憲法9条の基礎知識 憲法改正高市早苗試案
国防軍の組織および運用は、法律でこれを定める」
山谷えり子が、自民党議員として民主党政府時代に議員立法提案したが審議されなかった法案
「自衛隊法を改正して、北朝鮮に拉致された邦人の救出に自衛隊を派遣できるようにする。」
小沢一郎「普通の国とは、国際社会において当然とされている安全保障への貢献を自らの責任で行う国である。国際社会の圧力を理由にしかたなくやるような事はしない。」
読売新聞憲法改正試案 平成12年5月
「自衛隊を軍隊とする。軍隊は徴兵制としない。」
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1.なぜ、憲法改正という正面突破ではなく、悪く言えば、解釈改憲、良い言い方で言えば、現実の変化に合わせた解釈の変更をするのか?
答え。 日本国憲法は占領下に施行された影響で、現在の世界のあらゆる憲法の中でも特に改憲・修正が困難な改正条項を持っている。なぜ困難なのか。左翼勢力が多すぎるからである。緊急情勢というのは、二ヶ月後、半年後に起こってもおかしいとはいえないものであり、現に、毎日、安穏な娯楽の享受と飢餓の無い日本の生活から推測して、20年先、40年先にゆっくり改憲しようというのは、平和ボケがもたらす思考の産物。
憲法改正が、そのあまりの高いハードルのために、改正出来ない以上、現実に合わせて解釈を変更するしかない。
2.日本の平和運動の底流には、非武装中立論が存在し続けてきた。
これが妄想や「昔の事」ではなく、現在でも、そうである証拠。
非武装、すなわち自衛隊否定論。そして、他国からの侵略の蓋然性は認めるものの、自衛隊による抵抗ではなく、市民が逃げることを理想とする意見の例。
A.「爆笑問題」という芸人と大学教授中沢新一の「憲法9条を世界遺産に」
「そうです。犠牲が出る可能性がある。覚悟のないところで平和論を唱えてもダメだし、軍隊を持つべきだという現実論にのみこまれて行きます。
多少の犠牲は覚悟しても、この憲法を守る価値はあるということを、どうみんなが納得するか」
※テレビで憲法の解釈変更を批判するキャスターたちは、まったくこのように、国民に犠牲の出る覚悟を言わない。
ちなみに、この犠牲の出る覚悟という考えは、東京大学総長の南原繁が、吉田茂政権時代に同じ事を主張していた。
「どんな国も、自分を守るために軍隊を持つことができる。けれども、わたしたちは、人間としての勇気をふるい起こして、その立場を捨てることにした。」
※どうだろう。昨今の安保法制報道で、批判する人々は、憲法を守る事は人間としての勇気をふるい起こすことを伴うものだと言っているだろうか。
実際には、日本国憲法を守るとは、解釈に反対するだけではなく、犠牲を覚悟する、そして、勇気をふるい起こして、自分を守る軍隊を放棄する事だと、井上ひさしは言っている。
※この考えをチベットやウィグル、シリアやパレスチナの人々に聞かせたらどうだろう。
掲載 中村哲医師
「武器を持ってしまったら、かならず傷つけあうことになるのですよ。」
※まぎれもない自衛隊否定論だ。実際には、シリア、イラクの住民が身を守るたあめに、武器を持っている。
E. 井上ひさし
「うちは全部オープンだ、無防備地域だと言っておくのが早いと思います。」
まぎれもない自衛隊否定である。
F. 森永卓郎
「私は善意を信じるので、どこかの国が日本を侵略してきた場合、他国は一緒にたちあがってくれると思う。自衛隊は縮小しながら、国際援助隊にすればいい。」
「まったく丸腰で「僕は平和主義です」と言ったって通用しない事はわかっているけれども、強い意思を持って、だからこそ、戦うのを(侵略に対する抵抗も)放棄するんだ。」
G. 漫画家の辛酸なめ子
「憲法改変によって、日本人の残虐性や攻撃性が呼び覚まされないか」
H. 吉永小百合
「武器ではなく、憲法9条こそが私たちを守ってくれます。」
※実際は、日本の武力は、通常兵器で世界2位。最新鋭レベル戦闘機200機を保有している。
