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戦後民主主義の起源 平和問題談話会

世界」(以下、「世界」とは、すべて岩波書店月刊誌を指す。)

  1950年昭和25年11月号 

 17ページ

 

「世界」編集部執筆

 

「東ヨーロッパに人民民主主義の国家が樹立されてから、五年経った。」とある。

  ここで東ヨーロッパの人民民主主義の国家とは、ポーランド、ハンガリア、チェコスロバキア、ブルガニア、ルーマニアを指す。

当時の共産主義国家群で、一党独裁弾圧国家を、岩波書店「世界」は、礼賛していた。

 

 1950年昭和25年12月号

 

 44ページ下段6行目 

 

 「われわれはこの憲法によって、自衛戦争、制裁戦争を含めて、一切の戦争をする権利を放棄したのだ、ということを改めて確認しておきたい。」

 

 上記、自衛戦争を放棄する、とした見解は、平和問題談話会の名のもとに出された。

 その主要メンバーは、 

1. 安倍能成

 

2.和辻哲郎

 

3.清水幾太郎

 

4.中野好夫

 

5.羽仁五郎

 

6.宮城音彌

 

7.久野収

 

8.辻清明

 

9.丸山真男

 

10.大内兵衛

 

11.都留重人

 

12.末川博

 

13.奈良本辰也

 

14.桑原武夫

 

45ページ

「人が人にとって狼である如き社会において、自己を守る爪牙なくしてどうするか」という疑問について、平和問題談話会の代表執筆者は、

 

国連に守ってもらう」と書いている。

  ※これは非常におもしろい。平和問題懇談会の執筆者は、だれが代表して書いたかは、明らかされてはいないが、「国連に守ってもらうという前提で、憲法9条は、自衛も否定すると解釈するのが、正しい」というこの言い分がおおまじめである証拠に、当時の吉田茂の答弁を引用している。 

 吉田首相は次のように言ったという。

 

 「侵略戦争をはじめる者、侵略の意思をもって日本を侵略する者があれば、世界の平和愛好国は、相寄り相たずさえて、この敵を克服すべきであります。」と言ったのだから、一国による自衛をしなくてよい、という意味だ、と言うのだ。

 

この相寄り相たずさえて、侵略国を成敗する連合が持ち寄る武力は、日本だけは持たない、という考えなのである、これは。


 

 たとえていえば、町内会で、どこかで火事、泥棒、強盗の類があれば、町内会が皆で道具を持ち寄って、対処すると決めていたとする。


 

 この場合、日本だけは、集会に手ぶらで行く、というのが、平和問題懇談会の考え方だったことになる。

 吉田首相は、実際には、責任ある立場として、自衛隊を作る方向付けをした。 


 

 「この考え方には、連合国の明らかに同意していた」というのだから、この時、平和問題談話会の面々は、国際連合各国は武力を持ち寄って侵略国を制止するが、その際、日本だけは手ぶらで、集会に参加する、と考えていた。

 「国連に一切を委ねる」とまで、重ねて強調している。

 
 「我が国が武力をもたず、武力的に協力できない状態にありながら、一方的に国連の保障を得るのは、恥ではないのか」とまで言っているのだから、いかに大真面目に言っているか、わかる。 

 その疑問に対する答えは、「諸大国が好意をもって、(日本よ、おまえだけは武力をもって協力しなくてもいいから、いいから)理解されることを、切に希望する。

 

 スイスの場合は、経済制裁についてのみ、参加義務がある、ということで、通っているから、日本もそうすればいい、とこう書いている。47ページ

 奇妙であろうとなかろうと、この時、平和問題談話会の言い分は、

 

 1.国連に加入するべきだ。

 

 2.国連国連憲章第二条五項において、「国連の武力制裁措置の共同行動項目」があるが、それでも、加入するべきだ。

 

 3.その際、日本だけは、共同行動に際して、兵力提供の義務を免除してもらうことを、好意によって認めてもらうべきだ。

 というものだった。

※戦争した日本も、狂っていたが、戦後日本の絶対的平和主義も狂っていたというしかない。

国連が警察力を持つことによって」48ページ

 

