日本終戦史録

1944年7月 サイパン陥落 東條英機総辞職

小磯国昭内閣

「聖戦完遂」「制空権を奪われる」

1944年7月ホノルル司令部

ルーズベルトマッカーサー将軍・ニミッツ提督

 

フィィリピンを奪回せよとマッカーサールーズベルトに3時間説得。

 

10月10日 ニミッツマッカーサーの沖縄周辺諸島攻略開始。

 

1945年2月6日 マッカ―サー、ほぼマニラを奪還

2月19日、ニミッツ、タラワ・硫黄島。などで激戦。

日本軍になかった火炎放射器。戦車の脆弱性

 

同じころ、2月、ヤルタ会談ルーズベルトチャーチルスターリン

当時、英国チャーチル共産主義国を嫌悪していたが、すでに英国の国力は衰退して、当面の敵、ドイツを破壊するまでは、ソ連・米国の意向を重視せざるをえない立場だった。

 ヤルタ会談はドイツ・バルト三国ポーランドにおけるソ連の意向をルーズベルトが受け入れ、チャートルがしびしぶ同町する形でおこなれた。

 また、蒋介石ソ連のアジアへの権益が強化されれば、中国共産党、その他アジアのあらゆる共産主義勢力に力を与えるので、、反対したが、ソ連に好感を持っていたルーズベルトスターリンに、南樺太の返還、千島の返還を認めるから、対日参戦せよ。と要請した。

 

 ほぼ同時期に近衛文麿が上奏した「近衛上奏文」は非常に意図測りがたく、不可解な内容で、またこの上奏文に対して「もう一度戦果をあげてからでないと中々話は難しい」と天皇が言ったと侍従長が書き残しているのも、にわかに信じたがたいほど意図が見えにくい。戦果があがれば、降伏のきっかけはさらにむずかしくなろう。」

 天皇の個人的戦争意欲を強調しようとしたねつ造が疑われる言葉である。

 仮に本当に天皇が言ったとして、「戦果があったから、もうこのへんでやめよう」などということがあろうとは考えられない。

 

 10月11日、大和沖航空戦

3月9日、10日東京大空襲 12日・19日・5月14日名古屋大規模空襲 大阪3月13日大空襲

 

B29爆撃は当初シナの成都から出撃して八幡製鉄所を目標にしていたが、マリアナ諸島を区略して航空基地を建設し、ここから1944年10月10日沖縄、11月29日東京空爆訓練 1945年1月20日、ルメイ少将就任。空爆技術、飛躍的に向上。

3月9日、10日東京大空襲

大阪・神戸・名古屋含め、全国200都市に空爆

3月17日、硫黄島陥落。

3月26日 沖縄諸島慶良間島上陸

ハーグ陸戦法規による占領

4月5日 小磯内閣 蒋介石との和平工作に失敗。

     ソ連が日本に対し、日ソ中立条約を延長しないと通告

     小磯内閣総辞職。

4月7日から硫黄島の戦闘機がB29を護衛しつつ空爆

4月8日 米国統合参謀本部は九州上陸を計画。

※日本は(超大国米国と交戦するには、統合参謀本部にあたるものがないという重大な欠陥を抱えていた。陸軍海軍を統御する参謀本部は存在せず、連絡会議あるいは指導会議のみだった。これは、対アジア・ロシアには通用しても、圧倒的戦力の米国には大きな欠陥であった。

また、これでは、ファシズムにならない。)

4月12日 ルーズベルト急死

ルーズベルトは原爆について副大統領と情報を共有しないという大きな失策を犯す側面がった。また、ハルノートについて議会に公開しておらず、終戦後、ソ連と敵対し始めた共和党に激しく糾弾されることになった。

 ルーズベルトの対ソ連融和政策はその後のソ連の世界覇権に有利な条件を作り出したので、米国共和党政権はルーズベルトを暗愚の大統領と糾弾し続けた。

一方、米国のリベラル勢力はルーズベルトソ連を擁護し続け、日本の再軍備に強い警戒感を持ち続けて今日にいいたる。

5月7日 ドイツ、無条件降伏

 ドイツの降伏を確認後、日本はヒトラーとその配下ナチス党に相当するファシズム政党は存在していないため、徹底抗戦派と終戦派が激しく対立して迷走したが、戦後、東大の共産党シンパの学派は、「天皇ファシズム」と見当違いの歴史認識を強調し続けた。

