平野啓一郎批判 平野啓一郎の韓国観

文芸誌「文学界」2015年1月号で、平野啓一郎が「慰安婦問題」に言及している。

 対談の相手は、政治哲学研究の萱野稔人だが、ふたりとも共通して、物事を倫理的に考えたがらない事がわかる。

  倫理的に考えたがらない、というのは、どういう事かというと、次のような彼らの主張が、倫理的理由を拒絶しようとしているからだ。

  萱野は在特会の主張をナショナリズムの典型としてみており、その主張の背景を「社会的資源の有限性の意識」に見ている。

  日本人が享受すべき社会保障や雇用を、在日コリアンが享受しているという不当性の意識があり、それは左翼が、あたかも資源が無限であるかのように、気前よく配分、譲渡しようとし、在特会のようなナショナリストは、資源の有限性に敏感になっているからだ、という。

 ちがうのではないか。

 

 在特会の主張の根にあるのは、資源の有限性を気にかけているというのではなく、ある種の在日コリアンが、日本人を加害者、悪人と糾弾して、自らを被害者、善人だと主張しており、在日の政治活動家が、(生活に重きを置いて、政治思考の薄い人もいる)日本人の歴史に対する無知と倫理性の欠如と退廃を指摘し続けてきた事への反発が問題なのである。

 補償せよ、という左翼が、富の有限性を知らないわけではない。

 特徴的なのは、平野も萱野も、在特会ナショナリズムの例としてとりあげるのはいいとして、事に「有限な資源の中で、余裕がなくなり、人心が荒んでいくのを食い止めるには、どうしたらいいのでしょうか。」と、在特会の参加者たちが、貧困層出身で、自分自身の生活の貧困感覚から発して、人心が荒んだ結果ヘイト・スピーチという行動に発しているかのように論じる。

 この解釈はしかし、なにもいまにはじまった事ではなく、大江健三郎の「セブンティーン」のような右翼青年や、新左翼内ゲバで殺し合いをして社会から顰蹙を買った左翼青年たちにも本人の貧しさと精神の閉塞感は言われた事で、現在のナショナリズムに特徴的な事ではない。

 ※しかし、こう書いてみてあらためて、おや?という意識で気づくのは、かつての学生運動の担い手は、間違いなく、隠しようもなく、自他ともに認める貧乏生活に耐えつつの学生運動家だったのが、現在の学生運動家、社会運動家は、なにやら、知的エリートめいたイメージとお坊ちゃん、お嬢さんのような外見を誇示しているのであり、まちがっても学生運動、社会運動に携わる一方、その生活においては、貧乏生活に耐えているとは、まちがっても、思われたくないと決意しているかに思われる雰囲気を醸し出しているのだ。

 シールズや「ママの会」はインテリめいたイデタチがあらわで、まったく貧乏臭がない。

 平野「国家の悪を批判されると、あたかも自身のアイデンテティが攻撃されているかのように感じて、強烈に拒否反応を起こす人たちがいる。」

 この平野の見方は間違いである。私自身、日本人の弱点を指摘して、「おまえは反日だ」言われたことがある。

 日本への悪口を聞けば、すぐに「反日」姿勢にこり固まる者の発想だと考える人はたしかに多い。だが、その理由は、「自分自身のアイデンティティが傷ついたと思った」結果ではない。案外、右翼だ、保守だと言われている人も日本人の弱点を指摘していない事もない、という事実を知らないという浅薄性、独り合点が原因なのであり、なにも国家と個人のアイデンティティを無意識に同化させて、傷ついているのとはちがう、とわたしはずっと思ってきた。

 平野「ぼくは、「他の国でもあったことだ」というロジックは、加害者同士の目配せでは成り立つかもしれないけれど、被害者に対しては通用しないと思います。被害者の存在を無視した議論はどうしても許せない。」

 この平野の加害者同士の目配せは成り立つという言い草は簡単に呑み込めるものではない。とりあえす、会社にたとえてみれば、公害で被害者を出した会社がうちの会社だけではない、という主張をしたとして、他の会社はどういう反応をするかというと、「うちと一緒にするな。程度が違う」という拒絶反応がかえってくる。

 けっして、「加害者同士の目配せ」と「他の国でもあった」という様相はそぐわない。

 類似のどのようなケースを想定しても、加害者同士の目配せなどというものはそう簡単に成り立つものではない。ましてや、「自分だけではない」という論理は、「加害者同士の目配せ」ではなく、否応のない「自国だけではなく、他国も非難されるべきだ」という事を帰結する。その典型が、橋下大阪市長の「他国も、日本とともに、謝罪すべきだ」という発言で、それは他国からすれば、「日本だけが謝罪すればいいのであって、われわれを巻き込むな」という拒絶にあう。

