在日韓国人強制連行の真実 歴史認識の病状

強制連行という言葉 

青色部分は「強制連行あった論者」の説明の引用

最終更新: gurugurian 2009年05月25日(月) 19:04:29履歴

<まずは「強制連行」という言葉の始まりですが、朝鮮人戦時動員に対して「強制連行」という言葉を使い始めたのは1965年「朝鮮人強制連行の記録」を出版した朴慶植氏だと言われています。それ以前の時期は「強制連行」と言えば「中国人強制連行(花岡事件など)」のことを指すことが多かったようです。>


<それ以前の時期、例えば元朝総督府で政策顧問などを務めた鎌田沢一郎は「朝鮮新話」(1950年)で「労務動員の強制」「誤つた強制徴用」という言い方をしていましたし、外務省官僚などを務めた森田芳夫は「在日朝鮮人処遇の推移と現状」(1955年)で「強制移住」と表現しています。また、1953年に刊行された松田解子「地底の人々」は花岡事件を題材にした小説ですが、この中では朝鮮人の戦時動員に対して「強制徴用」という言葉が使われています(資料5)。>


朴慶植氏は「朝鮮人強制連行の記録」で、戦時中に朝鮮人を対象に行われた労働動員(募集・官斡旋・徴用や徴兵など)を「朝鮮人強制連行」と呼んでいます。そこでは手錠をはめられて連れて来られた例や、畑仕事中や就寝時に無理矢理連れていかれた例なども紹介しています。現在でも「強制連行」として紹介されたり、多くの人がイメージするのはこういう例でしょう。>


<この「強制連行」という言葉は次第に知られるようになり、また70年代以降、有志団体や地方の市民グループによる実態調査が行われるようになったこともあり、少しずつですが研究が進んでいきます。 

 

やがて、90年代ごろから研究者の間で「強制連行」という用語の妥当性について疑問の声が上がります。金英達氏は「強制連行」という言葉の定義・範囲が曖昧であること(例えば徴兵なども含めるか、あるいは朝鮮から日本内地への動員だけでなくサハリンや南洋への動員なども含めるか、などによって「強制連行の人数」が違ってしまう)を指摘し、具体的な動員内容(どういう形態・法的根拠で行われたか、動員先はどこであったか)を分類・整理した上で「朝鮮人戦時動員」という用語を用いることを提案しました。また、その本質的な問題は「強制連行性(つまり無理矢理連れて来たこと)」よりむしろ「強制労働性(民族差別や人権無視の労働条件、具体的には拘束・監視され、逃亡者に対するリンチが横行していたこと、日本人労働者より低賃金であったことなど)」にあると論じました。


また、暴力的な連行、物理的強制力を伴った動員を「強制連行」と呼ぶなら、それ以外(つまり、おとなしく徴用された場合や進んで募集に応じた例など)は「強制連行」とは言えなくなってしまうのではないか、という主旨の問題提起が古庄正氏、海野福寿氏、山田昭次氏などからなされました。


こういった経緯があり、現在研究者の間では、「強制連行」という用語に代わり「戦時動員」とか「戦時労働(労務)動員」という用語が使われるようになってきています。 

http://seesaawiki.jp/w/gurugurian/d/%b6%af%c0%a9%cf%a2%b9%d4%a4%c8%a4%a4%a4%a6%b8%c0%cd%d5>>

と、以上のように、「強制連行」とは、実は「朝鮮人戦時動員」以外の何ものでもないことを、この匿名氏gurugurianも認めている。

匿名氏gurugurianは、以下のように、書く。

<これは「強制連行」に関する誤解の中でもっとも広まっている話かもしれません。鄭大均「在日・強制連行の神話」などでは、あたかも「強制連行論=在日は強制連行の被害者であるとする論」であるかのように書かれていますが、これは誤りです。 


そもそも、朝鮮人戦時動員が始まる以前に多くの朝鮮人が日本に移入・移住していたこと、戦時中に動員された朝鮮人の多くが朝鮮半島に帰還したこと、従って現在のほとんどの在日コリアンは強制連行によって来日した(あるいは強制連行をルーツとする)のではないことは、強制連行研究者の間では常識でした。

強制連行研究の古典とされる「朝鮮人強制連行の記録」(1965)には「一九四五年八月一五日、日本帝国主義の敗亡による朝鮮の解放は日本に連行された朝鮮人労働者に解放への歓喜をもたらし、朝鮮人労働者は懐しい故国に向って先を争って帰国した。(中略)こうして八月一五日から一一月三○日までに自発的、集団的帰国者五二万五、○○○名を数えた。」(p98)と書かれています。

また金賛汀「証言 朝鮮人強制連行」(1975)でも「「解放の日<ヘバンウイナル>(引用者注・1945年8月15日のこと)」は文字どおり、強制連行、強制労働からの解放の日であった。(中略)すべての朝鮮人強制連行者が、帰国を急いだ。(中略)そのような状況のなかで、日本に進駐した米軍は朝鮮人の帰国を一時停止し、港に朝鮮人終結することを禁止した。(中略)事態が混乱し、収拾が困難になるにしたがい、進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾する方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。/強制連行者の多くは、この時期に帰国した。」(p121~122)と、被動員者の帰国について記されています。 


ただし、全ての被動員者が帰国したわけではなく、様々な理由で帰国しなかった、あるいはできなかった人もいました。証言集などに記録された体験者の証言の多くは、こうした人々によって語られたものです。

 「在日コリアンは強制連行の被害者」と漠然と信じられてきた理由はいくつか考えられますが、日本人の無理解・無関心もそのひとつでしょう。また学校教育などでも「強制連行」のみが強調され、在日コリアンがどのような経緯で日本に定住することになったかがきちんと教えられてこなかったことも原因のひとつと思われます。

