関東大震災朝鮮人虐殺は6千人ではない
虐殺はあったのである。いや、あったとしてもいい。しかし、けっしてそれは6千人ではない。232人ないし800人である。
ただし、その多くは泥棒、強姦魔、火事場泥棒などの朝鮮人に対する日本人の行き過ぎた
リンチ、過剰防衛である場合が多数であったと推定される。
またもうひとつは、朝鮮人共産主義テロリストとの衝突であり、これを共産主義者側が「虐殺」と称しているケースもある。
不逞鮮人と自警団・軍隊の激突で双方に被害者がでた、という表現が正しい。
したがって、これについて独立して「追悼」するいわれはまったくない。
が、現実的には、もはや水掛け論であるから、わたしは、
「虐殺はあった。ただし、数については、わからないものはわからない。つまり、
1.233人(司法省調査)
2.813人(朝鮮総督府官憲調査)
3.6千人 上海に亡命した大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」が報じた数
以上、主として三つの説のうち、どれも科学的根拠を欠くのは、大正時代という科学技術の発達していないという時代性からもいたしかたないので、どれも信頼できる数字とは言えないのである。
少なくとも、6千人、あるいはそれ以上の数を掲げるどんな主張も、常識として通用させてはならない。
数については、
証言を集めた『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』(現代書館)の著者西崎雅夫自身が言うように、「その数は数千人とも言われているが、実際に何人の方が犠牲になったのか、じつは震災から93年がたった現在でも詳細はわかっていない。」というのが、実情である。
しかし、6千人説が一人歩きしているのが問題なのである。
それはともかく、なぜ西崎雅夫のように、関東大震災朝鮮人虐殺というテーマに血道を上げる者がいるのだろうか。それは、正義と公正を求める人道主義者の運動なのだろうか。そうではない。
日本共産党系の反資本主義、資本主義国のひとつである日本への長期的な破壊工作、資本主義日本を非人道的体制という見方を国民に広めて、保守政党に反対する国民を増やそうというプロパガンダ運動なのである。
西崎雅夫の主催する社会教育団体「グループほうせんか」は、ソ連崩壊が確定した1991年12月から二年も経たない1993年に設立された関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会であり、死んだ朝鮮人が共産主義者テロリストであること、火事場泥棒、暴力団の類いであることを隠蔽するカルト組織である。
この会を1982年に朝鮮半島引き上げ体験のある足立区の小学校教師、絹田幸恵が創立したときのアドバイザー役を果たしたのが、日本共産党党員で全学連書記長経験者の高野秀夫である。(途中反日本共産党系左翼の構造改革派に属する)
当時江戸川区在住だった高野秀夫という日本共産党を除名された構造改革派の共産主義者を絹田に引き合わせたのは、NHKのディレクターだった平塚千尋である。
高野秀夫は、絹田幸恵が言った「虐殺された朝鮮人を供養するにはどうしたらいいか」という相談に対して「大切な問題だから遺骨の調査をしてみようではないか」と言ったと絹田が思い出を語ったといわれる。
1982年9月、建設省との交渉・許可のもと旧四ツ木橋の下手河川敷で埋もれたままになっていると思われる遺骨の大規模な試掘を行ったが、遺骨を発見することはできなかった。と、[グループほうせんか]の記録にはある。
※高野秀夫自身は、その翌年には、江戸川で入水自殺している。
高野が自殺したのは、カンボジアで中国共産党の支援する共産主義者によって200万人が殺された1973年から10年後である。また中国とベトナムが戦争をはじめて、中国軍兵士が2万人戦死した1979年から、3年後であった。