立花隆批判 「天皇と東大」を読む 16

立花隆批判 「天皇と東大」  16

 

  • 以下立花隆の戦前観のおかしなところをピックアップしてみる。

※すべて文春文庫版4巻

  • 299ページに、東大法学部教授矢部貞治が、昭和13年8月25日の日記に「文部省側と東大総長が会見するらしいが、その中に箕田胸喜の名があったのは不愉快至極」という部分を立花隆は共感をこめて引用している。

 

 しかし、この立花隆の著述が戦後まもなくの著述ならば、そういう箕田胸喜嫌悪の文章を引用することも仕方が無かろう。

 

 立花隆がこの著作を執筆したのは、2003年前後であって、ソ連、中国、北朝鮮東ドイツルーマニアなどの社会主義国家の馬脚がすっかりあらわれてしまったあとなのである。

 

 戦前戦中の東京大学マルクス主義経済学者、法学者たちが、いかにとんちんかんな洞察力の持ち主で、箕田胸喜の反共産主義こそ、むしろ完全にとはいえないまでも、全体主義の危険性の真実を察していたかもしれないという疑いが生じてもよさそうなものだ。

 

 立花隆は、当時の東大教授の半分を占めていたマルクス主義者を箕田胸喜が強烈に排撃し、また社会民主主義者の河合栄治郎マルクス主義者を排撃した事について、共産主義者言論弾圧の被害者とばかり見て、知識人としてロシアマルクス主義にすっかりかぶれて疑問を持たなかった事、知識人としてのレーニン、スターリンへの盲従ぶりを批判していないのである。

 

 どうも立花といい、立花に師事する学生たちといい、反共産主義といえば、言論弾圧だから、どんな思想であれ、弾圧はよろしく無いと思いたいらしいが、その後ソ連は、ソルジェニーツィンなどによって暴露されたように、北朝鮮に酷似した、政敵粛清、暗殺、政治犯強制収容、職業、移動の自由のない社会、頻発する餓死などに帰結した。

 

 そうした社会主義国のたどる結末について善意の目でしか見ることのできなかった戦前のマルクス主義者たちの浅薄性はなんの批判もされないでいいのだろうか。

 

 2.福田歓一丸山真男の「聞き書き南原繁回顧録」という対談の引用も同じ事が言える。

「日本のマルキストの最大の過誤は、自由主義者と戦ってしまったことです。自由主義者と戦って、ファシスト国家社会主義者)と戦わなかったんです。」300ページ

※丸山の言葉はしゃべり言葉でわかりにくいが、主旨は上記の通りの発言である。

しかし、日本のマルキストの最大の弱点はファシストと戦わなかった点にあるのではない。

 マルキシズムなどという間違った学説を学生に教えて、まるで世界最先端のインテリです、みたいな態度をしていたことだろう。

 

 3.「8月15日以前、天皇はただ一人だけが絶対的な自由意志を持つ「上ご一人」の世界だった。あとはすべての国民が絶対的に服従する臣民だった。」

 こういう言葉を立花隆が書き付けているのを確認すると、韓国の知識人の言論の愚劣や韓国の政治活動家の愚行を見てあきれ果てる時の、人間ってこんなに馬鹿なのか、と不愉快になるときと同じ不快感を覚える。

 

 立花隆の言うことが本当なら、日本文学史に夏名漱石坂口安吾太宰治織田作之助も、川端康成谷崎潤一郎芥川龍之介中島敦小林秀雄も、皆日本にいるはずがないではないか。彼らが皆、臣民としての心しかなくて、あれらの文学作品を書けたはずがない。

 4.立花隆も左翼だろうが、右翼だろうが、学生でもわかりそうな馬鹿げた天皇理解を書き付けている。305ページ

「1868年、王政復古によって疑似古代王朝的天皇親政の時代がはじまった。

 1889年明治22年から近代的立憲主義国家になった」という。

 これはおかしいだろう。この見方では、大久保利通らは、いちいち天皇に指図されて動いていたことになる。

 また、明治22年からが近代的立憲主義国家だと教科書的正解を書いているが、ならば、近代的立憲主義国家であるのに、「8月15日以前、天皇はただ一人だけが絶対的な自由意志を持つ「上ご一人」という戦前理解とまるで矛盾するではないか。

