読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大東亜戦争と戦後日本 松岡洋右

 日本が本来やるべきことは、満州の地の人々をソ連中国共産党から守ってあげ、蒋介石国民党に統一政府を作らせてあげることだった。そうすれば、中国は現在の台湾に近似した国柄になる可能性はあった。

 

 また、朝鮮の北部が共産化しないことは、餓死して亡くなった人々の惨苦を防止することにつながったはずだったし、拉致被害者の苦痛、家族の悲痛な人生は、ふつうの生涯になったはずだった。

 

 1941年7月2日、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を近衛文麿は決定し、そこに「対米英戦を辞せず」という文言を入れる。

 <その原案作成は6月24日。

 2日前、6月22日が、ドイツのバルバロッサ作戦ソ連侵攻。>

 つまり、ドイツを捨てて、ソ連を守ろうという日本権力中枢の思惑と、ルーズベルトの、ソ連を守るために、早くドイツに宣戦布告したい、という思惑が偶然一致している。

※世界から愛された労働者の国家、ソ連

 

 7月28日、現在のベトナム南部に侵攻。そこは、アメリカ領フィリピンの目と鼻の先、マレー、ボルネオ、スマトラシンガポールという英国領の目と鼻の先である。

 

 ※サイゴン進出準備の日仏協定締結が、7月21日

これにアメリカが対抗して、在米資産凍結が7月25日

英国が在英資産凍結、7月26日

オランダが7月27日日本資産凍結。

これを無視して、日本は、7月28日、サイゴン進出。(フランスとの協定)

 8月1日、米国石油対日禁輸

 ※アメリカからすれば、フィリピン、グアム、ハワイは、自国民の安全のために死守すべきであり、同時に大西洋方面の欧州戦線では、リベラルとして、どうしても、正義の労働者国家、ソ連をドイツから守ってあげなけりゃならない。

 

 現在、フィリピンはアメリカから独立したが、グアム、ハワイのほうがよほど、民衆の幸福度は高い。英国の権益を排除したシナ国内の人々よりも、英国の影響の強い香港、マカオのほうがよほど幸せな人々が多いのである。

 

 元フランス領のラオスベトナムカンボジアなども、果たして独立戦争をして幸せだったか、疑問というしかあるまい。それをきっかけにコミュニストによる凄惨な同族相食む虐殺が行われたのだから。

 時代の趨勢にまかせて、植民地のまま、暫時発展していったほうが、良かった可能性がある。

 日本人はインドネシア独立に日本軍人が貢献した、というが、その立派な日本人も、本来、日本の地で何事もなく、生涯を終えるべきものではなかったろうか。

 

 9月6日、帝国国策遂行要領で、「対米開戦を決定す」近衛内閣

 ※これに昭和天皇は、反対の意思を表明する明治天皇の歌を二度、詠むが、内閣は無視。

 戦後、東大総長のクリスチャン南原繁とクェーカー教徒の大学教授高木八尺朝日新聞とともに、繰り返し、くりかえし、「道義的責任を感じて退位なさることでしょう。天皇は道徳的指導者なのですから」と騒ぎ立てた。

 

 ルーズベルト自身、リベラルの悪いところが露骨に出たような人物で、それがロシア皇帝の処刑の、歴戦の革命家スターリンと同じ時代に政治家となったことが、ルーズベルトをして、ソ連をアメリカ同様の新興国として「労働者のための善意に満ちあふれた友好国と錯覚することになった。

 

 ちょうどある種の日本人が毛沢東を善良な貧困民衆を救済する正義感あふれる好漢と勘違いした人もかなりいたように。

 

 ルーズベルトは、こうして、世界でもっとも、信頼のおける正義と道徳の国家、ソ連ナチスドイツの攻撃から、救うため、アメリカの太平洋戦線参戦の口実を確保する必要があった。

 

