マルクス「共産党宣言」と日本の新左翼の真実

共産党宣言

 

共産主義は、階級対立の廃棄を目指す

 

現代はブルジョワジー産業資本家・大富裕層支配の時代である。

 

国家権力はブルジョワジーの利益の代行者である。

 

奇妙なことに、マルクスは、ブルジョワジーが家族関係を金銭づくの関係にしたのだ、と言っているが、事実に反する。

 

 講談社学術文庫共産党宣言14ページ

ブルジョワジーは家族関係から、感傷的なベールをひきさいてそれを純粋な貨幣関係に還元した。」

 

 実際は、2010年ころから、日本の共産主義者たちが強力に推進し始めた保育園推奨と高校授業料無償化こそ、家族の絆を希薄しようとする政策に他ならない。

 

 類似の興味深い現象がある。マルクスは、産業資本家が世界市場を開拓することによって、産業の足元から、国民的地盤を取り去った。これは、国家主義者が憎む現象だ、と2017年の日本における民族主義者が、グローバリズムを非難している事を1848年の時点で指摘しているのだが、現代では、産業資本家による国家意識の掘りくずしに加えて、朝日、毎日、岩波の進歩的文化人たちが、「地球市民」「世界市民」を従容しているのである。

 

 つまり、マルクスは、産業資本家の産業グローバリズムは国家意識の崩壊という墓穴を掘っているのだから、共産主義者は、さらに墓穴を掘り進めてやろうというわけである。

 

 しかしこれも、家族の絆がそう簡単に押しとどめえぬ金銭ずくの関係に純化されはしなかったように、実際にはマルクスが予想したほど、確実な歴史の流れではなく、国家の枠組みはくずれそうにない。

 

 マルクスが確実に、間違えた認識がもうひとつある。

 「もっと全面的でもっと強力な恐慌を準備し、恐慌を予防する手段を減少させることによって当面の恐慌をしのぐのが、産業資本のやり口だ」とマルクスは考えた。

 

 これも、現代の共産主義者がやたらに国家財政支出を増加させて財政破綻を仕向けていることに符号するが、本当はマルクスとしては、なにも共産主義者が福祉予算を要求して財政を破綻させなくても、景気循環そのものが強力な恐慌につながるはずだと考えていたのであるが、現実には、いっかな破綻しそうに見えて破綻しないのが歴史の事実なのである。

 

 労働者は機械のような生を強いられると見えたが、それも実際は、ホワイトカラーが増加し、さらに週休二日制に加えて、有給休暇、長期休暇が増加して、革命するまでもなく、機械のごとき生を強いられる労働者階級の存在様式が消滅してしまった。

 

 「機械装置と分業が増えるに比例して、労働の量も増える」というマルクスの認識もまったく間違いだった。

 「労働者のための費用はかれの生存と彼の種族の繁殖のために彼が必要とする生活資料に限定される」というのも、まったくの予想違いで、事実はそうはならなかった。

 賃金労働者は、娯楽消費にかなりの額を費やしてさらに子供に相続可能なほどの財産を貯めるほどの余力を持つほどの賃金を得ている労働者がかなり多くいるのである。

 

 「プロレタリア運動は、圧倒的多数者の利益のための圧倒的多数者の自立的運動である」という認識もまた、根拠を失っている。なぜマルクスが、プロレタリアが圧倒的多数者であると考えたかというと、「機械制の大工場労働者」が農民に次ぐもっとも多数の存在様式で、今後は「大工場労働者が増加しこそすれ、減少することはないだろう」と予測したのである。

 

 これもまた、予測ははずれて、無数のサービス業と公務員が増加して、まずなによりも、圧倒的多数者としての工場労働者というのが、成立しない。

 

 マルクスの言う格差社会の破滅性とは、「産業資本が奴隷たちを破滅させて奴隷たちを養わなければならない状態に追い込まれるから」だったが、現代では、格差は、ただ単に、可処分所得の相違しか意味しないからである。

 ※講談社学術文庫共産党宣言」30ページ

 

 マルクスの認識では、近代の資本家たちは、1万人も2万人もいるとは想定されてはいなかった。

 マルクスの認識していた資本家とは、まさに今で言う「創業者一族所有の大企業」なのであり、労働者とは、そういう創業者一族の所有する大規模工場の労働者以外の何者でもなかった。