5月31日 台北大空襲。 米軍は沖縄県首里市を占領。

6月13日(6日に敗北を覚悟) 沖縄海軍部隊司令官自決

6月23日 沖縄守備軍司令官と参謀長が司令部で自決。

沖縄の民間人の85%の22万2千人は米軍がキャンプと呼ぶ収容施設に収容されて、軍政下におかれた。

※ 5月5日のドイツ降伏から6月8日の御前会議の間、日本の指導層は、

  • ソ連に好条件で日本の領土を差し出して、日ソ共同で米国に交戦を挑むという親ソ連派」(最終的には社会主義陣営に入って、貧困農民を救い農本主義反資本主義体制をソ連との協調で作り、天皇処刑も辞さないという思惑)
  • 「米国との和平を、あらゆる手(特に現時点で戦争当事者でないソ連の仲介)をつかって早急に講じるべし」
  • ソ連派ではないが、国体護持と(英米植民地体制の理不尽への反感)日本人の意地で本土決戦を行うという三者が交錯して、統一が不能なまま非ファシズム状況下、時が流れていった。

7月17日 ポツダム会談

 スターリンは日ソ中立条約を破って参戦する事をするため、英米に再確認した。

懐疑の最中にトルーマンは原爆の実戦配備準備が完了した旨報告を受けて、戦後のソ連の勢力を抑え込む方途を原爆の存在を前提に模索し始める。

 トルーマンは自身も実際には、原爆の実戦結果を見ていないが、途方もない威力というイメージを持ち、スターリンに米国が「かつてない威力の兵器を所有したことを伝えて、暗にスターリンを牽制した。スターリンはすでに米国政権中枢にスパイを入れて原爆を米国が所有したことは知っていたと思われる。

 スターリンは、米国が民衆の選挙によって維持するという重大な弱点を持つことから、一度日本に対して原爆を使用すれば、米国の有権者は、原爆の再使用(対ソ連)をそう簡単には容認しないだろうと予測して、原爆を恐れる事はないと判断したと推測される)

 その後、米国は朝鮮戦争・中国内戦・欧州のソ連介入に対して、原爆再使用が米国国民から容認されることはなく、再使用は政権ダメージが強いと懸念して、共産主義との冷戦に神経をすり減らすことになる。

 米国は原爆を共産国に再使用することを躊躇したまま、共産国の原爆の大量保有が確立されていった。

 この時点でポツダム宣言を起草した米国の対日分析当局者は、日本が「ミリタリズム(先軍政治であると誤認していた)

 ※のちにマッカーサー朝鮮戦争を経験するまでの月日を通して、日本は先軍政治の軍人が強引に侵略を進めたという分析は錯誤であって、ソ連共産主義の脅威ゆえにシナ大陸に進駐していたこと、侵略と断じて日本との貿易を断ったことは、日本の死活問題であったと考え、上院に対日認識の修正を提言する。

 しかし、この時点で米国は米軍将兵多数の犠牲を払った対日戦争の正当性を再考する余裕を到底持ちえなかった。

 

※京都に原爆投下しなかったのは、軍事基地が少なすぎるというのが理由というのが、通説となっている。

空襲は全国200以上の市に対して行われ、空襲の恐怖を体験した人は全国各地にいることになるが、正確には例えば青森県でいえば5市周辺住民、秋田でいえば2市周辺住民以外の市町村の人々は一切空爆の恐怖を知らなかったともいえる。

 

 2011年に日本経済新聞社が調査したところによると、1944年10月10日から1945年8月15日まで続いた都市空爆の犠牲者は、死者約33万人。負傷者数43万人と推定されている。

 

 1945年2月13日から15日にかけて行われたドレスデン空爆は、ドレスデン市民が、最低2万5千人、最高で15万人が死亡した。ベルリン、ライプツィヒドレスデンへの都市爆撃は、少なくとも戦争作戦司令部の意図としては、「早期決着(自軍の将兵の生命・資源消費を抑える)を目標として企図された。」