 このように、平野の言う「他の国でも似たような事があった」という言葉が、「加害者同士の目配せ」として成り立つという事自体が実は元々ない。

 もうひとつ、平野の認識に欠落があるのは、「ソープランド」やら「性感マッサージ」(?)、(かつてなら「のぞき部屋」「テレフォン・クラブ」があった。)らが、「制度」「様式」であるように、またそれらがけっして、「強制連行」の結果ではなく、実入りのいい、水商売のひとつであって、「国家犯罪」とは言えないと同じ意味で、戦時「慰安婦」制度も、本質的には、様式の異なる「性風俗」のカテゴリーに収まるという認識が平野にないという事だ。

 たしかに、そのような性風俗の根絶が人類の理想の社会の要件のひとつとして数えるべきかもしれないし、その観点からすれば、現在の世界のあらゆる性風俗は、広い意味で「女性の人権抑圧」と言えないことはない。それなら、戦時犯罪ではなく、人類史も世界史も、女性に対する人権抑圧の歴史と言えないこともない。

 が、それなら、日本だけが謝罪して、なにかが始まるとも、なにかが終ったとも考えられるはずがない。むしろ、日本の戦時、慰安婦という様式の性風俗は、女性に対しる人権抑圧のカテゴリーの中でも、極めて貧困層出身女性にやさしい制度上の特性を持っていたからである。

 平野「この問題は、韓国と歴史認識を共有し、元慰安婦の人たちが納得する形での外交的な解決がなされない限り、国際社会でいくら「日本だけじゃない」と言ってみたところでけっして受入れられない。」

 テレビ局が時々、余興めいた企画で、アフリカや南太平洋の裸族の人々を日本にホームステイに招待することがある。

 そういう文明様式、生活様式の大きく異る人々の言うことを聞いていると、結婚観、死生観、自然に対する考えかたなどがかなり違う事がわかり、そう簡単に共感しあえるわけではない事に気づく。

 それこそ、ここがヘンだよ日本人、と外国人が日本人の発想を奇妙だと指摘することも少なくない。他国と歴史認識を共有できると思う事自体が、浅はかなのである。

  韓国の知識人の考えかたには、日本人からすれば、「あたまがおかしいのじゃないのか」と思える事は多々ある。そのため、共通の歴史認識を持つなどということは夢のまた夢なのである。

 わたしには、同じ日本人の平野啓一郎の発想でさえ、共感できない。

 

 平野は、慰安婦の被害者性に対する加害者を誰だと考えているかというと日本軍、または日本政府、あるいは、日本軍人と考えているらしいが、その考えかたはおかしい。

  昔の江戸吉原の花魁にしても、現在の性風俗にしても、女性にしてみれば、「なんで、この地獄のような人間世界に、わたしを生んだのか」と親を恨む場合もあったろうし、女に学問はいらない、という言い草を典型にして様々な親の身勝手な論理、娘を身売りに供して、残った家族が生きるよすがに小銭を手に入れることなども含めて、「親が悪い」「女衒が悪い」と言う発想もあれば、この「朝鮮人の伝統的女性観」が悪い。「日本人の伝統的女性観が悪い」「金銭的取引のために、人身売買する人権感覚の薄さが悪い」というように、様々な批判の観点がある。

 にもかかわらず、平野はこともなげに、「軍国日本時代の日本政府が悪い」という見方が唯一正しい見方だと決め込んでいるのだ。

※平野のいう「加害者同士の目配せ」というのは、世の中に無いわけではないが、それは、けっして「他人だってやっている」という言明がなされる状況下では起きない。他者への批判が自分にもかえって来るという後ろめたい自覚のもとに、他者への非難を差し控える場合に、「加害者同士の目配せ」という形での加害者同士のかばいあいによって、沈黙のうちに、弱者の被害を切り捨てるという状況はありうる。

 ところが、中国、韓国、日本の人権派のやっている日本批判とそれにする橋下大阪市長のような「他国もやっている」論は、「加害者同士の目配せではなく、ともに、謝罪しよう、という事であって、ともに罪を逃れようという発想ではない。

 平野の態度は、「まさにおまえが、罪びとなのだ」と、自分の罪を隠しつついいつのる卑怯者に対して、憤る事なく、「そうだ、自分が悪い。君は悪くない」と忍従する姿勢なのである。自己をの罪を知らぬふりをして、他国の非を言い募る中国、韓国も呆れた卑劣な態度だが、そういう卑劣を卑劣とも思わず、「おまえだってやっているじゃないか」と言ってはいけない。まず、自分が反省すべきだ、とする日本人、平野啓一郎の発想も相当おかしい。

 ここが慰安婦問題は倫理・道徳問題なのである。

 実際には、他国も、日本も同じような事をやったとは、言えない。日本が一番ましだったのであり、その一番ましな日本が、一番悪辣だったと認定を受け、かつ受けつつあるのが、昨今の南京大虐殺資料のユネスコ認定であり、従軍慰安婦像のアメリカ国内各地の設置なのである。

 

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