日本の戦争とはなんだったのか
昭和12年7月7日 シナ事変
対米英開戦決意は、ドイツがソ連共産主義を危機に陥れた後である。
その後、日本は蒋介石が米英に支援されていることを知りながら、あえて蒋介石をつぶしにかかる。つまり、蒋介石政権との交戦が長期化すればするほど、英米との対立が深刻化することを知りながら、蒋介石政権との対決を深刻化させて行った。
※産経新聞「正論」元編集長上島嘉朗は「中国大陸の不拡大方針を軍部が無視して戦線拡大に走った」と別冊正論「大東亜戦争―日本の主張」に書くが、事実誤認である。
この時、シナ方面への強硬策を説いたのは、メディアであり、近衛文麿と書記官長風見章は、軍部の中の戦線拡大派と反ソ派の対立のうち、戦線拡大派を支援した。
また、上島嘉朗は、答案のわかっている現代から、「父祖たちを裁いてはならない」と言うが、そうではない。「父祖たち」ではなく、当時の「政府要人」「メディア」「政府諮問機関知識人」が裁かれねばならないのである。加害者は彼らであり、父祖たちは、被害者でしかない。被害者でありつつも、個々の兵士はアジアの解放のために尽くした兵士もいれば、ただ日本政府のいわれるままに戦地に行って、飢えたり、流れ弾にあたって死んだり、病死をしいられたのである。(上島嘉朗は「父祖たち」を強調する。だが、多くの日本国民は当時、戦争をなぜするのか、わからず、ただ始まったし、招集されたから、義務を果たしたに過ぎない場合はおおかたである。そこに開戦責任も指揮責任(敗戦責任)もあるはずがない。)
東條内閣
ソビエトのスパイ、ハリー・ホワイト財務次官がハル・ノート作成
東條内閣はハル・ノートを日本国民に公開しなかった。
また、米国も米国国民にハル・ノートを公開していなかった。
これだけでも、日米両国民に開戦責任はないと言っていい。
当時の戦争責任は次のような者たちにある。
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スム―ト議員、ホーレー議員の保護主義政策とこれを議会通過させた米議会。
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米国政権内部にスパイを送り込んだソ連の重大な干渉。
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満州にテロリストを送り込んだソ連
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満州を新興中華民国の領土と規定した孫文、蒋介石の倨傲。
※これに比べれば一応主権を「満州国」のものとした日本軍は国際法に則った行動をしていた。
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「帝国主義戦争」という奇怪な発想を考え出したレーニン
※帝国主義国同士を戦わせて、疲弊した国から革命を起こさせるというもので、まったく反戦でもなんでもない。
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日本が満州について米国資本を受け容れなかったという失策に続いて、米国の対日感情が悪化。1913年、日本人に土地の所有権を認めないという「特定民族」を差別する法案を通した米国カリフォルニア州)の失策が重なる。
当時米国建国の既得権層のWASPは、(クリスチャンによる)反ユダヤ、異文化である日本への嫌悪(欧州系移民と日系移民が競合して対立)、反黒人などの感情とWASPにとって暮らしやすい社会を構築するために試行錯誤を重ねていた。
つまり、野蛮な侵略国日本を理性と善意・民主の米国が裁いたというわけではなく、米国自身が黒人差別、ユダヤ人差別・黄色人差別を抱え、同時にソ連は米国政府に共産主義スパイを送り込む状態だった。
そして日本もまた、新聞記者たちは、ソ連共産主義を擁護し、シナ膺懲を国民、軍、政府要人に吹き込み、東大・京大の教授たちは盛んにマルクス主義を翻訳出版して、ソ連を肯定的にみる青年を援けた。そのため、日本人は、ドイツがソ連に攻め込んだ時、ソ連を倒して満州から北部方面を制圧すして、米英と協調するという発想をもたなかった。