 と、武力制圧自体は、平和問題談話会は認めているのであり、なにも、「話し合い万能」ではない。「国連が警察力を持つことによって」と書いて仕舞っていることは、幾度も確認されるべきことだ。ただし、日本だけは、その警察力に武器を持ち寄らない、というのである。

 平和問題談話会の日本認識で思わず腹立たしくさえなるのは、

 

 「日本の経済は日清戦争以来、戦争を通してもうける事になれてきた」という部分だ。

 

 これはきわめて誤解を招きやすい表現で、なぜなら、あらゆる先進国は例外なく、戦争と支配によって発展してきたのだから、日本だけが自制すればよいという表現をつつしまないと、まるで日本罪責論になってしまう。

 

 「日本による過去の戦争挑発には」と書いて、大東亜戦争が、日本による挑発によるものだという認識を示している。事実は、中国国民党の拡張政策とのぶつかり合いであり、アメリカの中国大陸の商圏利益が日本とぶつかった事。

 そして、日本政府内部の共産主義者が、陸軍内部の反英米派をたきつけて、英米本位の植民地支配に挑戦して、大東亜戦争に突入したのが、原因であって、「日本の戦争挑発」が原因というのは、間違いだ。その結果、日本の愚行は、世界に共産主義を巻き散らかせる結果をもたらし、戦後日本に、日本を社会主義化しようという輩があふれ出て、北朝鮮によって拉致被害者が帰ってこられなくなる状況が生まれたのである。

 

 満洲事変は、次のように考えればいかに文字通りの「侵略」とはいえないかがわかる。

 というのは、もし、日本のブラジル移民の人々が、ブラジル政府に対して反乱を起こして、ブラジルの中に新しい国を樹立して、その上で、日本と合邦したら、どうだろう。まさに侵略であり、侵略まがいと言っていい。

 実は、ハワイも、テキサスも、アメリカの移民がこのようにして、乗っ取ったものなのだ。ところが、満洲国樹立は、日本人が主体となった国を作ったのではない。まさに、満洲皇帝の始祖、ヌルハチの子孫を皇帝とするものだった。これでは、ハワイ、テキサスの例と比べる時、いかに日本の行動が侵略とはいえないかがわかろう。

 

 要するに、世界史に対する無知ゆえに、比べないから、日本が最悪に見えるだけなのだ。アメリカの警察官や中国の警察官の暴行のすごさを知らない日本人が日本の警察官を横暴だと思い込むのと似ている。

 ※バートランド・ラッセルは、「中国は、われわれが長い間蒋介石援助を固執したために」内戦になった、と書いている。英米が日中紛争に中立ではなく、中国に肩入れしていたことは、ラッセルにとって常識だったのである。

 

 平和問題談話会の「日本の戦争挑発」が原因という考えからは、どうしても、世界の戦争は、ドイツと日本さえ十分に反省すれば、地球上に戦争は起こらないという突拍子もない結論にならざるをえない。真実は、日本人、朝鮮人ベトナム人に「共産主義思想」が入り込まなければ、英米への対立思想は生まれていない。

 

 「かかる日本をも侵略せんとするものがないとは保証しがたい」(52ページ)と平和問題懇談会は、明確に書いている。

 

 その対処は、「日本だけは武力の持ち寄りを好意によってかんべんしてもらっての、国連の警察力による制圧によって、侵略を止める」のだという。

  日本には、左翼の問題はあっても、右翼の問題は考慮に値しない。なぜならば、岩波書店「世界」に集った平和問題談話会の面々の主張こそ、戦後日本のテレビ局報道部、地方新聞、朝日新聞毎日新聞などの世界観、歴史観の理論的原点になってきたのであり、右翼思想が日本の言論の原点に影響を及ぼした事は一切ないからだ。 

 安倍能成は、「国際連合軍が、つまり、アメリカ、イギリス、オランダなどの国々の若者が、命をかけて北朝鮮軍を制圧して、朝鮮を平和統一しようとしてくれていることに感謝したい」と書いている。日本人は行くわけにいかないから、感謝する、と。 