 8月14日午前会議

 8月14日夜、ソ連は米国に対して北海道の北半分占領の意思を表明。トルーマン政権はこれがヤルタ密約にさえも無いことから、拒絶。

 8月15日終戦詔勅

 鈴木貫太郎内閣総辞職

 8月16日 東久邇宮(くにのみや)内閣

 この時点で吉田茂は、米国資本の招致と科学振興を日本人なら活かせると、希望を見出していた。

 石橋湛山は「米英とともに日本の逆悪と戦っていた」と日記に記した。

そこに、共産主義に併吞されるとか、共産主義との内戦がありうるという懸念は毛ほどもなかった。

 また、片山哲は「社会主義政党を結成しよう」と、早くも米英がソ連スターリンと協調していたという構図が続くものと認識したうえで、社会主義が世の趨勢だと楽観的に考えていた。(西尾末広ら、後の社会党政治家たちも似たような認識だった)

 

 8月28日 米軍先遣隊到着。この時点で米軍はフィリピン、沖縄を6月23日以来軍政下において陸軍は、事実上、交戦を停止していた。そのうえで、8月6日航空軍司令部、広島に原爆投下。8月9日、長崎に原爆投下。

 8月29日、マッカーサーは次の点で思い違いをしていた。

 米国の労働組合ソ連と通じてはおらず利益団体であったが、日本の労働組合コミンテルン共産党、非コミンテルンマルクスレーニン主義者が指導する以外に労働組合を指導できる人材は日本に不在だったが、この矛盾をマッカーサーは楽観視した。

 日本の労働組合は、マルクス・レーニン主義の活動拠点となった。

 警察による弾圧廃止政策は、在日朝鮮人の暴力を擁護する結果になり、戦後に長い負の遺産を残した。また、日本の警察にFBIのような国家的規模に犯罪に対処する操作能力を持たせる機会失わせる元になり、日本に左翼勢力、韓国の左翼勢力が跋扈して、北朝鮮の勢力温存につながり、最終的に北朝鮮の核の脅威となって、米国の安全保障の脅威が生じてきた。日本の過度な弱体化が、後に米国自身の安全保障上のリスクとして米国に跳ね返ってきた。

 マッカーサーミズーリ号における日本の降伏文書の調印式で述べた言葉には、米国の平均的な認識が、ソ連共産主義についてこの時点でまったく無警戒だったことを証明している。

「相異なるイデオロギーを主題とする戦争は世界の戦場で解決され、もはや論争の対象とならなくなった・」この時、マッカーサーが相異なる理論と言って、何を指していたのか、不明である。可能性としては、日本は領土拡張主義で、英米フランスの植民地支配は長い年月をかけて解消されていくから、非民主国による現状変更は不可、というのが、マッカーサーなりの思い込みだったのかもしれない。

 マッカーサーや平均的米国人の誤算は、日本を抑え込んでも、ソ連後進国各国に援助を与えて、武力による現状変更を迫ってくる未来が来ることに気づかなかったこと、

 そして、それは民族自立という正義を立てた、その実ソ連および各国の共産主義者の権力奪取の野望でもあったことだった。

 マッカーサーは、日本の軍人指導層の地位を奪えば、世界の紛争は終わると思い込んでいた。この思い込みは、朝鮮戦争によって、過ちだったことに気づかされる。

 ソ連社会主義全体主義一党独裁政権は、戦後のソ連中心の共産主義国家拡張を目指して、モンゴル、満州・シナ大陸・東南アジア全域・欧州・のすべてを共産主義化する野望を抱いて、日本侵攻を決意。最低でも、朝鮮北部、北海道、樺太・千島列島にソ連の基地おくため、急遽侵攻を開始した。

 

 ソ連ヤルタ協定の日本に関するルーズベルトとの密約、およびポツダム会議におけるこの密約内容の再確認をしたことを正当化の根拠にして、「連合国に味方した」とソ連国民に説明。(チャーチルはこの密約が米国国民に知らされないままソ連の対日参戦に口実を与えたことから、協定に加わった事を恥じた。が、いずれにしてもそれは、ルースベルトの不祥事であり、当時の英米の国力差からして、ルーズベルトを強引に叱責できる者などだれもできなかった、という意味のことを言っている。)

 ソ連ヤルタ協定で、ルーズベルトに「ソ連が参戦して米国の将兵の損失を抑えてあげるから、その代わり、千島列島をソ連に「引き渡せ」と要求。だが、スターリンは、8月9日時点で、米国がもはや戦争疲れしていること、さらにソ連との戦争に転じる覚悟はないとにらんで、一気に北海道占領を企図していた。

