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古谷 経衡批判 ナチスドイツヒトラーと日本、韓国の相似と相違

1933年にヒトラーがドイツの政治指導者になった時、ヒトラーの「わが闘争」「続わが闘争」は国民の必読書になった。

必読書とは、持っていないこと自体が非国民であるような状態である。

国家が結婚するカップルに首相の本を贈呈するほどだった。

これが良くない。

 

韓国は2017年、教科書を国定化しようとしたし、北朝鮮は無論、国家の指定する教科書以外に存在は許されない。

 

 日本がヒトラー北朝鮮、韓国と異なる点がここにある。

 

 ヒトラーは「選挙で選ばれた」のは間違いない事実である。

 というのは、選挙によって、第一党の党首になることは、首相になる大きな可能性を国民が知っていたという意味で、ヒトラーを首相にすることを国民が同意したも、同然だという意味で、ヒンデンブルグ大統領が指名したか、国民の直接投票が決めたかは問題ではない。また、当時、大統領は首相指名権はあったが、ヒンデンブルグがヒトラーを首相にはしないと決意してはいないことも国民は、知りながら、ナチに投票した。

 そして、ヒンデンブルグが政治家として組織を持たない人物であり、一方、ヒトラーは大組織を持って、ドイツを急激に変えようとしていることも知っていた。

 

 ドイツ国民は、この時、ヒトラーを警戒するなら、ナチに議会第一党の地位を与えるほど、投票するべきではなかったのである。

 ちょうど、日本人が、街頭デモ左翼にも、街頭デモ右翼の政党にも、投票すべきではいように。

 1928年のドイツ議会選挙で、得票率は2.6%、100万票を割り込む程度。

 ナチ党員の国会議員は12人

 この時、第一党の社会民主党の得票数は1千万票。

 2016年の参院選挙得票率は、日本共産党が10.76%、山本太郎の党は2%、社民党は、2.7%である。

 

 

 「党員が急拡大して、17万人になった。」

 

 ※ 日本共産党と比較してみると、日本共産党赤旗日曜版の発行部数は、120万部。2013年で 党員数31万人。

 つまり、日本共産党は、2017年で、定数717人のうちの36人だから、初期ナチスとほぼ同等規模の勢力

 「そして、街頭デモの規模が極めて大きくなり、著名な大企業や新興宗教団体から、巨額の寄付を受けるようになる。」

 ナチスには、フォード自動車が多額の献金をした。

これもまた、「危険な政治」の兆候である。

 韓国はこれにあてはまるが、日本はこれがない。

 

 指導者自身が他国、他民族に対する憎悪感情を語る。

 

 これも、北朝鮮、韓国にピタリと当てはまるが、日本の政権与党にこれはない。

 

 もうひとつ、ヒトラーナチス前兆の重要な指標がある。

「党直属の街頭運動組織の示威行動が目立ってくる」ということである。

 たとえば、シールズ、ママの会、反原発の会、行動する右翼、在特会、沖縄反米闘争

などが、共産、社民、自民などと密接に関係しているとすれば、危険であるが、共産党社民党はこの街頭左翼と関与性が高い。

 

 選挙期間中以外の大規模政治集会の開催も危険な兆候である。

 1929年のナチ党の党大会は大盛況だった。

 日本においてこれに類似する集会が、反原発民集会である。

 

 失業者数の絶対数も要注意状況。

 ナチスドイツの党大会が大盛況を見せた1929年にドイツの失業者は600万人。

 日本の2017年失業者数は、188万人である。

 

 この600万人の失業者の状況下で、1930年、ナチス党は、107議席を獲得して、第二の党に躍進する。

 

 街頭左翼、行動する保守、右派、野党などと言われる各党派の「共闘」も、危険な兆候といえる。小沢一郎共産党らが、盛んに「野党共闘」と言って、決して、野党を統合しないところが、面妖である。

 

 ヒトラーは、右派の統合によって、第二党から、第一党に駆け上ったからである。

 

 ナチスが国民の支持を得たのは、新聞、週刊誌、街頭ポスターの大々的宣伝の効果が大きい。つまり、まさしく、ヒトラーは、世論の支持を広範囲に取り込んだのである。

 この宣伝自体は、合法的な手段だった。

 ルフトハンザ航空が企業の宣伝もかねて、ヒトラーに航空機を無償貸与。

 ヒトラーは、派手に航空機で100以上の町を遊説して、スター化、アイドル化していった。

 

 このあたりは、橋下徹氏のテレビ出演による人気や香山リカのテレビタレント化が類推されよう。

 

 1932年4月4日、大統領選挙の一週間前には、ヒトラーの演説に10万人のベルリン市民が集まった。失業が焼結を極め、自殺者が急増していたその時である。

 

  10万人の市民がひとつの事で集まったなら、かなり「怪しい事態」と疑うべきだろう。

 このヒトラー人気沸騰の始まりの次期に、ヒトラーはまず、大統領選挙に出て、1300万票を獲得して、知名度を確固たるものにした。

 

 ヒンデンブルグ大統領は大統領選挙でヒトラーに勝利した直後、致命的過ちをしでかす。

 議会の解散総選挙である。総選挙の実施は、ヒトラーにさらに国民への宣伝と党員への激励を深化させる機会を与えることになった。

 

 ホルト・ベッセルという若者が、共産党に暴行を受けて、死去すると、ナチスはこの若者をアイドル化して、党員に「隷属はもうすぐ終わる」と歌わせて、時の権力打倒を誓わせた。