 できれば、北朝鮮は無くなってしまって、その間、中国、ソ連は参戦せず、そして、半島が統一されるのが、安倍能成の願いだった。要するに、戦争を起こす北朝鮮軍なんかなくなってしまえばいい。統一されれば、半島は幸福であり、日本も、戦争にまきこまれずに済む。その際、中国は戦争しないでほしい。・・・安倍能成は、まるで、まあまあまあまあーー・・・・と電車で喧嘩を仲裁するやさしいおじさんのような発想で朝鮮戦争を見ていた。

  共産党および共産党かぶれの学生団体」(と、安倍能成は書く)は、日本に内乱を激発させるから、学園の研学のために、弾圧することもやむをえないと、安倍能成は書いている。 今で言えば、シールズみたいなものである。

 「民衆全体の幸福をはかるという全体主義が独裁主義の別名に使われるのは、相手の悪意的誇張にもよるであろうが・・・」と安倍能成は、書いている。この時代、いかに、安倍能成のような進歩的文化人が、ソ連に気を使っていたかがよくわかる。

 

 共産主義治下の国民がいかに幸福であるかを自由に圏外の諸国民に見せびらかすことこそ、共産主義を是認させてこれを広げる本当の道だ」と、まるで、共産国自由主義国に見せびらかすような幸福がありうるかのように考えているのが、日本の進歩的文化人の現実だった。

 「軍備がなくて他国の安全保障にすがる日本に、いろいろな苦労と屈辱が加えられるであろうことは、十分覚悟せねばならず」と、安倍能成は書いている。

 

こうした1950年代の進歩的文化人の考えかたは、2015年7月14日に行われた衆院平和安全法制特別委員会の中央公聴会に野党側証人として発言した三人の学者にひきつがれている。

 東京慈恵医大教授・小沢隆一氏は、「憲法9条の解釈は1946年6月、衆院吉田茂首相が述べた「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄したものだ。」との言葉が端的に正当なものだ。自衛権の行使でも、戦争や武力行使はできないという結論が導かれる。自衛隊違憲だ。」

 と言った。 

 ※この憲法学者に言わせれば、民主党政権民進党でさえ、自衛隊を廃止しない違憲の党だということになる。

 憲法改正条件は、衆議院参議院の三分のニに、一人足りず、満たないという場合でも、圧倒的多数の国民が改正を支持している場合でも、改正は否決され。

 実は、アメリカ憲法もまた、上下両院の三分のニの賛成がまず必要なのだから、ハードルの高さは同じである。ところが、問題は、アメリカ国民には、反共産主義という合意があること。空想的平和主義という考えが「共和党」「民主党」両党の支持層に全くない、というところにミソがある。

 日本の場合は、アメリカとちがって、共産主義社会主義なんて、とんでもない、論外だという意識のない国民がかなり多く、国防のない国なんてありえない、という共通意識もない。

 おそらく、アメリカが、日本国憲法を占領下の日本で決めた時、後々に改正すればいいだろう、という一抹の良心があったにちがいない。だが、日本の右翼は、GHQが洗脳した、洗脳したと騒ぐ。決めるのは、日本自身である。

 

 アメリカの憲法作成者は、後に、「えっ?まだ改正していないのか?持ちがいいねぇ~」と驚いたという。というのも、まさか日本人がドイツ人も韓国人、中国人も持たないし、世界のどの国も持たない「武装放棄を自ら望む」小学生の如き純真さをおとなになっても持ち続けるとは、夢にも思わなかったのだろう。

 占領下に作った憲法を持ち続ける日本のほうが、おかしい。

 

 そして、日本の政治制度は、最高裁憲法審査の最終判断としているのであって、学者のアンケートを権限の源泉としない。

 学者のアンケートが至高の価値なら、。自衛隊の存在さえ許されないことになる。これがわからないなら、自衛隊を肯定する国民はあまりに哀れだ。わたしの場合、自衛隊を肯定するゆえに、憲法学者のアンケートなどは、軽視して当然だとおもう。

 

 国民は、憲法学者の意見が大事だと思うなら、自衛隊を認めるな。

 朝日新聞「知恵蔵」は、「憲法学者の多数は、自衛隊違憲」なのだから。

 

 現実には、2015年になっても、日本のマスコミの報道局はいっせいに「世界中で日本が一番危険な、戦争に向かって、前のめりに走りだす国だ」という主張を「国民の声」だと解説してみせている。