 北海道占領を命を賭して阻止したのが、8月18日から21日の占守島の戦い(しゅむしゅとう)の戦い。この戦闘はソ連軍の北海道侵攻を躊躇させるに足るものだったが、日本将兵は21日に降伏、シベリア強制労働に向けて連行された。

 ソ連は日本軍がすでに戦闘行動停止命令を発した16日から9月1日までの間、「連合国降伏文書調印の前日」まで、ソ連の権益を図るために日本居留民を殺戮し、日本将兵シベリアにむけて連行し続けた。

 

欧州戦線に戻る。

1939年9月1日、ヒトラーは、ポーランドからダンツィヒまでのポーランド回廊を奪還して、ポーランド回廊に住むドイツ人の利益を高揚させる行動に出る。ヒトラーの望みはソ連征服だったが、その前にソ連をだまして独ソ不可侵条約を結んだ上で、ポーランドに侵攻した。

 8月23日不可侵条約→9月1日、ポーランド侵攻

 2日後、英国、フランスがドイツに宣戦布告。なぜ英国が宣戦布告したかと言えば、ドイツがベルサイユ体制を破棄したからであって、ドイツの侵略が英国・フランスに向かうと考えたからではない。

 さもなければ、英国、フランスはドイツがヒトラーが結局はソ連を倒し、そのあと、英国・フランスに向かうはずだから、独ソ共同で英国・フランスに向かってくる事態よりも前にドイツを抑え込もうとして、まずフランスが返り討ちにされて、恐怖にまみれた英国が米国の親英派に頼ったということが考えられる。

 米国国民の中で、特段、親英派でもない国民、その意を受けた議員たちは欧州戦線不介入の立場を持っていた。

 

 与党民主党もまた、欧州戦線へ米国が参戦して米国国民の息子たちを戦線に送ることに反対だった。1940年9月の段階で米国第一主義員会が、独ソ戦を模様眺めして、米国は非介入であるべきという見解が多数派だった。

 

 米国の取るべき選択肢は次のようなものだった。

 ソ連とドイツを戦わせるだけ戦わせて、二つの全体主義一党独裁(なおかつ権力分立の仕組みのない危険な国家)を共倒れさせる。あるいはできるだけ疲弊させる。

 もうひとつは、ドイツ一国を英米フランスソ連の共通の敵と規定して、米国も参戦し、ドイツを降伏させ、ベルサイユ体制に引き戻す。

 後者であれば、当然、ソ連の戦後権益の要求を呑むオプションも加わることになる。

 当時、米国の多数派は、ドイツにもソ連にも無関心で、ドイツもソ連も悪魔だと考えていたわけではなかったという理由で孤立を支持していたのだが、米国内には、ソ連社会主義を強烈に支持する進歩主義勢力も確実に存在した。

 彼らにとってドイツがソ連に向かって英国の安全保障が安定すればそれでいいというわけにはいかず、ソ連社会主義の希望として守る必要があった。

 

 こうした進歩的考えを持っていた米国少数派知識人の一人にルーズベルトも含まれていた。それは決して民主党政権の多数派ではなかった。

 この親ソ連進歩主義知識人たちは、米国の「多党制・私有財産の積極肯定・普通選挙制・権力分立制」の諸原則に鈍感で、貧困労働者の救済には敏感であったといえるだろう。

 

 ルーズベルト政権の進歩主義者(親ソ社会主義シンパ)たちは、米国の労働組合を擁護すると同時にソ連社会主義(インターナショナル)との友好を積極的に肯定していた。

 ドイツナチズムは、インターナショナルな労働組合を否定して、民族資本主義に立つという意味で相容れない勢力だったのである。この時点でユダヤホロコーストへの対抗意識があるわけではない。

 

 特段米国進歩派が慧眼を持ってナチズムの凶悪性に気づいていち早く対抗姿勢に出たというにしては、彼らは共産主義の凶悪性についてまったく無防備だった。

 倒した後で明らかになったナチズムの凶悪性は、米国国民の自負心と戦争の意義を自覚させたが、米国はナチズム掃討の過程でソ連を強大化させる条件を与えてしまったことに後に気づく。

