「表現の自由を脅かすもの」著者ジョナサン・ローチ書評 2

言論の自由の原理」は、女性、黒人、は知的世界、科学の世界に近づくことを長らく拒否されてきた。が、いまや、そういう事はない。

 真相を暴こうと名乗り出る人たちを「レイシスト」「差別主義者」と罵倒することは、科学を政治的圧力に置き換えようとすることにほかならない。

 スカリア判事の見解は次のようなものだった。

レイシストの信念は苦痛を生じさせる。感情を傷つける。反ユダヤ主義、性差別・性的態度(同性愛・ゲイ・未婚・同棲)による差別、民族優越の表明・(黄色人種差別)・・・こうしたものは、苦痛が生じるのを許すな、という基準によって、価値ある信念から除外すべきである」

 ジョナサン・ローチはこれは思いやり深いようで、大きな危険をはらむ考え方だという。

 「傷つけよう、脅かそうというただそれだけの目的のために、苦痛を与えてはならない」のであって、結果としての「苦痛を生じさせてはならない」というのは、基準にするべきではない。

 なぜなら、誰にも一切害を加えないようにする社会体制は、人間存在の衝動、欲望、抗争、敗者と勝者の帰結は不可避だという事に照らして不可能であって、これを無理に無くそうとすれば、結局、全体主義になるしかないからである。

 ※たとえば、2017年4月末に韓国のタレントが京都の飲食店を訪問して飲食店の先客にファッキンコリアと発言したことが話題になったが、これを二度とおこさせまいとすれば、結局、告発と監視と警察による検挙を強化するか、それともさらに長い時間をかけて良識を浸透させていくしかないだろう。だが実際には、自治体、警察が取り締まれ、店をネットにさらしてつぶしてしまえ、発言者を特定して謝罪させろ、つるしあげろという声がわき起こったのである。

 自由主義社会が維持されるかぎりは、いつかは、検証に耐えた見解が優位になるのである。その時間に耐えることなくして自由社会は生き残る事ができず、原理主義全体主義に道を譲ることになる。

 実際には反レイシスト運動も宗教裁判の異端審問も、警察的であり、同時に極めて人道主義的動機に発する。

 審問された異端者とは、「信仰者たちの信仰を危うくし、他人の考えに悪影響を与えることによって、永遠の地獄の苦しみに引きずり込もうとした」と者たちだったのである。社会のためを思い、隣人・友人のためを思って、審問官たちは、異端者を裁いた。

 これは反レイシスト、カウンターと呼ばれる人たちの心情とまったく同じものと言ってよい。

しかし、この人道主義には、次のような危険が潜む。

 レイシストという烙印を押してしまえば、何を言おうとすべては間違っていると断定してしまい、それは糾弾する側がすべての真理の産出者だと宣言しているに等しいからである。

事実、2017年2月から4月にかけて、盛んに行われた事は、「レイシストなるもの達の集団が一般に人に向けて公開講義をすることを妨害する行動であったが、これは彼ら「レイシスト」が何を発言してもすべて間違いだという決めつけであり、それを指弾する側は何を発言してもけっして間違わないと言っているようなものである。

気に障る事の中に参考になるかもしれない指摘があるかもしれないという態度はそこで消失している。まずは耳を傾け、批判的に検討してみようという社会の成員の態度に対して「反レイシスト」は人道主義の元に妨害しているのである。

 「実際およそ大切な知識の多くは、誰かの気に障る言明として出発した。地球が宇宙の中心ではないという考えは、神への侮辱、ヘイトだったのである。」ジョナサン・ローチ

白人が他の人種に比べて優秀な知能の人種ではないと聞かされた時、最初は白人の多くは不愉快だった。

「私が傷つけれた」と言って自己の尊厳のために主張する個人が出てきた。

※これは、まさに政治活動家辛淑玉氏が、2017年2月「ニュース女子」とおうテレビ番組で批判されて、「睡眠障害になった・吐き気に襲われた」と主張したが、公開討論には応じなかった事実にあてはまるだろう。

 我々は誰しもが自己の信念に対する批判的検討者たちによって、信念を縦横から批判されることを甘受し、無礼、非道に耐えなければならないものなのである。

 人を傷つけるのは良くない。しかし、傷つけ合いなしの社会は知識なしの社会である。金正恩に皆が忠誠を誓えば、その時、相互に論争することからくる傷つけ合いはなくなる。金正恩が判定してくれるからだ。

