日本と北朝鮮の政治関係小史 4

日本と北朝鮮の政治関係小史 4

 1990年 自民党金丸信社会党田辺誠訪朝団があった。

それぞれ、金丸信は貿易利権、田辺誠は労働組合総評の望む朝鮮への謝罪賠償の実行の準備である。

 1995年3月28日には、渡辺美智雄訪朝団またの名を連立与党自民、さきがけ、社会党訪朝団。この時の政調会長加藤紘一

韓国は金泳三保守政権で、北朝鮮は韓国にコメ支援を依頼することができないので、日本にコメ支援させる必要があった。

 4年前にソ連が崩壊して、援助が途絶えた北朝鮮は産業が乏しく外貨が不足、軍人費過大、農業技術の後れで天候不順に対応できず、飢餓にに直面していたが、韓国に頼るわけにもいかず、日本にコメ支援を依頼してきたのが、この会談。自民党加藤紘一は常に北朝鮮の国交正常化の立役者となることを政治家としての檜舞台と考えている人物だったと見てよいだろう。

 加藤紘一は日本中国友好協会会長、日朝国交正常化連盟所属でもあり、加藤紘一の側近中の側近であった白川勝彦は学生時代日本共産党の民主青年同盟の活動家であった。白川勝彦は、1993年に、元日本共産党員で、社会党左派の伊東秀子と協力して、自社さきがけ連立政権体制に奔走しているから、マルクス主義者で自民党に潜り込んでいたのは、ほぼ間違いあるまい。その白川勝彦と親和性があったのが、親中、親北朝鮮の加藤紘一であった。

 加藤紘一は2007年2月には、民主党仙谷由人枝野幸男公明党東順治社民党辻元清美らと超党派勉強会「ビビンバの会」を立ち上げている。

 仙谷由人は、マルクス主義構造改革派、枝野幸男革マル派労働組合との関係が深く、辻元清美連合赤軍の流れを汲む新左翼との関係が深い。

 

 加藤絋一は日比谷高校の同窓である外交官の渡辺伸松本清張の娘婿)に誘われ、東大水泳部に入部しているのだが、松本清張日本共産党シンパの作家であり、ゼミの指導教官であった坂本義和は、北朝鮮による日本人拉致問題では、「『拉致疑惑』問題は、今や日本では完全に特定の政治勢力に利用されている。先日、横田めぐみさんの両親が外務省に行って、『まず、この事件の解決が先決で、それまでは食糧支援をすべきでない』と申し入れた。これには私は怒りを覚えた。自分の子どものことが気になるなら、食糧が不足している北朝鮮の子どもたちの苦境に心を痛め、援助を送るのが当然だ。それが人道的ということなのだ」と発言したことから、ごりごりの共産主義者である。

 加藤紘一マルクス主義者との親和性はこのように非常に高い。

 

 1997年 11月11日、森嘉朗、野中広務中山正暉、元TBSディレクターで環境左翼のさきがけの堂本暁子が訪朝

※環境左翼とは、マルクス主義の環境問題主張に特化したマルクス主義の変態

 

 拉致問題報道、大きくなる。コメ支援反対圧力強くなる。

 この時、中山正暉拉致問題を問うが、北朝鮮は「行方不明者」と答えたのは有名。3年後、この会談は、実は、森嘉朗が北朝鮮に対して、「拉致された日本人を行方不明者がバンコクで発見されたということで解決しようと打診していたことが、イギリスのブレア首相の口からもれて明るみになる。(森がブレア首相にもらした)

 

 このころから、保守派ともくされていた中山正暉は、国交正常化してから、拉致問題を解決するべきだと発言するようになった。

 1998年8月 北朝鮮のミサイル実験がはじまる。日本本土を越えて太平洋に落下。

 1998年7月の参議院選挙の自民党敗北の責任をとって辞任した橋本の後継首相小渕恵三だったが、橋本と同派閥の小渕の登板に当初は各方面から批判を浴び、低支持率毎日新聞調査は25%)からのスタートとなった

 いまでは、想像しにくいが、自民党の小渕にとって、低支持率打開のひとつに、北朝鮮との国交正常化がプラスに働くと考えるほど、当時、北朝鮮への日本国民の意識は2017年のそれほど嫌悪に充ちたものではなかった。

