関東大震災で虐殺された朝鮮人の戦後の姿

8月28日

 ※以下のグラフのように、大震災の虐殺事件以後も、どんどん朝鮮人は日本に移民し続けています。ホロコーストのあとの欧州、ソ連ユダヤ人が逃げ出してアメリカに移民したのとは、まったく逆の行動をしたんですね。大虐殺のあった場所に向かっていったんです。

 

1920年の在日朝鮮人人口は4000人だったから3年後の関東大震災で6000人も殺される筈がない、という言い訳が都庁方面とおぼしき方角から聞こえてきたので、1923年の在日朝鮮人人口を見てみましょう。

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関東大震災とその時代 序説

テロリズムとは、政治思想上の動機によって行われる特定政府および特定国民に対する暴行、殺害、財産略取、強奪、財物破壊等の凶悪犯罪である。 

 一般に日本人は「革命」を良いものというイメージを持ちがちだが、共産革命とは、テロリストが権力掌握に勝利して政治権力を掌握して体制を確立した場合なのであり、当然、政治犯収容所の設置を必要とする。

 事実、共産主義革命がなされなかった国には、政治犯収容所はなく、共産主義政権には、かならず政治犯収容所がある。

 

 関東大震災の起こった時代は、日本における未曾有の共産主義者によるテロリズム横行の時代であった。そのテロリズムの主体は、日本人と朝鮮人の両共産主義者の共犯関係によって連綿と戦後に引き継がれた。

 

 たとえばこんな具合に。

また、戦後最初の日本共産党党大会の幹部序列は、徳田球一、志賀義雄、袴田里見、金天海、宮本顕治で、在日朝鮮人の金天海は、宮本顕治よりも上位だった。

第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だった

 この日本共産党の中央委員の最高幹部の一人、在日朝鮮人金天海は後に北朝鮮祖国統一民主主義戦線議長、最高人民会議常任委員を務めた。すなわち、日本共産党最高幹部と北朝鮮最高幹部は同一人物が務めたことになる。

 さらに、1949年当時に日本共産党の中に設置された「朝鮮支部」の委員だった韓徳銖が、後の朝鮮総連議長になるから、日本共産党朝鮮支部最高幹部と朝鮮総連最高幹部もまた、同一人物である。

 こうして、日本共産党が育てた人物が在日本朝鮮人連盟を組織し、彼ら戦後、非日本人となった在日朝鮮人は、自ら「朝鮮人」を名のり、外国人であるにも関わらず、大阪の扇町公園で、吉田内閣打倒人民大会を開催して、騒乱を起こした。そのため、16人の重軽傷者が出た。

 

 現在、朝鮮人は「朝鮮人」は差別語だと言うが、彼ら自らつけた名前が、(昭和26年)1月、在日朝鮮人統一民主戦線であり、在日朝鮮居留民団である。

 

 ここで重要な問題は、1951年2月の日本共産党4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立ったのが、朝鮮人だという史実である。

 

 つまり、武装闘争とは、比喩では無く文字通りの「テロリズム」なのである。山村工作隊活動や火炎ビン闘争がそれである。

 また、1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデー皇居前広場で騒乱を起こしたのも主役は朝鮮人だった。5000人の朝鮮人が1万5千人の日本人労働者を革命騒乱にあおり立てようとして警官隊に鎮圧されたが、彼らはあわよくば、皇居に突入して、天皇陛下を暴徒と化した日本人が殺してしまうことを狙ったのである。

 その後、日本共産党内部の朝鮮人共産主義者は、日本共産党の指導から離脱して、朝鮮半島の北に成立した共産国朝鮮労働党の指令を受けるようになっていった。

 

 少しさかのぼること戦後まもなくの朝鮮人は、彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、 無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。

善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。

というありさまであった。これが、関東大震災で虐殺された朝鮮人の戦後の姿であった。

「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」

警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。

(略)

一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。

途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

「どないしたんや」

「おかあちゃんが、おかあちゃんが」

少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

「ここにいるんやで。ええな」

私は少女をその場において一目散に走った。

少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。

 