 

 式年遷宮の年、伊勢神宮には、半年で1000万人が参拝したという。

 

 わたしには、伊勢神宮に参拝したり、町々の小さな神社で早朝、ひとり黙って拝礼する人々が、「日本は世界でも、最も危険な国」だと思っているとは思えないし、韓国人や中國人みたいに、しきりにアメリカやオーストラリアに移住したいと思っているはずがないと思う。

 法政大学教授山口二郎は、

 

「1960年安保闘争で市民が岸信介政権を退陣に追い込み、9条改正を阻止した」と発言。

 ※端的に、事実誤認である。当時、相当に多数の社会党議員の議席があり、岸信介が退陣しようとしまいと、憲法改正の可能性がまったくなかった。

 安保条約は改定されて、米軍基地は安定的に日本に存続するようになった。

 

 米軍基地の存在におそれをなした他国は日本に手を出すことが無くなり、日本は長い平和を享受できた。岸信介が退陣したのは、騒乱の責任を取ったまでの事で、岸信介は、安保条約の改定を成し遂げて、反政府市民運動に勝ったからこそ、日本人はその後現在まで戦禍から免れることになった。

 

 1956年「世界」7月号にGDHコールという人物が、社会主義共産主義の共通点を次のように説明している。

 

 「生産手段の集産的(国家)所有によって、富を世界のすべての人々の共通の利益を増進するために使用するという強い信念」

 これをわかりやすく言うと、アメリカ、日本、フランス、イギリスなどの自由主義諸国は、はっきり言って、私的利潤を追求するため、世界の資源を私企業が私的に開発し、そのために働いている労働者を搾取している国ということになる。

 自由と民主主義国を肯定するとは、上記の最後の部分を「搾取してはいるが、貢献してもいる」あるいは、より貢献度を強めるように、制度的補完をする、という事にほかならない。私的利潤を追求するため、世界の資源を私企業が私的に開発し、そのために働いている労働者を搾取しているには違いないのだ。

 というのは、現在では、私企業を廃止して、企業による労働者の搾取を廃止して、生産手段の国有化を断行すれば、私企業による搾取よりもはるかに、悪い結果になるようだ、と判明してしまったからだ。中国でさえ、資本主義を取り入れたら、爆買いが可能にはなったし、韓国には、北朝鮮よりも、享楽的に生きることが可能な人々が多いのも確かだ。

 

 しかし、社会主義者、共産主義者が、アメリカ、日本、フランス、イギリスなどの自由主義諸国は、はっきり言って、私的利潤を追求するため、世界の資源を私企業が私的に開発し、そのために働いている労働者を搾取している国であり、この体制を崩壊させて、「生産手段の集産的(国家)所有によって、富を世界のすべての人々の共通の利益を増進するために使用するという強い信念」を持って出発したこともまぎれもない事実なのである。

 民主党の中の社会党出身者、社民党共産党の議員たちが、日本社会の基本的な体制である「まぎれもない私的企業が私的利潤を利潤を追求するという基本的枠組み自体を崩壊させたい」という意図を持っておらず、資本主義の基本的枠組みである私企業の雇用と失業の可能性ある社会を認めるとすれば、社会主義共産主義への裏切りであるわけだ。

 

 民主党は「ソーシャリスト」を名乗らぬ点、まだ小ずるさはあるものの、共産党などは、コミュニズムをおおっぴらに名乗っても存在が許されているのだから、驚く。

 「戦争法案反対ママの会」は、「日本共産党街宣車を借りた」と公言している。

 

 「ママの会」は、私有財産否定思想を容認していることになる。

 この日本の私的企業の利潤追求という枠組みを崩壊させて、生産手段を国有化したい、国民もそのつもりで、われわれを支持しているはずだ、と言うならば、国民はなんというだろうか。

 

 ※おそらくそこまで問い詰めれば、彼等は「そこまで深く考えていなかった」とでも腰砕けになるのだろうから、こちらが真剣に問い詰めるだけ徒労になる。

 GDH・コールは、二点目に「働く人・児童・高齢者になるべく十分な生活保障を与えようとする」のが、社会主義共産主義の共通点で、どちらがあてはまらないと言う事はない、と言った。