 (国交正常化とは、北朝鮮にとっては、うまく行けば巨額謝罪賠償、最低でも友好協力金。日本に巨額の支援をさせる最大のイベント)

 

 小渕恵三北朝鮮との国交正常化の首相となることを目指して、北朝鮮との交渉なれしている野中広務を幹事長代理に起用。

 野中広務は、NHK出身の社会主義者の上田哲を仲介役にして、北朝鮮に親書を送った上で、村山元首相を北朝鮮に訪朝させて、「経済支援するから、国交正常化の首相交渉しよう」と打診。

 つまり、1998年から2000年にかけて日本国民の意識は、おおむね北朝鮮との国交正常化は喜ばしいことというイメージであ受け取られており、日本人には、国交正常化にともなう、「謝罪・賠償」は絶対受け入れられないという警戒感はないという正常な感覚ののない痴呆国民になっていたといえよう。

 

 2000年10月、拉致問題による北朝鮮コメ支援反対を押し切って、コメ支援決定。外相は河野洋平。コメ支援の理由は「南北首脳会談の融和志向」を後押しするというもので、2000年6月に金大中は財閥の現代グループを通じて、独裁政権の経済破綻に対して5億ドルを秘密援助。

 

 こうして、日本政府と韓国政府は北朝鮮に巨額の支援をして、独裁体制の立て直しに貢献していた。

 韓国最大の財閥グループ現代財閥の後継者だった現代グループは、2003年半ばまでに北朝鮮に対して5億ドルを上回る投資を行った。その上に南北首脳会談の直前、現代グループは銀行から不透明な巨額融資を受けた上に、総額5億ドルもの秘密支援を北朝鮮側に行っており、現代グループは約5年間に10億ドル以上の資金を北朝鮮につぎ込んだ

2003年2月には5億ドルの対北朝鮮秘密支援金大中大統領の南北首脳会談実現の袖の下として渡したことが明らかになり、特別検事による捜査が行われることになった。左翼大統領の盧武鉉が、妨害して、特別検事の捜査は途中で中断するが、秘密送金の当事者である鄭夢憲への検察の事情聴取は続き、そのような中の2003年8月4日、飛び降り自殺した。

 ところで、自民党の幹部国会議員自身が北朝鮮との国交回復が手柄であり、謝罪賠償しても、国民は反発するどころか、むしろ、大歓迎で支持率があがると信じた理由はなんだろうか。

 それが、一般国民が北朝鮮についての悪印象持っていない。北朝鮮の悪い部分を国民が知らなかったことの結果であり、 そのように、計らったのが、日本のテレビ局全体の報道方針だったからである。

 なぜか。

 1.朝鮮総連が、激しくFAXで抗議する。平穏に仕事を終えたい報道担当者は北朝鮮の暗部を放送できない。

 2.朝鮮総連および朝鮮労働党と友党関係にある社会党の党員がメディアの労働組合の幹部でもあり、労働組合幹部出身の報道会社の経営陣も少なくない。

 小渕首相の突然の病死を受けた後継首相森嘉朗もまた、北朝鮮との国交正常化、友好化は、国民の支持を得られると思い込んでいた。

 こうした北朝鮮イメージの醸成は、どのように行われていたのだろうか。

 1.毎年繰り返される「関東大震災朝鮮人大虐殺6千人」朝鮮人被害者イメージの定着化である。

 2.拉致問題などをマスコミに取り上げさせない努力

 ※元国鉄労働組合幹部で、マルクス主義書籍の出版物を扱うウニタ書房の社長の遠藤忠夫は、北朝鮮が日本政府に経済支援の要請をする場合の仲介役をしていたが、1991年に有本恵子さんの北朝鮮からの手紙を入手した有本さんの父親が記者会見しようとすると、親北朝鮮系のテレビ局員が遠藤忠夫と相談して有本さんの父親を遠藤忠夫に会わせて、「有本恵子さんに危害がおよばないように、黙っているほうがいい」と説得。

 このようにして、テレビ局の共産主義者と共謀して、日本国民に北朝鮮の悪いイメージが浸透しないように、努めている日本人の勢力が存在していた。

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