1948年4月23日9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には、在日朝鮮人日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で、大阪府府知事との交渉を行うことになった。

12時30分、大阪府庁知事室において、副知事(知事は当日不在だった)と朝鮮人代表者16人との交渉が始まった。交渉は合意には至らなかった。

15時、在日朝鮮人日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中から、シュプレヒコールが起こった。50人余の青年が、行動隊を編成し、スクラムを組んで、大阪府庁前の阻止線を突破した。

15時30分、行動隊に続いて、在日朝鮮人日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も、大阪府庁に突入し、3階までの廊下を占拠した。副知事は警察官の誘導により、戦時中に作られていた地下道を通って、脱出した。

17時ごろ、群集は知事室になだれ込んだ。それから、群集はドアや調度品を破壊した。

日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は、川上貫一衆議院議員とともに、知事室に駆けつけたが、どうにもできなかった。

夜、大阪城周辺の各所で、在日朝鮮人日本共産党関西地方委員会の日本人は、篝火を焚いた。朝連は、川上貫一を代表として交渉の場を作ろうとしたが、アメリカ軍が到着した。さらに、武装警官も到着した。その後、在日朝鮮人日本共産党関西地方委員会の日本人らは、武装警官隊と乱闘となった。在日朝鮮人1人が死亡し、在日朝鮮人20人が負傷した。警官31人が負傷した。179人が騒擾罪で検挙された。

4月25日、朝連や日本人約300人が、大阪南警察署に押しかけ、逮捕者の釈放を要求した。警官隊は、約300人に向けて威嚇射撃を行い、追い返した。

4月26日、朝連は、大阪東成区や旭区などで、朝鮮人学校弾圧反対人民大会を開催した。

午後、朝鮮人代表者と大阪府知事との間で再度交渉が行われた。

15時40分、別室に待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と、大手前公園に集結して在日朝鮮人1600人のデモ隊が、再び大阪府庁に向かった。デモ隊は、武装警官隊の阻止線で、投石を開始した。武装警官隊は、消防車に放水をさせ、デモ隊に突入した。警官隊はデモ隊に向けて拳銃で発砲した。在日朝鮮人金太一が死亡した。

検挙者は軍事裁判にかけられた。日本人9人と在日朝鮮人8人が、重労働4年以下の判決を受けた。

阪神教育闘争の指導者の一人であった朴柱範は、逮捕・投獄され、釈放された直後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。いた在日朝鮮人2万人の解散を指示した。

 1950年 長田区役所襲撃事件

長田区役所襲撃事件(ながたくやくしょしゅうげきじけん)とは、1950年(昭和25年)11月20日から11月27日にかけて、兵庫県神戸市長田区で発生した公安事件。

第一神戸事件(阪神教育事件)に続く、神戸で起きた第二の騒乱事件という意味から第二神戸事件ともいう。1950年11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。

11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、長田区にある西神戸朝鮮人学校に千数百人の朝鮮人が集結、神戸市警察は全警察官を総動員して対処した。朝鮮人は投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された。

以上のような姿が、関東大震災で虐殺されたという善良な被害者とされる朝鮮人の戦後日本における姿である。

 

 この在日朝鮮人のテロ、日本国内における暴力、暴動、殺害、強奪、の凶悪犯罪は戦前にさかのぼる。

 それこそ、まさに、関東大震災の時代の朝鮮人活動家の凶悪なテロリストとしての姿であった。

53秒前

 
 

関東大震災で虐殺被害を被った朝鮮人の皆様に同情した日本人がやったこと。 地獄送りの「北朝鮮帰国事業」ありがた迷惑だったろうにのう。 うちのパヨクがなんちゅうことを・・・ごめんね、朝鮮人様。

 

60秒前

 
 

大韓帝国皇帝高宗の臣民であったことを恥じた大韓帝国臣民たちは、あわてて、朝鮮人民共和国を作り、日本では、「在日本朝鮮人連盟」を名乗り、 在日朝鮮居留民団を名のった。韓国人は、高宗の血筋がいるのに米国にかぶれて、王制に戻さなかった。

 
 
 
 
 
 
 

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