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佐久間象山と大東亜戦争

佐久間象山が「国体論」を検討する段階にいたると、徳川幕府天皇守る将軍だという制度の否定まで行かなければ、「西洋に対抗しうる統一国家」になりえないと考えたようだ。

 佐久間象山がなぜ、幕府否定の思想に至ったかというと、ハリスの「日米修好通商条約案」を佐久間象山が独自に検討して、幕府に建白書を出したところ、幕府がこの建白書を拒んだため、佐久間象山は、徳川幕府に西洋列強の侵略脅威に対処する対応力なし、と判断したからだった。・・・そうだろうと思う。

 佐久間象山が西洋の考え方に恐るべきものを感じたのは、大使の「治外法権」をいきなり迫るその図々しさ図太さが西洋にあるということだったろう。

 (正直、わたし自身は、戦後日本の平和ぼけに生きているからか、治外法権がそんなに悪いことなのか、ピンと来ないが、佐久間象山の梁川星巌にあてた手紙によると、この治外法権問題に佐久間象山はカチンときたという事だ。)

 佐久間象山は考える。治外法権が必要だと、西洋が言うならば、それを受け入れるとしても、幕府が同意するだけではいけない。かならず、朝廷が条約を許可する、という手続きを踏まねばならない、と。

 ここで政治の向きは、すべて幕府がこれを行うという、徳川幕府の考え方と佐久間象山の、朝廷の勅許がかならず、必要だという発想が対立する。

 わたしが、この佐久間象山の考えにピンと来ないのは、現代が、安定的に大使の交換がなされているからで、外交関係慣行の安定的運用の無い時代では、主権がなしくずしに奪われる危険性を感じて当然だった。

 通商も、在外公館もあってもよい。ただし、それが、日本国の法の適用外だと言うのなら、それを幕府が独断で受け入れる権限はない。朝廷が勅許を出さねばならないというのだった。

 象山は、「不筋(ふすじ)の次第は、ぜひ申し伏せ候よう、これなくしては」と、言っている。

 つまり、アメリカ人の言い分にスジの通らないところがあるのなら、堂々と反論して説き伏せるようでなければ、わが国は立ち行かない、と言っている。

 おそらく、このような、議論で西洋人に勝つという発想は朝鮮にも、中国にも、夢にもない発想だったのではあるまいか。むしろ、現代日本にも無いと言ってもいいくらいだ。ある意味、大東亜戦争とは、論理で勝てない日本人の意地という側面もあったのかもしれない。

 すでにこの時点で、佐久間象山は、西洋は世界万国が一族一党のように友好貿易関係を結ぼうという理念を打ち出している事。しかし、それは、本音は、自国の利益拡張なのではないか、ととっくり、聞いてみたいものだ。

 そう聞けば、当然、アメリカは、いや、もちろん、自国の利益のためではない、「公共の道理」のための通商だ、と答えるだろう。ならば、

「次のように重ねて質問せねばならない。「公共の道理」のための通商、真に受けるわけには、いきませぬ。なぜならば、あなたがたは、唐国の人々にアヘンを売っていますよね、と。しかも、アヘン売買は、唐国の政府が禁止している事。それを守らずアヘンを売るあなた方は、なんだ。それだけではない。大砲を積んだ船まで押したて、その上でのアヘン売りつけではないか。それで公共の道理に基づく通商などと言えるのか?」

  こう、アメリカを説き伏せよ、と象山。

 「アメリカが、いや、信用してもらいたい、平和に通商したいのだ。アメリカは、武器によって、他国の領土を取った事はない。」と答えるなら、

「では、なにゆえに、6年前に、来日した時、軍艦大砲を積んできたのか。いかなる理由で、脅迫的態度に出たのか。なぜ、その時、アメリカの使節は、大胆にも、これを使えと白旗を日本に贈るなどというとんでもない図々しい事をしたのか、あの時、こちらが我慢したからよいものを、戦になって、死人が出てもおかしくなかったのだぞ。わが国が武器を持ってたちあがる事を控えたのは、民が塗炭の苦しみに落ちるのを避けたからなのだ」

 こういうアメリカに言いたい事を考えている時点は、1858年。

 イギリスのアヘン戦争は、1842年に終っている。そして、インドのセポイの叛乱などが起きていたが、佐久間象山は、イギリス、アメリカが、「たしかに、インドや清国との間に紛争はあるけれども」の言い訳のひとつもなく、「天地公共の通商」を言うのがますます胡散臭かった、という事なのだ。