 ジョナサン・ローチによれば、日本人が1901年から1980年の間、ノーベル賞受賞者が、ドイツの10分の一、アメリカの28分の一にとどまったのは、日本人の悪習、「公開討論ができない」ということにある、という。

 批判されることは傷つく。しかし、傷つけ合いのない社会は、知的創意を生まなくなるという代償を払うことになる。

 ※宮沢首相の「近隣国条項」もそのひとつで、これは議論、論争よりも相手国の気持ちを優先したのであり、これによって、日本人はいよいよ、歴史を考える気力が失せていまった。

 正しいか正しくないかよりも、相手の気に入るかどうかが重要ならば、およそ検証する意味がない。

 ジョナサン・ローチ

ホロコーストを否定する大学教師を、「ユダヤ人を傷つけた」という理由で解雇するのは間違いである。どんな少数者も冒涜を受けないで済ます権利はなく、時に史実によって不愉快になる場合もある。

 ただ学問の水準からしてあまりに明白な誤りを主張しているという教師不適格者としてなら、解雇もありうる。」

 傷つけられたと言う人には、くじけずに生きていってほしいというしかない。それ以上の何も得にをさせてはならない。

 「人を傷つけること」はやめなければいけないという考えはまったく間違っている。言葉は言葉であり、銃弾は銃弾、拳は拳なのだ。

 「人を傷つける言葉は銃弾である。拳と同じである」となれば、人は罵倒されれば、ナイフで返していいことになる。

 サルマン・ラシュディは死刑を宣告され、日本の翻訳者は44歳で実際に暗殺された。だが、サルマン・ラシュディも日本の翻訳者も、確かにイスラム教徒をひどく不愉快にし、傷つけたろうが、それは言葉であって、テロではなかったが、殺された日本の学者を暗殺したのは、ナイフだった。

 もし言葉は暴力だというなら、科学上の学説を批判されると味わう苦痛は暴力だということになり、気の毒だから批判を控えようということになる。

 それを罰して人が傷つくのを防止するには、結局「審問官」が設定されるほかない。

 しかしながらこの自由社会の重要な原則、「言葉によって傷つくことを恐れてはならない」がいまや、危機に陥っている。

 1989年頃から、次の大学で続々と「ヘイトスピーチ」を防止する規則が懲戒されるようになってきた。

 ウィスコンシン大学ペンシルバニア大学、タフツ大学、コネチカット大学、ラトガス大学、ハーバード大学UCLAスタンフォード等々。

 誰かが、「頑迷な・迷妄な・非人道的な・差別主義な・人を傷つける・違憲は禁止されるべきだ」と言うとき、彼は自分自身が社会の幸福の守護人だと宣言しているに等しい。つまり、プラトンの「国家」における賢明な哲学者の支配する社会における哲学者は自分だと言っているのである。

 「嫌な」「耳障りな」「イライラする」となると、受け取る側の心が広かったり、別な問題で関心がいっぱいだとすると、問題にならないが、常に待ち構えていると、大問題になることになる。

 生物の先生が進化論を講義して、敬虔なクリスチャンがわっと泣いて立ち去ったら「それはずたずたに傷つけれたということのなのか」

 人道主義者たちは「ヘイトスピーチかそうでないか。言葉で人を傷つけるかそうでないか」に注意を傾けるべきではなく、「気に障る言葉か、警棒、ナイフ、刑務所か」と言うように区別するべきなのである。

 ここで忘れられているのは、「気を動転させるような批判を人々が免れている環境があってこそ、人は学問をなしうると考えていることである。

実際には、人を動転させるような言論、思想を圧殺すればするほど、皆「自由」になる。とすると、「自由」な体制とは、他者への批判をしない、させない機構を持つ社会ということになる。

 「差別撤廃委員会」というものは、右翼がのしあがれば、右翼にとって不愉快な言辞はヘイトになり、左翼がのし上がれば左翼にとって不愉快な言辞がヘイトとして注目される。実際には嫌がらせの言語の取り締まりの当局者が中立ということはありえない。

 

表現の自由を脅すもの (角川選書)

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