立花隆批判 「天皇と東大」を読む 13

立花隆批判 「天皇と東大」を読む 第13の書

 

 立花隆は労農派検挙人民戦線事件を共産主義平和運動が弾圧されたものだと解釈している。

 

 だが、これは実態は、ソ連が日本の労農派コミュニストを反ソ連向け戦争の抑止勢力として使った思惑が、もうひとつの日本コミュニストラインである近衛、木戸、尾崎らの蒋介石英米自爆戦争戦略の邪魔になったため、近衛、木戸の子飼いの公安畑の官僚に一斉検挙させて、対蒋介石戦争の邪魔になる勢力を除去しようとした動きである。

 

 つまり、のんきな平和主義の共産主義者を構想力のある冷血な自爆戦争戦術の共産主義者が排除したという構図が、人民戦線事件である。

 

 この時、検挙を指揮したのが、安部源基内務省警補局長。安部源基は、京都大学時代にマルキストの大御所河上肇に心酔した木戸幸一の昵懇の中級官僚であり、警保局保安課長富田健治は、後に第二次近衛内閣、第三次近衛内閣と連続して、内閣書記官長に就任している。実質、官房長官である。

 

 そして、この富田健治は、平泉澄きよしの高弟でもあった。

 立花隆はこの人民戦線検挙事件を「巨大な国家意思」と言うのだが、巨大な国家意思ではなく、近衛・平泉澄きよし・昭和研究会ら反英米派(英米戦争辞さず派)にして親ソ派の意思なのである。

 

 このあたりの人物配置を見れば、近衛上奏文が、真相隠しの意図を持つ故意の告白文だったことがわかろう。

 近衛は第一次内閣風見章、第二次第三次に富田健治と、びっしりと英米憎悪派を意識的に配置していたのであり、内務官僚や陸軍内部のコミュニストにだまされたのではない。陸軍将校をのきなみ反英米に凝り固まらせたのは、近衛が平泉澄きよしを使って、わざとそうしたのである。

 

 一枚上だったのは、陸軍将校たちではなく、近衛・木戸・風見・富田・平泉ら、非軍人の首相官邸、宮中側近たちのほうである。

 

 そして、立花によって労農派は国家権力によって弾圧された良心的知識人のようなイメージに形作られるが、なんのことはない。ソ連に踊らされ、しまいには、日本政府中枢のコミュニストたちに邪魔者扱いされただけの小者たちである。

 

 その小者たちが、戦後日本の社会党を主導し、その弟子たちが、民主党民進党の主役たちなのだから、解体に瀕しているのも当然である。

 立花隆は、故意か勘違いかのどちらか不明だが、「巨大な国家の意思」と労農派との対決の構図を描くことによって、日本の推進勢力が軍部よりもむしろ、首相官邸だったこと、労農派という後の進歩派・革新派で合法的社会革新派の社会党の源流を良心的な被害者に仕立てあげているのである。

 

 東大経済学部の大森義太郎、向坂逸郎大内兵衛、有沢広巳、脇村義太郎、山田盛太郎、法政大学の阿部勇、美濃部亮吉らは、人民戦線事件では結局不起訴になったものの、戦争時代の異端の学者として扱われ、辞職に追い込まれた。

 

 だが、彼らが辞職したのは、もう、誰の目にも敗戦が明らかになっての事だったのである。しかも、敗戦は戦争期に大学に残った側と辞職した側の立場の逆転を意味した。

 

 戦後、マルクス主義者たちは、東大の主流に返り咲いた。ごく例外的に、数人の、戦時残留組で、そのまま戦後も東大の教授であり続けたグループもいた。

 しかし、なんとばかばかしいことよ。

 この東大のマルクス主義学者とは、マルクス主義者とは言っても、自己保身から、非合法共産党活動から距離を置いた上で、さりとてソ連への尊崇も捨てる事も出来ずに、日本は暴力革命には、時期尚早だから、まず、合法無産政党を議会に出してから、とかなんとかというような虫のいい社民党系のマルクス主義者なのである。

 

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