 日本の首脳は人類の希望である新興国ソ連を守るために、日本国の篤実な国民を地獄の戦場に送り出して、自分はのうのうと宴会をしていた。

 ルーズベルトもまた、ソ連を守るため、合衆国国民の息子たちを、戦場に送り出しては、戦病死、戦死をさせたという一面がある。

 もうひとつは、日本のサイゴン進駐は、アメリカの世論にとっては、現在にたとえて言えば、中国の尖閣上陸に等しい。尖閣上陸は尖閣に上陸にとどまらない。日本の尖閣確保は単に保持を意味するが、中国の尖閣確保は周辺に軍事力を整備して、台湾、沖縄を威嚇することが可能になる。

 

 日本の対米開戦は、アメリカがドイツに宣戦布告していい必要十分条件である、ということを意味した。

 ※その後、アメリカの共和党は、ルーズベルトの過ちに気づいて、アメリカ国内のコミュニスト排除にとりかかることになる。

 また、マッカーサーは、朝鮮戦争におけるソ連の自分だけは、表に出ず、アメリカ兵、国連軍兵、中国兵、朝鮮人だけを死なせるやり口に憤激して、ようやく、日本が、当初満州にこだわった理由が、ロシアの南下からの自存自衛だったことに気づいて、上院公聴会で証言することになる。

 

 黒沢明監督「七人の侍」とかけ離れて、大東亜戦争は度外れた間抜けのエリートが、篤実で誠実無比な日本の男達を死に追いやって、その多くは、戦後、のうのうとして生き延び、生涯を終えた。

 

 インパール作戦では、牟田口陸軍中将が約5万名の将兵のうち、4万名を餓死させた。

 

 山本五十六ミッドウェー海戦の敗北を陸軍にも、国民にも知らせなかった。

ミッドウエーの敗北を国民が知ったのは、敗戦後だった。

 山本五十六はこの海戦の敗北を国民に隠すために、故意に生き残った海軍パイロット達に休息を与えず、新しい戦場に送って日本に帰還させずに、死なせた。

 戦後すぐに朝日新聞は「熱心な」クリスチャンの東大総長南原繁の口を借りて、「一億総懺悔ではなく、天皇陛下が道徳的に責任を感じておられる」と大声で繰り返し言い張ったが、戦時中もっとも、確信犯の戦争を扇動したのは、朝日新聞だった。なにも、朝日新聞国粋主義にかぶれて戦争をあおったのではない。朝日新聞に「レーニンの帝国主義戦争(資本主義国同士が衝突して、消耗した後に、混乱の中で、革命が起きるのがいい)」を、理解した者が多かったから、故意に戦争をあおったのである。

 

 朝日新聞佐々弘雄、松本重治、笠信太郎、尾崎秀実らである。

 そして近衛内閣の官房長官格の風見章(あきら)は信濃毎日新聞記者時代、新聞にマルクス主義の解説をかいていた人物である。

 

 戦時中のソ連と戦後のソ連が、まるまる継続した指導部であり体制である以上、朝日新聞が戦後、「平和と武力放棄」の名のもとに、ソ連・中国・北朝鮮連合に対して、日本の抵抗力を弱体化させるための「平和」と「武力放棄」「中立主張」であったことは、いうまでもない。

 

 侵略したいソ連にとって、相手が中立を言うことは、赤子の手をひねるように、侵略してくださいと言っているようなものだ。

 

 だが、吉田茂首相は、中立せよ、アメリカ軍を駐留させるな、という親ソ派の東大進歩的知識人と朝日、岩波知識人の声を拒絶して、アメリカ軍をもって、ソ連の侵略を押しとどめた。

 

 日本人は、自虐史観に対する反発から、大東亜戦争は、「植民地解放」のきっかけになったと言うが、日本が日中戦争にひきこまれなければ、中国民衆が、毛沢東大躍進政策で、4000万人餓死する地獄を見ることはなかった。

