「表現の自由を脅かすもの」著者ジョナサン・ローチ

すべての人は意見、信念によって罰せられるということはない。

間違った信念は犯罪ではないからである。

どんなに不愉快でも、不愉快にねるという作用と暴力とは異なる。

「言葉の暴力」などというものはない。

「人を傷つける言葉」「「言葉で苦しめる」という事を拒否するべきではない。

「言葉で傷つけられたと主張する人々に、報酬を与えてはならない。

 さもないと、痛めつけられたと主張することで何かがもらえるということを知るだろう。

拒否するべきは、暴力行使、犯罪行使、破壊行為の実行の表明である。

我々は面の皮を厚くするという道徳的義務を負っている。

批判するか軽蔑するyかに心を決めて、加害者へ処罰するよう求めたり、賠償を要求することはおもいとどまらなければならぬ。

相手を黙らせたり、追い出したり、失職するように、仕向けたりするべきではない。

※ところで2015年頃から、興味深い現象が始まった。

一般的に街頭デモ行進や街頭演説は、社会に対する意見表明だから、騒音や場所柄をわきまえさえすれば、どのようなものでも許容されるべきである。ある意見を持つ集団が意見表明するとき、異なる意見を持つ集団が同じ場所に言って介入するべきではないのだが、この間違いが盛んに行われるようになったのが、2015年から2017年にかけての日本だった。(お互い、別な場所、(あるいは同じ場所でも別な時に)相反する意見表明をするべきなのである。これは、後から、割り込んである意見を止めようという行動するほうが間違っている。

 前者がもし間違った意見なら、やがて民衆は足をとめなくなるだろう。

だから、介入する必要は本当はないのである。

 「彼を罰したところで効果はない。抑圧するだけではいかなる仮説も完全に埋葬されることはない。」

 2017年4月の末に「京都観光に来た韓国人に対して「ファッキンコリア」と悪罵を投げつけた「韓国嫌い」の人物の行動が動画に流された。

 ※言われた韓国人は、不愉快そうに立ち去った。

 これに対してたとえば次のような反応があった。京都市と京都観光協会に対して「ラーメン店に指導するよう、要求」

京都市は、「店員ではなく、お客の行為なので、店に指導する意味がない」と返答。

 この返答を受けて、「市役所の担当者は、税金泥棒だ」と言うのだが、店員とか店長のしたことでもないものを、まさか店に対して他民族を侮辱するなと言っても無意味だと理解できないらしい。いや、それどころか、こうした店員なのかお客なのかも区別しない段階で騒いで、店を処罰、指導しようと扇動することは、無実の者(この場合その店)を安易に罰してもかまわないという精神の現れに他ならない。

自由主義社会における「言論表現の自由」とは、「たとえ人を傷つけ、害し、怒らせ、不快にさせる事があっても、互いに意見と意見を戦わせて勝ち残っていくものが社会的に通用するという社会の原理である。

 

参考書籍 

「原題 お節介な審問者たち」

邦題「表現の自由を脅かすもの」著者ジョナサン・ローチ

訳 飯坂良明1996年角川選書

 

 

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