 

 5.308ページに立花隆はある程度史実に近い記述をしている部分がある。

天皇以上に」ラディカルな天皇主義者たちが、国体明徴運動に名を借りて国政と社会体制と国民感情をほしいままに動かしていく体制が作られてしまった」

 これなら、まあまあ、史実に近い説明といえよう。

 が、この説明とあとがきの420ページ「統帥権という天皇大権によってあの戦争の全局面を仕切った天皇なのだ」という記述は矛盾しているという他あるまい。

 あたかも天皇が独裁して采配したかのように、左翼にねじまげられた解釈、「統帥権という天皇大権によってあの戦争の全局面を仕切った天皇と指弾されることになった」というのなら、まだしも事実に近い。

 が、立花隆は自分自身で論理の矛盾する事を言っている。

 

 6.309ページには、「軍隊は、天皇にはアンコントロ-ラブルな組織に変わっていった」とまともな認識を語りながら、あとがきでは、「統帥権という天皇大権によってあの戦争の全局面を仕切った天皇」と平気で書く。

 

 なんと、立花隆は、陸軍の暴走開始は満州事変からで、14年間は陸軍の武断統治だった、という。ならば、この14年間、天皇の戦争責任は非常に軽くなり、大江健三郎高橋哲哉とまったく異なる立場になるではないか。

 

 7.311ページには、立花隆は「日本は過激右翼と軍部に支配された国になってしまったのである」と書いている。

 少なくとも、自分の言っていることと矛盾する説明だけはしないほうがよかったのではないか。これも、「天皇大権によってあの戦争の全局面を仕切った天皇」とまるで矛盾するだろう。

 

 8.7年間かけて戦前の日本現代史の解明に取り組むファイトと知力のある立花隆にして、この矛盾きわまる脱線、言いっ放し、誇張の論述である。

 立花隆はたぶん、まだいいほうなのだ。これでは、後代の青年も、論理矛盾の歴史観を読まされて、頭がおかしくなるような思いをしよう。

 

 8.327ページ

「私にわかってきたことは、あの時代は後世のわれわれが考える以上に国粋的だったということである。」

わたしも、立花隆のこの労作を読んでそう思った。しかし、立花隆は気づいていないようだが、同時に「私たちが考える以上に、マルクス主義の東大教授が多すぎるほど多かった。そして、もしかすると、あまりにもマルクス主義系の学者が蔓延した前史があったからこそ、対抗的に、国家社会主義が力をつけ、社会変革の主人公たらんとする志のお株を奪う心理として、英米本位の平和、すなわち、植民地主義を破壊するのは、マルクス主義日本ではなく、皇国日本だという異様な発想が生まれたのではないかという疑いも出てくる。

 

 330ページに看過できない部分がある。

 「明らかにあの時代、日本は戦争を起こすという過ちを犯した」という部部である。

 立花は、侵略という過ちを犯したと言っていない。「戦争という過ち」と言っている。

 これが問題なのである。

 では、日清戦争も、日露戦争も不要なのか、「戦争が過ち」なら、韓国人の朝鮮戦争は過ちなのか、過ちでないのか。ベトナム人のベトナム戦争はしないほうが良かったのか。

 こういう難しい問題が出てくるのは、「戦争という過ち」という認識がおかしいからである。

 はっきり言えば、「戦争を起こす」とは、過ちではない場合もある。

 もし、過ちだというなら、ヒトラードイツに宣戦布告した英国は過ちで、ヒトラーにヨーロッパを占領させていいことになり、北朝鮮にミサイルを撃ち込まれたら、すぐに降伏を通告することがいいことになる。少なくともこうした事を考えないで、「絶対平和」を唱えるのが、日本の病なのである。

 

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