 

 つまり、いよいよ、「強制連行」とは、「戦時労働徴用」の事を言っているということがこれでわかる。

 強制連行とは、戦時労働徴用のことであり、戦時以前から日本にいた在日朝鮮人とは、「韓国併合以前の」大韓帝国という皇帝のいる腐れ切った国の悪政に苦しんだ大韓帝国民衆の中でも貧困層に属する人々が、泣く泣く故郷を離れて、比較的豊かな日本に出稼ぎして、定着した人々であるということができる。

朝鮮人労働者の賃金は、同じ労働に従事する日本人労働者に比べると七~八割ほどに押さえられていた上、強制貯金や様々な名目による天引きが行われたため、月々の手取り額はごくわずかでした(資料12)。これは逃亡防止のためだったとされています(しかしそれでもなお各地での逃亡は絶えませんでした)。また動員中に終戦を迎えた朝鮮人労働者の中には戦後の混乱のために貯金や未払いの賃金を受け取れないままになってしまった人もいました。>

 という過酷な労働条件についての見解は、ある程度、事実であろう。しかしながら、朝鮮半島自体が、皇帝のいた大韓帝国時代から長きにわたって、日本の劣悪な労働条件にさらに輪をかけて過酷な労働条件を強いられていたのである。

 これは、アメリカであろうと、ソ連、中国であろうと同じで、1950年以前に快適な労働環境など、地球上のどこにも存在しなかったのであるが、戦後日本人は、日本のみが、劣悪な労働条件を朝鮮人に強制したかのように思い込んで、謝罪したのである。

 東北・北海道の農民が休耕期に出稼ぎで東京に行った事と、半島系日本人の日本行きとは、実は、内実は変わらないものだったが、戦後はそれが、差別と強制というように主張された。

 韓国人・朝鮮人が「強制連行」言い習わしている「戦時徴用」の実態とは、

1939年7月「労務動員実施計画綱領」閣議決定され、移入朝鮮人の数は8万5千人と定めた。9月から「募集」方式による朝鮮からの動員が始まった。

これ自体、戦争時はどこの国でもあることで、何の問題もない。

当時、米国、英国も祖国防衛、反ファシズムの名のもとに、国民が戦争需要の工場に行って働いたのである。また、ロシア国民は、スターリンの命令のもとナチスドイツとの戦争に徴兵されて、命を落としたし、韓国人も現在、いやいやながら、徴兵訓練を受けている。

「募集」(1939年9月~1942年2月) 


「募集」は、厚生省から認可を受けた雇用主が朝鮮総督府に申請し、朝鮮総督府および地方行政各局によって募集地域・人数が決定し、その決定に従って現地での募集を始める、という方式だった。現地では企業から派遣された募集係と現地の面長や面の役人、および警察官が実務に当たった。 だから、朝鮮民族が大いに 戦時徴用に協力したのである。


1939年頃の朝鮮では、皇帝のいた大韓帝国両班奴隷体制の悪政慣行が色濃くのこっていた。李氏朝鮮の悪習の残る朝鮮半島では、両班出身の大地主が多数残存。多くの貧しい小作農民が苦しい暮らしを余儀なくされていた。

 だから、比較的豊かな日本が労働を募集すると、当初は応募者が殺到しました。しかし、主な動員先が危険を伴う炭鉱であったこと、動員先の過酷な状況が次第に知れ渡ると、日本もまた、天国というわけではないんだな、との理解が広まり、応募者が減った。

 韓国人は、李氏朝鮮および皇帝支配の大韓帝国の過酷な悪政が強いた悲惨な生活を日本が、たった35年間で夢のような国に変える事ができるはずもない事に気がつかず、逆恨みしているのである。

 当時、世界中の労働者の労働条件は、エアコン、水洗トイレもあるわけではなく、機械化も遅れた長時間労働の過酷なものであったが、韓国人はこれを差別によるものだと錯覚した。

 だが、韓国人が、日本にこなければならなかったとすれば、その原因を作ったのは、第一義に、李氏朝鮮大韓帝国前近代的な、両班奴隷制600年の継続による苛政がもたらした半島の極貧の影響であり、日本の植民地行政は、この李氏朝鮮大韓帝国650年の宿痾を改善するのに、努めた30年であった。

 日本の中国国民党、および英米との戦争は、毛沢東中国共産党ソ連共産党を利したという意味で間違った戦争だったが、また、勝てるはずのない大国英米にぶつかって敗戦の末に社会主義革命に転じようとした日本の共産主義者のもくろみに半島の罪のない民衆は巻き込まれた側面はある。

 しかし、それでも、その被害は、北朝鮮という朝鮮民族が半島に起こした戦争の惨禍に比べれば、日本の誤った戦争に巻き込まれた朝鮮人の被害はかなり少ないのが、事実である。

 また、韓国人は、日本の半島統治時代に、「保導連盟虐殺事件」「済州島4.3事件」「人民革命党事件」のような非道があったか、比較考量しなければならない。

 日本統治下で弾圧されれば、7500人の犠牲が70万人にも感じられ、虐殺者が韓国人自身なら、保導連盟虐殺事件の20万人の被害は、200人くらいに縮小してかんじられるのであろうか。

 日本が日中戦争を起こしたのも、日米戦争に突入したのも、その真意は、反英米資本主義への特攻玉砕戦であり、社会主義計画経済への指向だった。

 これは、北朝鮮が反米であり、韓国の左翼が反米であるのと同じである。

 現在の北朝鮮、韓国の左翼の愚劣は、戦前日本の近衛の昭和研究会国家社会主義右翼の社会主義指向の反米思想と同じ愚劣なのである。

 日本人には、これに気づく者もいるが、韓国人は保守も含めて気づいている気配がない。

 

 

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