7.GHQの言論統制は、これを褒めることはないにしても、非難することはできないのは、その時代、日本もまた、言論統制を行っており、かならずや日本が勝利した場合も言論統制したに違いないことが容易に予想できるのは、日本海軍が大いにウソの大本営発表をやっていたからである。そして、ドイツはもちろん、ソ連も国民に情報統制と洗脳教育を行っていたし、米国よりもはるかにひどい言論統制だった。
当時米国は、米国国民自身にも、米国の正義を宣伝これ務めたと同時に日本軍国主義の悪を宣伝したが、これは米国の言論の自由原則から、たちまちのうちにほころびる宣伝であった。
もし、GHQが米国主導のものではなく、ソ連、中国主導のものであったなら、日本の自虐思想はもっとひどいものであったろう。
8.近衛文麿とそのブレーンの親ソ共産主義者の考え出した反英米思想に発する「大東亜新秩序の建設」は松岡洋祐によって「大東亜共栄圏の確立」という表現に練られて、これは日本人の多くに英米という巨大な国を敵とする事への躊躇を麻痺させる機能を果たした魔語であることは確かであろう。
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チャーチルは国境をはさんで欧州諸国がありながら、ソ連共産主義に対して強い警戒感を持っており、ドイツが崩壊するやすぐさまソ連の危険性を米国の知識人に喚起したが、日本の首相経験者にはチャーチルほどのソ連警戒感はまったくなかった。
※もっともルーズベルトをはじめ、当時の米国人もすっかりソ連について甘い見方をしていたわけで、それには、ニューヨークタイムスの親社会主義派の記者がソ連の悪い話を記事にしなかったということもある。
が、大戦後、蒋介石政権を支援するつもりだった米国は、ソ連が毛沢東を支援して、共産革命を起こそうとしていることに気づいて、もし全世界の共産化が進めば、米国国内の共産党が米国国民の支持を受けるなどという悪夢の始まりになる、とあわててソ連を仮想敵国とみなし、半島と日本をアジア地域における反共の拠点と考えるようになる。
この米国の政策転換は、日本の企業の自由な活動にパワーを与えることになって、日本国民は繁栄を享受するきっかけを得ることになった。
10.そして、チャーチルもまた、過ちを犯していたが、それは大西洋憲章で「領土不拡大・通商・資源の均等解放」「民族自決」と理想的理念を掲げながら、実際には、英国議会において、大英帝国とフランスのすでに持っている植民地は例外と答弁していたのだから、この時点で人類は、「パリ不戦条約」において進歩したが、日本は世界の趨勢に反して武力に訴えた罪があるなどとは言えないし、ましてや第二次大戦後、領土紛争に関連してフランス、英国は戦争をし、ソ連はハンガリーに侵攻しているのだから、パリ不戦条約は日本を戦後日本の知識人(猪木正道や加藤陽子)が非難する理由にはなりえない。
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ソ連は「ソ連国家の拡張主義を糊塗して、世界中の国をソ連傘下に治めることをもくろんで、善意の共産主義者を使って世界各国に共産党を設立させた。それはちょうどポルトガル、スペインの宣教師が世界中に宣教師を送り込んで世界支配を目論んだと同じ事である。この点で、ソ連が日本の「侵略性」を非難する資格はソ連にはない。
このソ連のコミンテルン戦術は、日本共産党という形ではなく、別な形で結実する。それは、日本共産党が存在するゆえに希望を持ちえた河上肇が日本共産党に寄付をしつつ、マルクスの翻訳に取り組み、これが近衛文麿や三木清をはじめ、陸軍、海軍、新聞記者たちにマルクス主義が浸透していくきっかけを作って、いかに治安維持法が日本共産党を摘発しても、非共産党の日本知識人はマルクス主義に強く深く感染して、ソ連を愛すべき人類の未来につながる国、英米フランスは、反道徳の国という観念が固まってしまい、そういう米国財閥の宋一族そのものである蒋介石もまた、もうけ主義の亡者としか見えなくなったのは当然である。
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中国共産党もまた、共産党一党独裁体制を確立し、その後維持するために行った政策は、3千万人とも4千万人とも言われる餓死者と無実の獄中死をもたらした点で、日本批判は現在の中国共産党の卑劣な過去と現在の少数民族支配を隠蔽する道具でしかないのは明白だ。