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戦後左翼の源流 日本共産党「転向」の実相と現代

「転向」についてウィキペディアを確認したところ、到底、本質をとらえる説明をしているとは言いがたいので、ここにまとめて起きたいと思う。

 

 戦前の日本共産党に起きた「転向」の雪崩現象にはふたつの類型があり、その二つの類型はそれぞれに大きな意味を持っている。

 

 一つ目の転向とは、刑務所生活という活動を禁止された状態の中で、自己の思想信条を再点検してみた結果、自分のよって立っていた思想信条のうちの大きな部分の間違いを自覚するという場合である。

 

 もう一つは、思想信条は間違いだとは思わないのだが、死刑ないしは長期の懲役拘束という状況がもたらす集団生活の拘束感、あるいは肉親の被る貧困や社会的指弾に絶え得ないから、刑を免れるために、反省と改悛の念を述べて解放されることを願う、というもので、その場合、再犯すれば、刑は重くなるから、二度と政治活動はするまいと考えているのである。そして内心、生ける屍のような意識を持つことになる。

 

 前者の自己批判はかつての自分の考えの浅さの反省と自己の属していた反体制政治思想団体への非難という形を取るが、後者は、転向しない者に対する謝罪という形を取る。

 

 これに対して転向しない者たちは、前者の転向に対しては、怒り、憎悪、軽蔑という感情を持って対抗するのだが、後者の転向に対しては、軽蔑と憐憫に始まって無視に至る。

 

 獄中にあった共産党元中央委員佐野学は、1932年10月頃から日本共産党の基本方針、ソ連共産党コミンテルンのありかたについて内省しはじめて、2ヶ月後、検事に心境の変化を告白。検事はもうひとりの大物共産党中央委員の鍋山正親と話し合う機会を提供して、共産党の活動について、なにが間違っていたかを話合わせる。

 

 ふたりは様々な点で自分たちが当時自覚しなかったが今では明瞭に自覚する共産党組織の誤りを指摘してこれを根拠に、二度と共産党に復帰しないことを確約した。

 そして1933年6月に転向声明を出す。

 

 この佐野学と鍋山正親の転向声明の内容に共鳴する者はおそらくそう多くはなく、実際は、これをきっかけに多数の後者のタイプの転向が雪崩を打って生じた。

 

 見落とされがちだが、現在の民進党の源流に位置する「左翼社会民主主義者」は、治安維持法の対象ではなく、彼らはソ連コミンテルンと直接の指導関係にはなく、合法的な議会制民主主義下での労働運動を目指しており、ソ連コミンテルンの指導を受けて日本の労働者を暴力革命に引き込もうとする日本共産党を苦々しく見ていた。

 

 1936年の統計で、受刑者438人のうち、324人が転向して、釈放され、1943年に223人の受刑者のうち、非転向のまま受刑し続けたのは36人。

 執行猶予、起訴猶予で獄外におり、政治活動を禁じられていた者があらためて転向を宣言した者は、1940年の時点で4183名のうち、およそ300人程度を残してほとんどが転向した。

 

 河上肇の場合、佐野学の転向声明の一ヶ月後に転向声明を出すのであるが、この転向は、佐野とはまったく意味の違う転向で、「政治活動はやめました。自分は生ける屍として生き続けたいが、党は正しい」というものだった。

 

 このタイプの転向者は戦後に復党するのであるが、獄中非転向組に頭があがらなくなるのである。その典型が詩人の壺井繁治。

 戦後日本共産党とは、30人かそこらの獄中非転向組が組織内の貴族、他は心情的な奴隷としての位置に立った上で、後進の指導にあたり、そこに新世代が流入していったのである。

 そしてこの大転向時代に最も「転向か非転向か」という迷いの点で無傷だったのが、宮本顕治だった。

 

 北朝鮮労働党員・抗日戦士・パルチザン・栄誉軍人の子孫が優位であり、独立農民・脱南者の出身家系は下位であるように、戦後初期の日本共産党組織では、この「転向組」「非転向組」が非常に大きな意味を持つことになった。

 

 いったん、転向したが、共産主義を捨てきれず、政治活動に復帰して逮捕された者。

 意図的に当局をだまして偽装転向して活動に復帰して、そのまま当局の逮捕を逃れることができた者もあったが、このような場合でも、「非転向組」、とりわけ宮本顕治は「あれは転向者」だと下に見ようとするくらいだった。

 

 本当は転向者なのだが、「非転向組」として通っており、しかも「非転向組」の中でそれを知る者が黙認していることに、内心びくびくしている者もいた。それが蔵原惟人。

 自分は非転向組だと優越心の塊になっていた典型が宮本顕治と袴田。

 転向したことを恥じて、献身的、まじめに働くタイプが春日正一、紺野与次郎だった。

 宮本から見れば、尋問中に当局の調べに応じて共産党の主張を開陳したような者、徳田球一、志賀なども転向という解釈になった。

 