「北朝鮮のミサイルの恐怖をあおるべきではありません。
百歩譲って、仮にそのような事態が動いたとしても、世界各国が外交によって、北朝鮮の攻撃を放置しないでしょう。」
J. 井筒和幸
「どこの国がなにをしようが、手をあげて、ウチはなにもしませんと、そういう姿勢をつらぬくのが一番やけどね」
「友達がコンビニでわけのわからん奴に襲われたらかばうでしょう。かまいにいったら、逆にあかんねんって。争いが大きくなるから。」
(以下は「みんなの9条」より)
「北朝鮮の拉致や侵入に対しては、大阪のおばちゃんを海岸線に並べて置くのがいい」
「海外で自衛隊が国際援助するなら、「○○の仲間」みたいに、弱そうな名前にするといい。大阪のおばちゃんは、自分たちが損な事は絶対しない。北朝鮮の工作員でも、相手を口で説得する。」
「自衛隊は国民を守るものじゃない。実際には、軍隊はそのときどきの権力を守り、国民を弾圧する。守るのは権力であって、国民じゃない。自衛隊は、政府の命令で国民に銃を向ける可能性がある。」
※これなどは、堂々とテレ朝報道ステーションでこう言ってもらいたいものだ。
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大江健三郎 昭和33年発言
「ぼくは、防衛大学生を日本の若い世代のひとつの弱み、恥辱だと思っている」
では、このような日本の多くの平和主義の考えは、どこからはじまったのだろうか。
(戦争はいやだ、コリゴリだ、という庶民の感情ではなく、知識人のこのような発想はどこから、どのようにはじまったのだろうか。)
1.朝日新聞昭和25年5月20日社説「講和に対する態度」
「日本には武装せずという文字通りの平和国家の立場がある。」
「非武装国の安全を規定する新しい国際規約を制定することを望みたい」
※実際には、国際連合にまかせるのは、不可能なのである。なぜならば、国際連合の常任理事国は、中国、ロシアであり、彼らが日本の安全を保障するなんの義務もない。
続く5月21日付け社説でも、朝日新聞は、
「永世中立は、武器を持って、自らを防衛する義務と権利を持つが、日本の場合は、非武装無防備というまったく新しい土台の上に成立する」とした。
※考えてもみればいい。テレ朝ニュースステーションは、政府見解の推移を並べてこう変わった、と非難するが、朝日新聞は、非武装中立論をいつのまに、どこをどう、どういうふうに変えて、どう変わった立場から、安保法制を批判しているのだろうか。
1994年7月21日参議院本会議になると、社会党党首で首相の村山富市は、
「国際的に冷戦構造の崩壊した今日、非武装中立論はその政策的役割を終えたと認識しております。」
※1984年の社会党委員長石橋政嗣83年刊行「非武装中立論」の末尾
「思い切って、降伏したほうがいい場合だって、あるのじゃないか」
なんとも、虫のいい話で、非武装中立論は「政策」なのだ、と社会党は言った。
ところが、この記事の最初に戻ってほしい。護憲派にとって非武装は政策ではない。
多少の犠牲は覚悟しても守るべきもの、と考えられており、問題は、彼らは、テレビではこれをけっして言わないということなのだ。
なぜ、常識なのか。大学の法学部の学生、司法試験の受験者がもっともよく読む憲法学の本に自衛隊違憲と書いてあるからだ。
芦部信喜「憲法」樋口陽一「憲法学」などが、日本の憲法学でもっともよく読まれている。
その芦部信喜「憲法」に、はっきりと、「現在の自衛隊は、その人員整備編成等の実態に則して判断すると、9条2項の「戦力」に該当する。」と書いてある。
そして、樋口陽一は、平成3年8月号「世界」で、「侵略の責任があいまいにされてきた根底には、天皇の戦争責任という問題があります。」と言っている。
だから、テレ朝報道ステーションやTBSNEWS23が、「憲法学者の多くが安保法制に反対」というのは、カマトト報道以外のなにものでもない。
彼らは、テレビで言うべきなのだ、これら憲法学者は、自衛隊も否定していますし、天皇の戦争責任も追及しております、と