自由と道徳 民主主義と道徳

 では、バークが自由の条件としてあげた「美徳ある自由」の「美徳」すなわち「道徳」とは、日本においてどのように息づいてきて、現代、失われつつあるのだろうか。そして、教師たちに民進党共産党議員たちは、子どもに道徳教育をするな、と言っている、その「道徳」とは、どんなものなのだろうか。

 

 新渡戸稲造

「廉恥心は少年の教育において養成せられるべき最初の徳のひとつであった。

笑われるぞ、体面を汚すぞ、恥ずかしくないのか、等は、非を犯せる少年に対して正しき行動を促すため・・・少年の名誉心に訴うることは・・・・彼の心情の最も敏感なる点に触れたのである。・・・・名誉は人間の至高善として貴ばれた。」

 

 「富にあらず、知識にあらず、名誉こそ青年の追い求めし目標であった。」

 武士道

 

 そしてバークの言う「美徳ある自由」とは、「躾しつけ」のことでもある。

「躾しつけ」がなっていないからこそ、いじめが終わらないのであって、命の大切さ以前の問題である。

 

 自由とは、「何々からの自由」ではなく、正しくは、「何々をなし得る自由」であるから、巧みな弁舌を行使する能力は、他者をだますこともできるし、他人を愉快させたり、快く納得させる能力の行使も自由である。

 前者の、詐欺をなしうるという自由が悪徳の自由なら、後者の自由が「美徳ある自由」といえる。

 

 また、スポーツの大会に出て、修練した能力を披瀝するとき、韓国人は比較的に反則が多いが、日本人にはまだ比較的フェアな作法が守られている場合が多い。

 つまり、自由とは、「自らの人間的能力の開花」のことであり、自由社会においては、共産主義社会に比べて、社会のありとあらゆる多様な能力が開花する条件が用意された社会だと言えよう。

 

 が、それでも、日本は韓国人に近くなり、韓国はどんどんシナ人に近くなっていく傾向が押しとどめようもない。

 日本人も韓国人も、民主主義、民主主義と繰り返し、「平等」「反差別」と連呼してやまない。

 鳩山由紀夫管直人らは、「社会民主連合」の綱領で「自由・平等・博愛」を言ったが、この「自由」は「美徳ある自由」の事ではない。

 そして、まさに「自由・平等・博愛」の起源になった「フランス革命」について、エドマンド・バークは、「フランス革命省察」の中で、「民衆が(日本の国会前デモのように)集団で行動するとき、どんな悪徳も悪評をわずかずつ分け持って恥じ知らずな行動をてんとして行うようになる」と言った。

 

 「完全なる民主主義はこの世における破廉恥の極み」 バーク

「人間の歴史をすべて均等化する民主主義は、生命の質的、価値内容の低下であり、人間のタイプの低下である。(現代に勝海舟も、西郷隆盛坂本龍馬のような政治家が皆無な理由)民主主義は高級なタイプの人間の養成にはまったく関心がないため、よりよき道徳性高き人を創造する力を持たない。」

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