 一般的には、小林多喜二宮本顕治、蔵原惟人が典型的な非転向共産党員としてまつりあげられている。

 

 ところで、コミンテルン日本共産党の世界共産主義革命論への批判をして、日本共産党と決別した転向者たちのほうは、なにも「反共資本主義肯定論者」になったわけではなく、鍋山正親ら転向者一同が「これからは一国社会主義だ」と意気盛んなありさまだった。

 また、元武装共産党時代の委員長田中清玄は、「将来、日本の赤色艦隊を率いてアメリカの艦隊を撃滅しよう」と鍋山に手紙をしたためた。

 

 これは忘れられがちなのであるが、当時治安維持法の取りしまり側としては、「社会主義」を禁じていたわけではなかった。あくまでも「皇室制度」「天皇による統治権の総攬」の破壊者としての組織が問題されたということである。

 ※もうひとつの焦点は私有財産の否定。

 日本共産党の転向者といえば、社会主義思想自体を放棄したとも受け取られるが、そうではなく、当局が「転向」と歓迎した佐野学、鍋山正親の主張とは、「一国社会主義を選挙によって、実現して、天皇の消極的な裁可を受ける形にする」というものだった。

 そして、私有財産は非常に制限したものにならざるをえない、と陳述したので、これは治安維持法に引っかかった。

 

 こうして、実際には、佐野学と鍋山正親は求刑15年の判決を受けているのである。結局二人は、刑務所から逃れたいから、転向したというのではなく、まさに考えが変わったという事を表明したわけだが、それは当時の日本共産党とは相容れないものでもあったというだけのことで、左翼が左翼でなくなったというわけではなかったのだ。

 二人は1943年まで、3年減刑を含んで、12年服役した。

 ただこの判決から服役の過程で興味深いことが起きているのも見過ごせない。

 佐野学は転向声明を出した時点では、実はソ連コミンテルン日本共産党の基本方針を批判したのであって、社会主義自体を放棄したわけではなかった。

 いわば皇室と私有財産制の制限と計画経済の社会主義制度の導入を協調させようというところまでが「転向」の実態だったが、その後の服役中に佐野学は、記紀、万葉、ヘーゲルニーチェ清朝史を読みふける。つまり、刑務所は彼に読書の時間を提供したのである。1940年までこれらの本に没頭し、次に親鸞にのめり込んでいく。その果てに、佐野学は天皇という絶対者の恩寵によって生かされていると考え始める。

 

 つまり、日本共産党の中央委員佐野学は、まず治安維持法によって検挙収監され、沈思黙考の機会を得て、日本共産党コミンテルンに疑問を持つようになり、そこで転向したが、その転向は「一国社会主義私有財産制否定論であったゆえに、懲役刑になって、それが読書の機会を提供することになり、さらに大きく考えが変わっていったのである。

 

 鍋山正親も「転向」時点では「これからは一国社会主義だ」と意気揚々としていたのが、その後の長い服役中にまずマルクス主義の文献を読み直し、これはデタラメではないのか、社会主義自体がおかしいのではないか、と考えが変わり、武士道にのめり込んでいくのである。

 

 皮肉なことに、刑務所生活が規則的な生活と読書環境を保証して、佐野と鍋山の人生観を変えるほどの体験が起こったことを意味する。

 鍋山は武士道研究の果てに、「資本主義の物質至上主義も卑しいがよく考えると、階級闘争の心底には、資本主義よりもさらに徹底した物質至上観念があり、なおさら卑しい」「武士ならばこういう卑しい思想を世にまき散らしたなどという恥辱に絶えられず潔く死ぬべきものではないのか」と苦悩するにいたる。

 鍋山はこうした苦悩のまっただ中で天皇による「三年減刑の恩赦」の告知を受けてこれをきっかけに、天皇帰一の精神にいたる。

 

 興味深いのは、もちろん、天皇帰一の精神が正しいというのではなく、佐野にしても鍋山にしても服役中に必死の思いで書物に没頭して、考えを次々に変えていっているという事実である。

 現代人の生活はどうだろうか。刑務所に入る機会はない。かといって娑婆では、実際は人は人生観が変わるほど切迫感を持って読書に没頭することはない。収入を得るために仕事があり、読書時間はわずかであり、娯楽に興じる自由もあるのだから。

 こうなると、左翼といい、保守といい、いずれにせよ、それはもしかすると、佐野学や鍋山正親が収監される前の「刑務所の中で読書に没頭する体験」を持たないで、日本共産党の活動をしていた状態にあたるのかもしれない。

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