 だが、実際には、資本主義・私企業活動を旨とする国家のほうが、社会主義国よりも、より大きな福祉の達成を実現してきた。

 三点目に「不労所得の否定」を言うが、これは、資本主義社会にたしかに、不労所得と奢侈は、大いにあるものの、この点、社会主義国家でも、不労所得と奢侈が無くなったためしがない。北朝鮮の高級官僚は、わざわざ高級外車に乗っている。

 四点目の「労働階級が創造的機能を持ち、階級なき社会を実現するために欠く事のできない機能を持ち」というが、民主党が国会の参考人に「一介の小企業の労働組合の書記長」を参考人として呼んだ事など、おそらく一度もあるまい。民主党民主党を応援する

マスコミも、コメンテーターには、文化人、憲法学者・弁護士を起用するのであり、労働者をコメンテーターとして多様することはない。

 日本の戦後の政治文化を歪めた大きな要因として、戦後まもなくの頃に、東京大学法学部第一線の指導的立場にあった大学教授たちの、その口からでまかせ、いい加減な考えが案外、その後のマスコミのディレクター、編集者を心酔させたということにある。

 

 2015年の安保法制の野党側公述人として持論を述べた法政大学の山口二郎は、1960年の安保闘争岸信介を退陣に追い込んだと言ったが、この60年の安保闘争の中心的指導者であった清水幾太郎

 清水幾太郎は、1960年に日米安保条約に血相を変えて大反対したが、法案は通り、日本各地に米軍基地が継続駐留すること20年。1980年になると、「戦後を疑う」「核の選択」を発表して、日本の政治家に対して、核兵器を日本が保有するように、提言したのである。

 

 この時、日本全国の労働組合役員、平和運動団体は、完全に指導者清水幾太郎に裏切られて、ハシゴを外されたことになる。

 落合恵子は、出しゃばらなければいいものを、福島原発事故前までは、原発を大肯定しておいて、福島の事故が起きると、反原発集会に出て演説するほどの反原発運動家になった。

 文芸評論家の加藤典洋も、原発事故前は原発を肯定して、事故が起こると、フランスの反対制思想を援用して、延々と原発に反対してみせたが、笑えるのは、新幹線だろうと、リニアモーターカーだろうと、航空機であろうと、大事故が絶対ないと言い切れぬ事は、当初から、自明の事なのに、彼等文化人らは、けっして、「原発の場合は、航空機事故とちがって、被害甚大の結果をもたらすから、反対」だ、と言って来なかった事である。

 わたしの場合は、事故前から、「事故は絶対ではないが、日本の技術と技術者の倫理性なら、事故が起きても、カタストロフにまでは至らないだろう」と思ってきた。実際、御巣鷹日航機墜落事故の犠牲者が、個々人の人生にとって、唯一重要な人生を失った結果になったとしても、日本は今日も航空機を利用し続けている。

 

 しかし、現実的に、航空機事故が、自動車事故と同じくらいの割合で起きるのなら、おそらく、人類は航空機利用を放棄しただろう。

 つまり、結局は程度問題であり、航空機はほうっておいて事故を抑えているわけではなく、常に細心の整備によって維持されている。

 

 結果、これを原発に置き換えれば、世界は、「原発は制御可能で、廃止する根拠のあるだけの苛酷事故頻発性はないと判断していることになる。

 

 大江健三郎は、福島原発事故を見て、「きたるべきアジアの核戦争の兆候だ」と妄想を露わに主張している。こんな阿呆の講演を聞かされる高校生が本当に気の毒になる。

 

 清水幾太郎は、自分が、反基地、日米安保条約反対運動をしていた頃、自分は、ソ連が東欧でなにをしたか、敗戦間際、ソ連満洲でなにをしたか、知らないで反米平和運動をしていた、と言っている。

 現在の国会前で、反安保法制のデモをしている「市民」たちも、大いに「北朝鮮の収容所」も「中国の人権弾圧、兵力の増強、台湾にミサイルを撃ち込んだことがあったこと」なども、「知らない」のではあるまいか。

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