 仮に、アヘンは売らないと言ったところで、武力を背景に、密売に及べば、同じだろう。

 これでは、日本人の地道な暮らしを守れない。これが、佐久間象山の考えだった。

  そして、幕府はこれを理解する器量にかけていた。

 条約を結ぶにしても、このように、説き伏せておいての交渉でなければ、相手のいいようにごまかされるだけだ、と象山。

 

  海軍軍令部総長永野修身ながのおさみ

 日米戦争の直前まで、日本もアメリカも、どちらも、ものすごい不況だった。

  ルーズベルトニューディール政策は効き目が無かった。

 日米戦争がはじまると、アメリカはみるみる景気がよくなる。

 なんでアメリカの景気は戦争中からよくなって、日本はよくならないかというと、アメリカは戦争をする前は、資源があっても、その資源で作ったものを買う人がいなかった、が、英国は、戦争をすると、アメリカの物資をアメリカから借金して、アメリカの企業に支払って、買った。それから、アメリカの企業は、社員を雇って、製品をつくり、政府に売った。これらは、アメリカ映画「われらの生涯の最良の年」に描かれている。

 アメリカは兵士が地獄の苦労をしている間、銃後の国民は、一気に幸福になった、それは戦争が終わる前から、はじまったアメリカの戦争にいかなかった国民の味わった幸福だった。

 昭和16年9月3日、政府連絡会議で海軍軍令部総長は、次のように言う。

 「日本は各方面で物資が減りつつある。逆にアメリカのほうは、増産して、強くなる一方だ。もし戦争すれば、長期になると思う。長期になれば、ますます物資が困窮する。

  王手で行く手はない。(つまり、アメリカ本土を攻撃するなんて、考えられない。できない。)国際情勢に変化でどうなるかわからない、それをあてにするしかない。

 ただ、待っているだけでは、確実にどんどん物資は減り、相手は増産する、その方向で差が広がるだけだ。」

 日本の指導者は、むちゃくちゃ、困っていた。

 3日後の会議でも、盛んに繰り返しているので、悩みに悩んでいる。

※近衛と尾崎らの共産主義者が戦争の準備をして、陸軍が引っ込みのつかない地点においあげたのである。

「外交交渉で日本の自存自衛の、やむにやまれぬ要求でさえ相手が容認しないと言うことになれば、死中に活を求めるしかない。避けることができる戦いを避けないで、あえて戦争したいというんじゃないんだ。大阪冬の陣を見たまえ、一度、和平はしたものの、外堀を埋められた後は、簡単に敗けたろう。

 いまの日本とアメリカの情勢では、待てば待つほど、確実に日本は敗ける。」

 これを聞いていた。大蔵大臣賀屋興宣は、

「このまま戦争せずに、がまんして先延ばしにしたら、どうなる?」と聞く。

 永野修身

 

「三年間、じりじり疲弊して、三年後はさらにやりにくい」

 賀屋興宣

 

「自分はアメリカのほうからは、攻撃してこないと思う。戦争はやめよう。」

 東郷茂徳外相

「わたしもアメリカのほうからは、攻撃してこないと思う。いま、戦争する必要はない。」

 永野修身

「相手が来ないでくれる、ということをアテにしてはいけない。来るかどうか、来ないでほしいが、と思いながら待てば、待った先には日本の抵抗できない弱体化した日本がある。その時には、アメリカは、大増強して、フィリピンのアメリカ軍基地周辺に敵艦を配備するだろう」と。

 とてもじゃないが、これではイケイケドンの軍国主義でもなんでもない。

 悩みに悩んでの決断だった。

 後に東郷外相は、ハルノートを見て、「何が何でも戦争はするまい、だから、どんな条件でも呑み込もうと思ったが、ハルノートを読めば読むほど、喉がつかえて、のどを通っていかない。」

 悩んでいたんだよねえ。まったく、いけいけどんの軍国日本、天皇ファシズムというには、あまりにふさわしくない悩みかただった。

 とはいえ、それが軍国日本、天皇ファシズムではなかったというだけで、日本も、いや、正確には、近衛と昭和研究会のクソ共産主義者ども、風見章が、そして、ルーズベルトも、戦争がしたかった。

 米国人も、現在の日本人が本当のところ、大東亜戦争の真因がわかりづらいのと同様、よくわからないのである。

 というのは、日本が明確な侵略意志で統一していたわけではなく、共産主義思想が、政府、マスコミ、陸軍各分野に入り込んでいたと同様、米国も、ヴェノナ文書で明らかになったように、政府中枢に入り込んだ共産主義者に戦争を誘導されつつも、自国の権益確保を考えていた者もいたから、一貫した強い意志が抽出しがたいのである。

