などあるはずもないのに、なぜ、平泉澄きよしに感化された井田が北一輝に反感を持ったというのか、まったく筋が通らないのである。

 井田は平泉澄きよしは226事件の北一輝とつながりがなかった、と歴史を偽造したかったのではないのか、という疑念が生じる。

 

 立花隆は井田の告白が本当だという立場に立って、保坂正康の説「平泉澄きよしは226の首謀者の同士だった」という説を否定している。

 いずれにしても、納得のいかないわけのわからない行動ばかりしているのが、平泉澄きよしである。というのも、この斬り込み計画は、井田によると、陸軍本部の制圧によって中止になったというのだが、死ぬ覚悟で計画を練ったというにしては、敗戦の日当日の平泉澄きよしは、まったく死ぬ気がない、いままでの尽忠報国はなんだったのか、他人事かというけろっとした態度だったのである。

 

                                    続く

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