 また、カンボジアのキリングフィールドもなかった。

 ラオスベトナム、朝鮮、は今でもかなり極貧だが、これは、ソ連がその地の共産主義者を支援したからである。

 また、フィリピンが今でも、かなり貧しいのは、フィリピンに長く共産主義ゲリラがいて、アメリカがさじを投げてフィリピンを放り出したからである。

 

 韓国もまた、そのかなりの人々が阿呆で貧しいのは、韓国国内の左派がはびこっているその分、思考がおかしいという面が大きい。そのことは、日本が共産党社民党民主党に足を引っ張られてきたのを見てもわかろう。

 

 近衛が狡猾なのか、朝日新聞の尾崎秀実がかしこいのか不明だが、1941年7月16日、近衛は「松岡洋右は対米強硬派だから」と対米戦争を心配する国民向けにそう言っておいて、国際関係上は明らかに対米挑発になる南進を進めて、おまけに南進論者の海軍大将、豊田貞次郎を外務大臣に据え、五日後にサイゴン入城してアメリカを挑発した。

 

 戦後、朝日、読売、その他のオールマスコミは軍部軍部と合唱して次世代の青年を家畜化したが、反ソ派、反英米派の陸軍、海軍内それぞれの抗争が常に底流していたのである。

 

 東條英機を弁護するつもりで、東條ではなく、石原莞爾が悪いというとんちんかんな主張も世の中にはある。

 

 それを言うなら、首相では、東條よりも、近衛の罪が重く、軍人としては、石原よりも東條の罪がはるかに重い。東條が、少将時代に、きちがいに近い皇国思想の平泉澄きよしを陸軍将兵の洗脳人として陸軍教育に引き入れたのである。石原の満州事変など、内閣と陸軍参謀本部が、満州に軍事力を止めればそれまでのことで、日中戦争、日米開戦に石原は何の関係もない。

 1937年7月11日の「近衛内閣が北支派兵声明」を出した時点では、関東軍の独断専行を不問に付した、陸軍は反ソ派が優勢だったから、むしろ、陸軍が北支派兵に抵抗した。抵抗したのが、石原莞爾らである。

 

 ※近衛は敗戦が確定すると、そしらぬ顔で、「軍の独走」だと主張した。

 おそらく、石原莞爾がオレを証人に喚べ、と言ったのは、軍部独走という見方は間違いで、近衛ら文民こそ大いに北支派兵を進めた、といいたかったのではないか。

 

 同じように、日米開戦時の島田繁太郎しげたろう海軍大将よりも、豊田貞次郎のほうが、罪は重い。

 また、陸軍の参謀本部指導班長は、戦後、共産党員になったが、元々参謀本部にいた時点で、共産主義者だったと考えてさしつかえない。種村佐考たねむらさこう

 

※種村佐考大佐は、中立条約を結んでいるソ連との外交交渉を進めた人物。

 種村は「対米戦争を継続するためには、中立条約を結んでいるソ連の言い分を吞んでソ連と交渉してソ連と共同しての対米戦争交渉まで、提示していた。

 ソ連の主導で戦争を終わらせようと、親ソ丸出しで、英米との講和先延ばしに執着した男が戦後、共産党に入党した。

 

 要するに、シベリア、モンゴル、満州、朝鮮、樺太、千島北海道と地続きの反英米植民地主義国家に対抗する新興巨大ソ連邦の一部になることを夢見ていたのである。

 このように、本当の責任の重い者を見分ける事をせずに、東京裁判を日本は認めただの、認めていないだの、と騒いでいるていたらくなのである。

 

 松岡洋右の本質とは、近衛に利用されて、アメリカに日本と開戦する口実をふたつ、作ってあげるための日独提携とソ連日本陸軍から守ってあげるための日ソ中立条約を結ぶ仕事を近衛の手足として結ばされたという役回り。

 

 そして、松岡は近衛の真意がわからないので、ドイツがソ連に侵攻すると、ドイツとの信義を守って、ソ連に攻撃をかけるべき、と言ったので、近衛に解任された、そういう間抜けが松岡洋右だった。 

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村