ハロルド・ラスキ「近代国家における自由」にミスリードされた日本人の自由観

日本共産党員、社会党員の巣窟だった岩波書店は、1951年、ハロルド・ラスキの「近代国家における自由」を岩波文庫で出版。

 以来、日本の学生は、皆、「自由」をこの本で間違えて覚え込んでしまった。

 ハロルド・ラスキは、「アメリカン・デモクラシー」などというアメリカを曲解する本を書いてことごとく日本人の現代にいたる「自由」と「民主主義」に関する「大きな勘違い」の基礎を作った張本人である。

 

 どだい、1934年にソ連を訪問して以後、ロシアマルクス主義に傾倒した英国労働党執行委員長に、ソ連共産主義を断固否定した米国の本質がわかろうはずがなく、ラスキの言う「自由」とは、国家権力からの自由という通俗的概念の自由であったが、日本人はすっかりこれを欧米流の「自由」だと勘違いして信じ込んでしまった。

 

 「自由」とは、近代国家の権力からの自由のことではない。

 「人間の能力の開花と行使」それそのものが、英国と米国人の考えた「自由」の意味であって、「何々からの自由」という意味ではない。

 

 「人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。」とは、三島由紀夫の言葉であるが、ことほどさように、「自由」という言葉は多義的だから、迷路に迷い込んでしまいかねない。

 しかし、現代社会を考察するに「自由」の概念を検討することは、非常に重要である。というのは、「自由」の概念には、「私有財産の肯定」「相続の肯定」なくして「自由」は存在しえないという忘れるべからざる原理が存在するからだ。

 人がアフリカの奥地をバイクに乗って探検してみたい、と願ったとしよう。

 この思いを実現するためには、渡航費用、労働を中止してその間、無収入で好きにアフリカをバイクで走る費用が要りようになる。この費用はどうするのか、と言えば、国に出してもらうか、自分でまず蓄財して、消費するかどちらかである。

 もし国に費用を出してもらって、皆がこうした願望を遂げる社会がいいのだ、とすると国は国民一人一人の気随気ままな願望をかなえる莫大なコストを用意しなければならないことになる。そんなことは不可能だから、国は国が決めたある特定の人物にその願望をかなえさせて、そのほかの人は夢を断念することになる。

 ところが、私有財産の消費によって、全部使い果たすも一部使い果たすもその人の判断にまかすという事ならどうだろう。

 人は、能力をみがき、努力して、他人に労力を提供してその結果の報酬を蓄財してから、アフリカの奥地をバイクに乗って探検してみたい、という願望を蓄財した財産を一部か全部を投じて、実現するならば、国に頼って待たされることなく、存分にやりたいことをやれることになる。

 

 これが、私有財産の肯定されるべき理由であり、できるかぎり、税を免除するべき理由もそこにある。財産を消費することは、人間の「したいことをする」という生存の本質そのものだからである。

 

 人が医師になって病に苦しむ人を救いたいと考えたとして、これも社会の成員のそうした願望を国家中央が統制するとなれば、定員の限度に対して誰を優先的に入れるかどうかは、国家中央が決めることになり、個人は国家中央に従うしかない。

 

 ところが、国家中央には、そのような権限はなく、「私有財産」による教授料の「購入」とその教育の結果の競争によって、医師免許が得られるという制度ならばどうだろう。各人の親がまず子どもに対して、子どものそうした願望をかなえるべく、財産を用意するという、親の行動からまず競争がはじまり、子どもは子どもで親に提供された教材で基礎教養を身につけて、日々怠りなく勉強の競争をして、遂には「他人の病気を助けたい」という願望を叶えることができる。

 

 この国家に依存することなく、祖父母、父母と自身の克己、努力、勤勉によって、自分の好きな事を好きなようにし遂げる喜び。これこそ「自由」の本質である。

 平等とは、実は国家中央が公平公正に公有財産を配分するという方法以外になく、無限に大きな公有財を前提にしないかぎりは、結局は、国家中央が限られた消費財を誰が先に消費する事ができるかを選ぶということになる。

 

 これは、平等を最高価値にした場合、個人のあれがしたいこれがほしいというわがままをすべてかなえると、必要なコストは無限に増加するので、国家中央は、個人に対して、消費の種類、消費量、をすべて統制するほかない。職業選択の割り当てまでが起こるのである。

 

 ここに、平等の逆説がある。平等という理想は、現実には、人間の自由の制限を帰結するのである。

 衣服の好み、住む場所、旅行先は海がいいか、山がいいか、すべては個人の所有する金と、先着順の併用というなら、人間は時期を調整しながら、あたう限りの自分のしたいことをしたいように、実現できる。

 これが、自由の基本的条件であり、「自由社会」が「社会主義」「共産主義」のような「公有財産の割合を多くして、「平等」の実現を目指す理想」とは、まったく相容れないという意味である。

 したがって、統制経済、計画経済を礼賛したハロルド・ラスキ英国労働党執行委員長が「近代国家における自由」などと言ってもとんちんかんな自由論になるのは当然のことだったが、岩波書店共産主義者たちは、まんまと日本人をだましたのである。