 ちょうど、日本共産党が「戦争法案反対」とラッパーの歌であおったり、在特会が「朝鮮人をたたき出せ」と叫ぶように。

 

 1932年、7月、国民の投票行為は、ナチ党に国会230議席を付与する。

 これで、ヒトラーは第一党の党首となった。

 

 ここが肝心なわけで、古谷経衡

が、以下のように、「ヒトラーが選挙で政権を取ったというのは、ウソ」という見方は間違いである。

  <ヒトラーは選挙で政権をとった、というのはウソです。ヒトラーはもともと、南ドイツのミュンヘンあたりから伸長してきた極右政党・ナチスの領袖でしたが、紆余曲折あってドイツの議会に人を送り込むという戦術を展開します。

 その結果、最盛期で議会の約40%強の議席を獲得することに成るのですが、これは裏を返せば60%は「反ヒトラー、反ナチスだった」ということになります。議席の4割強しか獲得していないのに、ヒトラーが政権を獲得できたのはなぜでしょうか。

 それは、当時、ドイツにはヒンデンブルグという大統領が居まして、この大統領は「大統領令」という鶴の一声によって、独断的に物事を決めてしまう権限を持っていたからです。1933年、ヒンデンブルグは過半数になお達しないナチ党のヒトラーを「大統領令」で首相に任命しました。これがヒトラー内閣の誕生です。この内閣は、ドイツの保守政党と連立を組むことによって、漸く過半数に達し、またヒトラー内閣の最初は、ナチ党の党員はヒトラーを含めて閣内に3人しか居なかったのです。>

 誰かしら、首相に任命せざるを得ない状況では、第一党になったという事は非常に重い意味を持っていたのである。したがって、選挙の勝利が、ヒトラーに首相の座をもたらしたと言ってさしつかえない。

 古谷経衡は、「最盛期で議会の約40%強の議席を獲得することに成るのですが、これは裏を返せば60%は「反ヒトラー、反ナチスだった」ということになります。」というのだが、「第一党」の地位にナチを押し上げたのが、国民の選挙だったという事が問題なのであって、過半数か、大多数かは問題にならない。

 ナチはさらに、「もう一度、11月に、選挙をする事」を要求する。

 1932年一年間で三回、総選挙が行われたのである。

 この結果は、ナチ党196席で、34議席失った。

 

 それでも、第一党がナチであることに変わりない。

 これが、ヒンデンブルグがヒトラーを首相に指名せざるを得なかった、理由だった。

 首相になったことは、組閣権を持った事を意味する。

 

 ヒトラーはこれをうまく利用して、わざと閣僚ポストをふたつだけ要求。

 実は、その二つとは、国家統制の枢要、内務相と無任所相だった。

 このふたりに警察、公安を統率させて、反対政党を弾圧していった。

 ヒトラーは周到に、経済農業省、副首相をナチの反対政党に譲って、連立政権を装った。

 つまり、ヒトラーは「選挙→首相→連立政権」と合法的に権力基盤を固めていったのである。そして、その上で、国民に向けた首相演説を行う権利を獲得した。

 ここで、「左翼支持者をも熱狂」させて、1933年に議会解散総選挙を主張する。

 

ヒトラーは党大会で共産主義者に融和をよびかけて、これを新聞に載せて、国民を安心させつつ、同時に同じ党大会の後半では、ナチ党員に向けて、ユダヤを徹底的に弾圧してみせると宣言した。

 

 このような巧妙な戦術に出ることを可能にしたものこそ、まず、議席数12席の少数政党を議会第一党にまで押し上げたかなり多数の国民の意識の変化だったのである。

 

 これは、今の日本共産党なり、社民党、あるいは、山本太郎の党が第一党になった場合を考えれば、いかに、国民に急激な意識変化が起こったかがわかろう。

 

 

 

 問題は、一気に、最初から、国民の圧倒的支持を得たかどうかが、ヒトラーの本質ではない。

 奇矯な、本来国民の大多数の支持を得られる可能性の低いはずの、新興政党が、議会の第一党にまで勢力を伸ばした事、まずそこが大事なのである。

 

 1933年2月27日、国会議事堂放火、共産主義者を容疑者として逮捕。

 国民は、共産主義者の暴動の危険性を抑止する良き存在がナチの突撃隊員なのかもしれないと考えはじめた。

 

 1933年3月5日、かねてより、ヒトラーが配置した内務大臣ヘルマン・ゲーリングが、選挙結果を操作。本当は、ナチは、ようやく過半数を占めたに過ぎなかったが、共産党社会民主党員の選挙違反容疑をでっちあげて、強制収容所に追放した。

 

 こうして、国民に合法的な政権を錯覚させて、熱狂させながら、外国のドイツ政権への批判を情報統制して、国民の目から覆い隠そうとした。

 そしてドイツの主要大学の学生たちは、マルクス主義書物ユダヤ人知識人のフェミニズム書物とを進んで焼却するパフォーマンスを始めた。

 

 

 この時、ゲッペルスが、「ユダヤ人の知性主義」を排除して「知性ではなく、意思の強さ」を主張する。

 こうして、1933年7月、社民党共産党を非合法化。ドイツは一党独裁を完成する。

 

 この後、ドイツ国民は、ナチの統制する新聞しか見なくなり、ナチ党の作成する学校教科書しか読まなくなる。また、ナチの作った映画を喜んで見るようになっていった。

 

 ちょうど、韓国人が慰安婦プロパガンダ映画を学校に推薦してみるが、日本にそんな映画鑑賞はないように。

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