 

 現実はマルクスの予想を超えて、2014年の統計で、日本には380万人の中小企業経営者が産業資本家と独立して個別の財産を持って、労働者を雇用している。

 

 つまり、380万人の経営者、資本家はそれぞれに巨大でもないし、巨富の持ち主でもない。

 巨大でもなく、巨富の持ち主でもない380万人の資本家とそれぞれにつながっているのが、労働者であり、しかもその相当の割合が、週休二日労働で有給休暇を取得しているのだから、マルクスの言うような「プロレタリアート勝利は不可避である」という前提条件がない。

 

 マルクスは言っている。

「社会の中の数え切れない多数の無所有を不可欠の条件として前提とする所有を廃止する」と。

 

 これはこういう意味である。

「 労働者のほとんどは、ただ生きるために必要な賃金しか得ていない。一方、資本家はありあまる財産を所有している。だから、資本家のありあまる所有を廃止するのだ」

 

 だが、この考えには、多数の労働者が本当に貧困であるという前提が必要である。

 実際には、さほどまで貧困ではない。少なくとも、「被雇用者の半分以上」は。

 

 社会の中の数え切れない多数の無所有を不可欠の条件として前提とする資本家の所有・・・自体が存在しないのである。

 

 当然だろう。大企業資本の株主のいかに多くが労働者自身、あるいは労働者の保険資産であることか。

 

 <共産主義は家族を廃止する。>

 

 「諸君はわれわれ共産主義者が両親によるその子の搾取を廃止しようとしているのを非難するのか」※講談社学術文庫 共産党宣言 40ページ

 

 これは以下のような意味である。

共産主義は、子供を親から引き離して、保育園から、はじめて公教育で育てる。なぜならば、家族教育とは、親自身が「支配階級に影響され、洗脳された状態」で、子供を教育するからである。

 

 <共産主義は一夫一婦制を廃止して、女性を共有する」

 これについて、マルクスはおもしろい説明をしている。

 現代の一夫一婦制は、実際には、金持ちが売春婦を買ったり、めかけを囲っているのだから、実質的には共有制ではないか。

 この隠された女性共有性を共産主義は公認の女性共有性にするだけだ、と。

 

 マルクスエンゲルスは夫婦関係について非常に猜疑心をもって解釈していたようで、

 資本家の男性は、妻を子供を産む道具としてしか見ておらず、同時に、売春婦を買うか、めかけを持つかどちらかをしないことはないのだから、実際は家族とは、非公認の売春と女性の共有なのだ、と。

 

 だから、共産主義は、一夫一婦制は廃止するし、「妻の地位」も「母の身分」も、「売春婦」も、みななくす、と。

 一時レーニンは、これを真に受けて実行したところ、いわゆる女たらしと男好きのする女がやたらに秘密の二重三重の愛人関係を持ち、それこそ国家の子である捨て子画像化。少年犯罪が急増したので、スターリンはあわてて普通の婚姻制度にもどした。

 

 <マルクスの言う民主主義とは、プロレタリアートを支配階級の位置におく事、を意味する>

 

 現代日本では、日本共産党や、非日共系の共産主義者たちが、盛んに民主主義を主張する。

 少なくとも、マルクスの言う民主主義とは、社会の成員全員の平等な参加を意味してはいない。

 

  プロレタリアートを支配階級の位置におく事、である。

 

 プロレタリアート、すなわち被雇用者たちが支配階級になった政権がすべての国家権力と生産手段の所有権を持つ、というのが、「民主主義」だと言っている。

 

 その条件として、

1.強度の累進課税

2.相続権の廃止

3.すべての輸送機関の国家集中

4.全人民への平等な労働強制

5.すべての児童の公共無料教育(ただし、親からの引き離しと夫婦制度の廃止を前提とするから、家庭経済が楽になるという意味ではなく、家族の団欒自体が消滅。

6.地主は廃止して、地代を国家財政に入れる。

 

共産主義は国内の階級闘争勝利が、隣国との敵対的態度が消滅することにつながると確信する>

講談社学術文庫共産党宣言」42ページ最後の行を見よ。