大東亜戦争 近衛文麿の南進政策と陸軍
シナ事変の泥沼化は、陸軍参謀本部が、英国、米国の蒋介石国民党支援を重大な、解消困難な障害と認識しない失策から起こった。
もうひとつの原因は、蒋介石国民党内部に、当時国民党に比べて劣勢だった共産党のスパイが国民党に入り込んで、日本軍と国民党を衝突させて、国民党を消耗させるために、あえて、国民党傘下の部隊を、しばしば、蒋介石の命令を逸脱する形で日本軍に攻撃を仕掛けて挑発した。
こうした共産党の戦術を日本が把握せず、仕組まれた国民党との紛争に応戦しながらも、屈服させる事に拘泥ぢて、中国に本格的に侵攻した。
これを、朝日新聞の尾崎秀実らに、世論を誘導され、はめられた。
近衛自身、生来の英米嫌いから、尾崎に乗せられたのか、本人が意図的な共産主義者だったかは、今となっては不明だが、近衛自身が、陸軍のレールを作ったのであって、陸軍に強要されたのではないことは確かだ。
さらに、日本国内では、日本の武力を中国国民党に向けて、ソ連および中国共産党を安全にする意図を秘めて、表向きは、蒋介石国民党許すまじ、などと言って朝日新聞の記者らが世論を誘導した。
英国・米国は「いわゆる援蒋ルート」と呼称される経路で、国民党を支援した。
イギリス領の香港を経由する経路。
フランス領のベトナム経由
イギリス領のビルマ経由の三ルートである。
日本はまず、ドイツに占領されて弱体化したフランスの「フランス領インドシナ総督の了解」をとりつけて、ベトナムを占領して、ベトナムルートを遮断。
フランスのビシー政権は日本との交渉を行った総督を更迭したが、改めて8月末、ビシー政権の駐日フランス大使との間でフランス領インドシナへの日本進駐の合意がなされた。
次に香港、ビルマからの援蒋ルート遮断のため、香港、ビルマに侵攻するが、ここで中国国民党と講和するための香港・ビルマ遮断は英国軍とぶつかるという負担を引き受ける展開を意味することになった。
日独同盟が本格化すると、アメリカは日本への石油油種を停止。
石油を止められた日本はオランダ領インドネシアの石油を確保しようとするが、オランダも敵に回すことになる。
1936年8月7日 広田弘毅内閣で初めて南進論が本格化
1940年6月、英国、フランスがドイツに対して弱体化したのをみさだめて、陸軍省の武藤章と企画院に鈴木禎一が武力南進案を準備。
7月27日には、大本営政府連絡会議で武力南進。ベトナム北部進駐を決定
1940年9月 フランス領北部インドシナ(現ベトナム北部へ進駐)
1941年6月
ドイツがソ連の侵攻したのを知って、日本の親ソ派は、社会主義ソ連を守ってあげるために、「英米戦争を辞さない旨、日本の政策決定を再確認。」
この時、松岡洋右はソ連攻撃を主張するが、親ソ派の近衛は松岡を更迭。
近衛は松岡を日独協調には、利用し、松岡が対ソ連戦を主張すると切り捨てた。※松岡もまた、かなりけったいな人物で、当初は親ロシア派。ここに至ってソ連攻撃に転じた。
また、日独提携も当初はドイツとの提携に反対していたが、やがてアメリカに対する牽制には、日独提携は有効と考えるようになったが、かえって、英米の反発を買った。
近衛は松岡を排除して第三次近衛内閣を組閣して、南進論を確認して、対英米対決へ歩を進める。(現在のベトナム南部は、北部よりもさらに援蒋ルート遮断に都合がよかった)
ただし、近衛自身が確信犯の親ソ反英米なのか、尾崎秀実に操られた大馬鹿なのか、非常に判断が難しい。
また、尾崎だけが、アメリカが日本の南部仏印進出を侵略の深化とみなすと知っていて、近衛は甘かったのか、近衛も腹の中で、アメリカが強硬反応するのを実はわかっていてとぼけていたのかも、謎。
※近衛が旧摂家出身であることから、警視庁特高部の遠慮が働いて捜査から漏れれば、捜査自体していないのだから、証拠は状況証拠しかないことになり、どこまで言っても断定しがたい。
この後に、南部フランス領インドシナへ(現在のベトナム南部)の進駐を敢行して、ここで、アメリカの石油対日輸出停止となる。これは、英米戦辞さずの行動で、アメリカの反応は予想通りだった。アメリカは南ベトナム占領は、日本のさらなる太平洋方面占領の足がかりと判断した。
通説では、アメリカの反応は「予想外だった」としている場合が多いが、近衛内閣は、ソ連攻撃案を排除して、南進論を確認した時点で、「英米戦争を辞さず」としていたから、「予想外」のはずがない。(もしくはよほどの馬鹿だったか)