テロ等準備罪と左翼思想の残虐性と暴力性

日本人社会主義者テロリズムの危険性、残虐性の本質

 1968年から1969年にかけて台頭した大学卒業生出身の共産主義思想党派に属する暴力行動を伴う活動家は1969年時点で5万3千5百人いたとされる。

当時20代だった彼ら5万人の暴力を辞さない共産主義者は当時北朝鮮への共鳴者でもあった。そして2017年には、彼らは70歳前後になっているはずだが、今頃、なにを思うのだろうか。反原発集会に出ているおじいさん、おばあさんなのだろうか。

1975年3月

中核派の書記長、本多延嘉が埼玉県東川口のアパートで待ち伏せされ、(工業用ハンマーで後頭部を馬乗りになって、滅多打ちにする場合が多かった。)殺害される。

前川全学連委員長、まさかりで頭を強打されるが、一命はとりとめる。

 

 7,8人が集団になって、目星をつけた他の政治党派の幹部がひとりになったところを狙って、パンストで覆面をして、鉄パイプ、ナタ、手斧、包丁で襲撃するのである。

 このテロは殺害を目標としたのではなく、瀕死の重傷を負わせて、相手に政治活動から手をひく気にさせることが目標だったこともあって、中核派革マル派の抗争は、1973年に全国各地で北海道から九州まで千件を超えた。

 山口組などの暴力団抗争は時に流れ弾が市民にあたって無辜の市民を犠牲にすることがあるが、左翼共産主義者の暴力性は、市民に被害を及ぼす事が滅多になく、よそ事として人々の記憶に残らない仕儀となった。

 

 だが、共産主義思想にのめりこんだ者には、この種の残虐性がつねに爆発する危険性があることは、私たちは肝に命じておかねばならない。

 

 2016年から2017年5月に現れたCRACやら、男組やらの入れ墨集団がいかに紳士的でおとなしい暴力威嚇集団にすぎないか、わかろう。だが、いつまた、かれら共産主義に駆られた政治党派が壮絶な暴力、暴走をはじめるか何の保証もない。

 

 社会党の青年層→社会主義青年同盟社会主義青年同盟解放派→1969年革命的労働者協会。その学生部が「反帝国主義学生評議会

 

 この解放派革マル派を1975年までに、4人殺害している。

 

 中核派革マル派を22人殺害

 日本共産党の学生部にあたる「民主主義青年同盟」が革マル派を1名殺害している。

 

こうした凶悪な殺害は、ほとんどが逮捕起訴されることなく、容疑者不明のままに終わっている。

彼らが大学を卒業して入り込んだ就職先は、小中高教師、鉄道員郵便局員、自治体職員であった。

現在の民進党支持者の中核は、彼ら極左共産主義運動体出身の上記職業人であろう。

 

1975年の時点で川崎市職員には、20名の中核派、6名の革マル派、10数名のセクトがおり、東京都では1600人の非日本共産党系の暴力革命集団に属する者たちがいるありさまだった。

 

革命的共産主義者同盟全国委員会」が「おとな部」で、この「こども部」が「マルクス主義学生同盟・中核派」である。

革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派」というのが、まったく、別組織で、血で血を洗う抗争をしているなど、左翼に興味のない生活者に理解できようはずもない。ところが、「ひだりまき」と言ってすませていると、実は「ひだりまき」なるものには、「「日本共産党」「旧社会党」「マルクス主義フェミニズム」「革命的共産主義者同盟全国委員会」「革命的共産主義者同盟全国委員会・革命的マルクス主義派」がそれぞれちがうものとして自己主張しているのである。

 

中核派全学連革マル派全学連とそれぞれに対立する「全学連」があって、「全学連」というひとつの組織があるわけでもないようだ。

 

 破壊活動防止法案は、まさに日本共産党の武装闘争に対処するためにもうけられた。

 1951年から、1955年にかけて日本共産党は破壊活動をしていたのである。

 戦後民主主義は、「殺しもせず殺されもせず」民主的な善良な人々が現れたような「市民主義者」の主張は真っ赤なウソである。

 日本共産党員が主体となって、このような暴力デモが行われたのである。

 ウィキペディア「血のメーデー事件」より。

広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった[2]

 

以下の「吹田事件」も、当時の過激な在日朝鮮人活動家と日本共産党の暴力デモの典型的な例である。

 現在のデモも、あわよくば大衆の暴発を期待して、彼ら共産主義者はデモを呼びかけているといって、間違いない。

 デモ隊の行動について、「うさぎ狩りのようでした」などという証言もなされたものの[2]、検察は「暴徒そのものだ」と形容した。実際にデモ隊は暴徒化し、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク英語版)陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負った。また午前7時ごろ茨木市警察のウィーポン車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げて、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負った。この後、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などした[3]

その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となった。吹田駅の助役は裁判時に「デモ隊が順調に乗ってくれたので、『うまいこといきましたな』と駅長とも話していた」[4]と証言している。解散したデモ参加者らは大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとした。そこに約30人の警察官が追いつき、デモ隊はこれと衝突した。これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出た。事件では200人を超える大量逮捕が行われ、111人が騒擾罪で起訴された(被告人の1人が裁判中に死去、1人は韓国に強制送還され「行方不明」となったため最終的に109人)。