映画 「利休にたずねよ」

 この映画「利休にたずねよ」の2013年12月5日の劇場公開時、市川海老蔵インタビューの紹介記事には、「小説に書かれていた若き利休は、高麗からの貢ぎ物だった女性に恋をして駆け落ち。追い詰められて心中を決意するが自分だけが生き残ってしまう。そして、女性が最期に残した言葉が「あなたは生きて」だったことを知り、生涯、香炉の中に女性の骨(映画ではツメ)を入れて持ち続け、茶の道に没頭していく。」とあるが、これは小説の内容説明が間違っている。

 利休は秀吉と同時代人で、1591年の没している。

 ところが、高麗というのは、1392年に滅亡して、1393年に李氏朝鮮が建国されている。200年も時代が違うのである。

 「李王朝の血を引く娘を高麗から仕入れた女」というセリフがあるが、韓国人が聞いたら、呆れるのではないか。「高麗王朝の血を引く女を朝鮮から仕入れた」なら、ありうるが、「李王朝の血を引く娘を高麗から仕入れた女」では、はちゃめちゃだ。

 映画の中では、盛んに「高麗の女」と呼ぶが、朝鮮が高麗王朝を滅ぼしてから200年間も経ているのに、「高麗」と呼んでいたはずがない。

 なんと、「こりょ高麗に帰りたいか」というセリフまである。

 ばかげている。朝鮮国の人間に「高麗に帰りたいか」はないだろう。

 この作品は、モントリオール世界映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞したのだが、かなりおかしなところがある。

 若き日の利休は略奪されてきた高麗の美女(時代考証的には朝鮮の女)を助け出すのだが、なぜ助け出すかというと、「略奪されたことへの同情」ではない。あきれたことに、「顔が美しいと感じた」からである。

 第一、略奪されたことに同情したのなら、利休の師匠が「あの女の命は茶器ひとつにも足りないからどうということはない」という言葉に憤るはずだが、利休はこの言葉にまったく反応も嫌悪も見せない。

 ただただ、美しきものへの哀切の念で、これがそこそこの器量良しであれば、自身の命の危険を冒して女を助け出しはしなかったように描かれている。

 まったくけったいなほどに、無倫理な人物なのだ。

 この朝鮮女性は韓国の若手女優のイ・ソンミンが演じている。

 たしかに、非常に美しいのだが、朝鮮女性が美人ばかりではないことは、どの国の女性も、美人もいれば並の顔もいると同様。イ・ソンミンが特別に美人なだけである。

 事実、イ・ソンミンは韓国国内でも、美女として定評があるらしい。

 利休は相手が美女だから助けたので、美女でなければ助けなかったという描かれかたをしている。

 この点、米国の映画「サルバドル遙かなる日々」の主人公のジャーナリストはエルサルバドルの貧しい女性を米国に連れだそうとするが、この女性は特段、美女ではなく、十人並の顔をしている。十人並の面貌の女に同情するほうがよほど倫理的なのはいうまでもない。

 ただし、イ・ソンミンは韓国のテレビドラマにも出演しているが、ちっとも絶世の美女のオーラを放ってはいない。これはひとえに日本の撮影技術が韓国よりも数段上だからである。

 正確に言うと、「この朝鮮の女は、朝鮮の支配階層の党争に巻き込まれて売り飛ばされた」というセリフがある。従って、さらったのは、朝鮮人。売り飛ばしたのも朝鮮人。そして、買ったのが日本人という設定だから、変な話だが、現代の慰安婦問題の真実そのままで、さらったのも売ったのも、朝鮮人だという認識では、一応正しいのである。

 だが、このことは、映画のセリフを注意深く聞いていないと、聞き分けるのに失敗して、この映画は「日本人が朝鮮から女性をさらってきた」という設定で、「北朝鮮による拉致事件」と逆のことは、昔はたくさんあったと言いたいのだろう、と誤解する可能性がある。しかし、確かにはっきりと、「この朝鮮の女は、朝鮮の支配階層の党争に巻き込まれて売り飛ばされた」というセリフがある。

※映画の実際のセリフは「高麗こうらいの女」だが、なぜ「朝鮮」でなく、「高麗」なのか、不明。単純ミスか?それにしては、「朝鮮王族の血を引く」というセリフもあるから、おかしい。朝鮮王族の血を引くなら、「朝鮮」ではないか。

 案外モントリオール映画祭の鑑賞者はここを理解できなかったかもしれない。

 昔も慰安婦の「強制連行」ってあったんだな、くらいにしかかんじないかもしれないのだ。

 この時代、朝鮮では、日本のことを「倭奴ウェノム」と侮蔑し、北方民族は「オランケ」と軽蔑していた。これは、宮中には宦官制度があり、奴隷があり、迷信に充ちた朝鮮が夜郎自大の傲慢さで根拠の軽侮を日本に抱いていたに過ぎないが、映画の中で青年時の利休は、朝鮮では日本の事を「蛮族(ウェノム)」という風習があることを知っているので、朝鮮人にさらわれ、日本に売られた朝鮮の女に「蛮族の王(この作品では信長のこと)の奴碑となりたいか?(死ぬよりもそのほうがいいか?)」と聞く。

 

 考えてみると、日本の武士が争う相手側の子女をさらって、朝鮮に連れて行って、売り飛ばして金銭に換えるという状況があるだろうか。まずありえまい。

 ところが、朝鮮の場合、あり得ないともいえない。

 日本の武士が相手の姫を朝鮮に売るケースは無いにしても、仮に無理矢理そういうフィクションを韓国人が作ったとして、それでも、絶対にあり得ないのが、「蛮族朝鮮の両班の奴碑になったほうが死ぬよりもいいか?」というセリフで、これは絶対にありえまい。

 韓国、朝鮮は古来、朝鮮は東方礼儀の国、日本は蛮族ウェノム満州は蛮族オランケ、現代韓国は自浄能力のある民主国家、現代日本は、侵略を反省しない差別主義国家、と考えているのだから。

 なにしろ、この映画では、信長の時代から、日本の青年の中には、朝鮮人に「蛮族」と呼ばれれば、怒りもせずに、「蛮族の王」と自分の国と隣国を比べてわがほうを「蛮族」と称する青年がいたことになっていて、その一人が青年利休だったということになっている。なんとも、奇妙な人間観、歴史観に貫かれた映画である。

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