 だからこそ、戦後、米国はルーズベルトソ連と密約した内容を議会が知らされていなかったという事実をもって激しく、ルーズベルトの行動を批判した。

 けっしてただ勝利に酔いしれていたわけではなかった。

 なぜか。近衛、尾崎秀実、風見章、昭和研究会ソ連という社会主義国家の先達と戦争したいはずもなく、憎んでいたのは、米国であり、日本資本主義だった。これは、現在の右翼も左翼も米国の国際金融資本の邪悪な世界支配と軍産複合体の儲け主義を貧乏人のために憎むのとまったく同じで、戦前も戦後も日本人の善良性は米国を憎むのである。

 あまりの同一性に驚くほどだ。

 海軍軍令部総長は、山本五十六には、万が一、交渉がうまく行ったら、すぐに引き返せよ、と念を押した。これが天皇ファシズムのやりとりといえるのか。

 敗戦後、海軍軍令部総長永野修身東京裁判の被告となり、ブラナン弁護人が弁護を引き受けた。

 ブラナン弁護人は1987年夏、死去して、その後、永野修身の未亡人永野美沙子にあてて、ブラナン弁護人の書いたメモが届けられた。

 「永野氏がアングロサクソンを生来の敵と考えたことはなかった。永野氏が、米国、英国に対しての憎しみを言動をもらしたことはけっしてなかったし、むしろ、彼は西洋人に対して個人的友好関係の感情を重んじていたのが真実だ。

 1907年のハーグ会議で、交戦開始直前に告知して、間をおかずに攻撃してもよいとされたのは事実である。だから永野海軍大将のような米国英国のような大国を相手にした場合、において、実戦司令官を指揮した責任や米国へのメッセージが遅れた責任を、彼に負わせるべきではない。」

 米国人には、こういう話のわかる人間がかなり多い。共産主義の指導者、韓国、北朝鮮には食えない奴しかいないのである。

 東郷茂徳外相は、開戦の通告が遅れたことについて、永野修身が悪いと、文句をつけたが、同時に、「米国の交渉態度は、在米資産凍結以来、きわめて。非妥協的で、時をかせいで戦争を準備しながら、もう、戦争を決意しているように思えた。現に8月12日には、大西洋条で、ルーズベルトチャーチルに日本は30日くらいしたら戦争をはじめるだろう、と言い、チャーチルは、もう少し先のほうがいいと言ったところ、それへのルーズベルトの答えは、「アイキャンベィビー・ゼム・アロング」日本を三ヶ月くらい、あやしておける、と言ったといわれる。先に手出ししなければ、どう挑発してもいいというのは、偽善、悪徳、卑怯だ」と言った。

 

 昭和26年5月3日、アメリカ上院軍事外交委員会で、マッカーサー元帥は次のように証言した。

 「日本は半分が農業。あとの半分が工業生産に従事していました。

  日本の擁する労働力は、量的、質的にきわめて優秀です。

 日本の労働者は、怠けている時よりも、働いている時のほうが幸福だと発見していたのです。労動の尊厳を彼らは知っていました。しかし、彼らは資源を持っていませんでした。

 日本は絹産業以外は、ほとんど何も固有の産物はないのです。

  彼らは綿がない。羊毛がない。石油がない。錫がない。ゴムがない。

  それら一切のものがアジアの海域にはあるのです。

  これらの原料輸入を断ち切られたら、1千万、2千万の失業者が発生することを、日本の指導者は恐れていました。

 彼らが戦争に飛び込んだのは、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。

マッカーサーは近衛、尾崎、昭和研究会がなぜ米国と戦争したかったか、米国にぶつかって、壊滅した上で、国内の共産党員の赤軍派に内乱をおこさせるという夢を思っていたことは想像だにしなかったらしく、そんなふうに、日本に同情した。

 朝鮮戦争を経験して、自分だけは損をせずに、他国に戦争をさせて得をとるソ連のやりくちに呆れたからである。

 東京裁判未提出弁護側資料 八巻には、東京裁判後のエピソードとして、昭和25年10月15日、マッカーサートルーマンに、東京裁判はするべきではなかった、と語ったと記載されている。

 永野修身は昭和22年1月5日、米軍陸軍野戦病院で病死。

 

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