北朝鮮はどのように日本人を北朝鮮寄りに思想工作したか

北朝鮮はどのように日本人を北朝鮮よりに思想工作したか

 

  1968年北朝鮮帰国者のうちの日本共産党党員を金日成が粛清処刑した。

 1956年には、日本共産党朝鮮労働党祝賀大会に祝辞を送っている。

 

 1959年には、日本共産党書記長宮本顕治北朝鮮を訪問して、日米安保体制否定の活動について、共闘を確認している。

 そこで、共同声明を出し、韓国からの米軍撤退を主張した。

 1961年にも、宮本顕治が訪朝、「北朝鮮の建設は世界とアジアの平和維持に大きな貢献を果たす」と発言。

 

 当時在日朝鮮人北朝鮮への帰国運動が盛んに行われていたが、これを「日本民主勢力の協力の勝利」と発言している。

 

 1964年には、日本共産党の代表団を送り、日韓協定反対運動を確認。

 

 1966年には、宮本書記長訪朝

 

 宮本顕治は「在日朝鮮人小説家の金達寿キムダルスが仲介してくれた、と語った。

 

 金達寿は、日本国内において小説「玄界灘」を書き、日本人、および在日朝鮮人金日成は悪の日本帝国主義に抗日した英雄だという妄想を吹き込んだ。

 

 1955年に朝鮮総連が結成されたとき、日本共産党幹部および党員の在日朝鮮人は、日本国籍をとって、日本共産党に方針に関与し続ける者と、日本国籍をとらずに、朝鮮総連の拡大に邁進する者との二つに分かれた。

 

 金達寿の場合は、朝鮮籍のままで、日本共産党系の「民主文学」に寄稿し続けた。

 

 金達寿は、日本人共産党員に金日成の正当化された人物像を植え付ける工作を、あえて日本の共産党系「民主文学」に肩入れし続けることで、成果をあげようと画策し続けた。

 

 この工作を支援したのが、日本共産党党員の巣食う「岩波書店」で、岩波新書「朝鮮」が出版され、教養の岩波の看板のもと、日本の学生の多くが金達寿北朝鮮正当化の論理を吹き込まれた。

 

 1955年朝鮮戦争休戦協定成立から11日目、北朝鮮南朝鮮労働党出身の党幹部を7名死刑に処している。

 5名は重懲役刑の政治犯収容所へ移送された。

 

 日本でこのような政治権力闘争で、見解の異なる政治家を死刑に処するという例はないが、北朝鮮はすでにこのころから盛んに権力闘争の相手を死刑に処してきたが、日本のリベラル知識人、および旧社会党日本共産党国会議員らは、北朝鮮を擁護し続けてきた。

 

 北朝鮮はこうした「処刑’について、已むをえないもの、正当なのものと日本の在日朝鮮人に納得させて、日本で稼いだ金を北朝鮮に送金させるために、次のような工作活動を行った。

 

 「朝鮮労働党宣伝機関」が「政治学校用参考資料」を作成して、朝鮮総連に送付。朝鮮総連幹部はこれを拳拳服膺したのである。

 

政治学校用参考資料」には、「南朝鮮労働党出身の朴憲永らの処刑の理由は、米軍の仁川上陸作戦に呼応して、北朝鮮内部で暴動を画策していたからだ」と書かれていた。

 

 特に「南進すれば、南の労働党員が呼応して、武力解放は実現すると、できもしない事を言った」と、金日成の判断の間違いを公然と朴憲永らになすりつけていたのである。

 

 朝鮮人両班の権力闘争さながらの謀略、うそによる競争相手の陥れによって、政敵の生命を抹殺したのである。

 

 朝鮮労働党は、朝鮮総連傘下の在日朝鮮人だけではなく、日本人も、北朝鮮善玉観を持ってもらうことが、日本国内の朝鮮人の立場を強化し、稼いだ金品を北朝鮮に豊富に送るために必要だし、韓国との協調を防止して、韓国の発展を阻止するためにも、

必要だと考えた。

 

 そのために、宮本顕治日本共産党党員編集者ルートを使って、松本清張中央公論編集者に働きかけて、(北朝鮮の作成した資料を松本清張に提供)。

 こうして松本清張は、中央公論誌上に「北の詩人」を連載する。1964年刊行。 その内容は、米軍情報機関と通じた在日本米国人の牧師にスパイに仕上げられた在日の詩人、林和が北朝鮮に帰国するが、米帝国主義への通謀がばれて処刑されるというものである。

 

 こうして、松本清張中央公論を通じて、北朝鮮工作機関は、日本人に、米国の非道な謀略ゆえに、スパイに誘い込まれた在日朝鮮人が数多く、悲劇的に、北朝鮮で処刑された。

 それはけっして、朝鮮民主主義人民共和国が悪いのではなく、米帝国主義が悪辣だからだ、という宣伝を推し進めていった。

 現在でも、この「北の詩人」を検索すると、松本清張の傑作と信じている者が少なからずいる。

 

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