石川啄木 東海の小島の磯の白砂に

石川啄木 東海の小島

 

  • 愛知県知多半島近辺にある小さい島に啄木が行った

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    時のものという説

  • 函館の大森浜が「磯」という説

では小島とは函館のことなのだろうか。しかし函館は島ではない。

太平洋に浮かぶ小さなこの日本という島の函館大森浜の磯ということだろうという解釈もある。(北海道のことかもしれない)

※太平洋ではなく、シナ・ロシアのある大陸の東の海と解釈する人もある。まるちゃんという啄木研究ブログ

しかし、これはなぜ啄木が大陸から見た北海道という視点を持つのか、不可解

  • 白い砂浜に続く磯を島と見立てたという解釈もある。これだと、小さな島にいるような気分だというわけで、ありうる状況だ。

  • 大森浜から津軽海峡を隔てて見える内地の山影を『小島』と見立てたか、という推論を上記と同じ解釈をした人物が立てているから、正しい解釈は非常に困難であるのはたしかだ。

私の解釈では、太平洋の小島に立っているような錯覚を大森浜に立って感じながら、歌ったということだろうということになる。

  • 磯とは、正しくは岩の多い形状の海岸なので、大森浜ではなく、立待岬ではないかと無名の啄木研究ブログの筆者

※ただし、啄木は磯ということばの正確な意味を知らなかったという説も有力。

  • 尻沢辺の磯の岩蟹は、立待岬に「啄木一族の墓」を建立した宮崎郁雨が現実的背景として言及。宮崎郁雨は、蟹は啄木の心の暗喩だと。

  • <評釈その2>世界の東の海上に位置する20世紀初頭の日本、天皇制国家の強権のもとに苦しむ日本の<東海の小島の>、東京のとある片隅で<磯の白砂に>、「時代閉塞の現状」と闘おうとするのだが「敵」は強大で手立てを見出せぬまま、ぼくは「意に満たない生活をして」おり<われ泣きぬれて>、そのような生活に耐えねばならぬ「不幸な日」「有耶無耶に暮らした日」にはかけがえのないいのちの刹那の記録として、自己愛惜の表現として、短歌を作るのだ<蟹とたはむる>。(「 」内は啄木自身の言葉)

というばかげた解釈もある。近藤典彦という人物

※近藤典彦は「マルクスの生産概念」 同時代社 1984という著作のある共産主義者

啄木学会会長

  • 青森県大間町大間崎にある石川木歌碑にこの歌が彫られており、この歌の原風景は大間崎で、東海の小島は、沖の灯台の島「弁天島」であると説明されている。この説の場合は、弁天島にいるという見立てになっている。

  • 弁天島が東海(太平洋の小島)というのは、かなり散文的に意味を追うとつじつまは合っている。

 

地図で見ると、大間崎は日本海には面しておらず、取りようによっては、太平洋をイメージする場所に位置する。函館もまあ、そんな感じで広い海は日本海につながるというより、太平洋を見ているという感覚だろう。

  • 佐伯裕子は、啄木研究家の岩城之徳の「東海君子国の東海で、日本を指す」を鵜呑みにしている

 「東方君子の邦」トンバンクンジャという言い方はあるが、「東海君子の国」トンヘ・クンジャ・イルボンなんて言葉はない。

 東海君子の国というのは岩城之徳の妄想だろう。日本は君子がいない。武士である。

東方君子の国なら、東とは、シナの東で、朝鮮人自画自賛したのである。

あったら、朝鮮と日本はおたがいに、尊敬しあっていたことになる。

  • 日本は武士の国で、君子の国ではない。

  • ウェノム倭奴といい、満洲地方の人々もまた、儒教の冠婚葬祭をしないから、オランケとバカにしていたのが、史実。しかも、朝鮮の人々は、江戸、大阪の豊かな暮らしを知らないまま、思い込みで禽獣と侮蔑していた。

 

  • 韓国人は、太平洋を東海と言って、日本は東海に浮かんでいると認識していたわけではない。東海に浮かんでいるのではなく、日本と朝鮮の間の海が、韓国人にとっての東海なのだ。

金田一京助は、なぜ、北海道の函館にいる啄木が、「北海の」と言わずに、「東海」のと書いたのか?その理由は、東海の小島とは、東海の日本の事で、朝鮮から見た、日本の事だと推測する。「朝鮮から見れば、東海の向こうが日本」

  

・・・そういう意味で、啄木は自分を朝鮮人の立場にたって、「東海の」と言ったのだと金田一京助は言う。

この解釈は非常に無理がある。

啄木が朝鮮人の立場に立たねばならない理由がない。

1910年が「併合」で、歌の書かれた年がそれ以前というのもあるが、そこまで思い入れするほどの理由がない。だいいち、それが本当なら、啄木は朝鮮のことを思って泣き濡れていた変人になる。 

啄木が歌集「一握の砂」を出版したのは、明治43年1910年12月。

ロシア革命は1917年であるから、「一握の砂」の所収の歌は、ロシア革命よりも8年以上前に歌われた。

 その頃、マルクスエンゲルスの著作は日本で出版されていない。

 啄木に明確に政治イデオロギーが歌を書いた時点であったと考えるのは無理がある。

 大逆事件は、1910年6月3日。啄木の「時代閉塞の現状」はその後の8月下旬に執筆された。

 「一握の砂」所収の歌を執筆時点で、石川啄木が確乎たる反天皇制思想を抱いていたとは考えられない。

 1908年頃の石川啄木与謝野鉄幹と非常に懇意の仲だったと思われ、与謝野鉄幹に連れられて、森鴎外宅に訪問している。

 与謝野鉄幹昭和7年に第一次上海事変に関わる爆弾三勇士の歌で毎日新聞に公募、入選しており、大学教授として育成した学生の後に大成した人物は、水上滝太郎佐藤春夫堀口大学三木露風、小島政次郎らで、共産主義者はまったくいない。

 

 創価学会池田大作は、この石川啄木の「東海の小島」を「韓国語のトンへの向こうの小島、日本」という意味で使っている。

 

金田一京助は、「北海の」となぜ言わなかったのか、と書いている。当たり前である。

  

 北海道にいて、太平洋を見ているからだ。青森にいて、北海道方面を見ているなら、北海の、だろう。仮に大間だとしても、見ているのはオホーツクではなく、太平洋だ。 

 啄木は日露戦争の敗軍の将マカロフの死を悼んで、

 「君をおもえば、身はこれ敵国の  

 東海遠き日本の一詩人・・・」と書いている。  

 から、ほらやっぱり、日本は東海だ、と佐伯裕子は早合点する。

   マカロフよ、君のことをおもっているこの僕は、君が死んだ満洲の地から見れば、東の海の方向の日本にいるんだよ、という意味である。これが佐伯裕子にはわからないらしくて、「東海すなわち日本」と解釈している。アホか。 

 つまり、啄木は、この場合は、東海を固有名詞ではなく、「東のほうの海」と言う意味で使っているからこそ、満洲から見た日本は「東海遠き日本」だったのである。

 マカロフを詠んだ時の「東海」と「東海の小島の磯の」の「東海」は、文脈上、違う用法で、固定した内容を持つ「東海」ではないことになる。

ちなみに、

見よ 東海の 空明けて
(みよ とうかいの そらあけて)
旭日高く 輝けば

は、太平洋方面から朝日がのぼる、という意味である。

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