 

 米国の指導層は常軌を逸するほどの愚者ではない。彼らは日本が先に米国に対して攻撃するように、まず、蒋介石を強力に支援。日本は植民地解放理念と国内の反資本主義的理念の台頭から、毛沢東よりも、より英米と結託する蒋介石を憎悪する勢力が勝っていた。

 その勢力のひとつが、朝日新聞記者たちであり、近衛文麿の側近、風見章である。

 近衛文麿自身が確信的共産主義者で敗戦革命を狙っていたのか、それとも、共産主義シンパ性と対米戦争という無理筋を回避しようとする迷いの中で右往左往していたのか、確定できる証拠はいまだにない。

 確固たる愛国者ではなく、侵略思想の持主でもなかったことは確かだろう。

 英米に対する反感を持ち、あとは、英米にぶつかって疲弊した後にソ連と組んで社会主義化したかったか、さもなければ、英米に対する反感を持ちつつも米国との戦争の無謀にすくんでいた、かといって経済復興の策も皆目わからないという不安におびえていたかのどちらかなのである。

 ルーズベルト達米国の少数派は、間違いなくソ連と米国が労働者に優しい国家として協調しうると信じていた。つまり、米国・蒋介石ソ連の穏健な進歩主義勢力が国際社会の新時代の主役になると錯誤していた。

 ところが、実際には、ソ連蒋介石を認めず、毛沢東金日成を立てて資本主義そのものを大真面目に破壊してきた。

 このソ連共産主義が大真面目な世界共産主義の輸出という戦略を実行に移す意思も能力もあることに気づいたのは、ルーズベルトの死後であり、米国は1945年8月18日のソ連の千島侵攻あたりから、なにかおかしいと気づきはじめ、1950年6月15日の北朝鮮軍13万5千の南朝鮮への侵攻ではじめて対ソ連観が全く間違いであったことに気づく。

 なぜなら、朝鮮戦争にいたって、それをソ連北朝鮮・中国のなすがままにしておけば、とんでもない勢いで、アジア全域が共産化して、共産主義国だけの貿易体制が完成して、もう一度米国の経済は大恐慌に陥ることは目に見えているからだ。

 最低でも朝鮮の半分、日本、台湾、ベトナムを資本主義国家にしておかねばならない。

 世界の警察というのは、米国のやけくそのような表現であり、日本からすれば米国に対する褒め殺しだった。

 米国は日本の満州権益を認めてソ連のアジアへの影響力にふたをして置く役割を持たせておくことを怠って、日本を破壊したために、その後、アジアから東南アジアにかけてのすべての軍事負担を用意し、米国の青年の生命を朝鮮・ベトナムで失うはめになった。

 このあまりに大きな失策は直視するにはあまりに大きな失策だったから、米国は凶悪極まりないナチスを倒した、日本のミリタリズムを抑え込んで日本国民に民主主義を教えたと言い張るしかなかった。

 もちろん、米国国民は、日本に民主主義を教えたというには、あまりにも国内に人種差別が残存していたことを知っていたし、フィリピンを植民地にしていた過程で、フィリピン人20万人を、不本意にもゲリラ掃討の過程で犠牲にしたという過ちを犯していたことも自覚していたのである。

 

 こうしてお互いの過ちを言わず語らず、歩み寄っていく中、日本の左翼勢力は、ソ連全体主義勢力の凶悪性に触れず、アメリカの格差と過ちのみを日本国民に伝えようと情熱をこめて邁進してきた。

 

 トルーマン政権もまたスターリンの狡知に敗北したと言っていい。

 スターリンは米国の広島・長崎への原爆投下を知ってもひるまなかった。

 米国は民衆の選挙によって政権を維持しているから、ソ連が中国・欧州・朝鮮を共産化させても、原爆だけは使用できない。使用すればかならず、米国のジャーナリストが政府を批判し、政権は国民の支持を失う。政権を失う恐怖に米国の政権は耐えられない。

 したがって、米国は原爆を使わない戦争しかできない、それならば、ソ連は対抗できる。

 朝鮮・中国・ベトナムにやらせて、米国の青年をあわてさせればよい。

 

 日本もまた、多くの青年が、日本国内で共産主義の夢をみるだけ見て勝手に内ゲバを起こしてバタバタとして死んでいった。ソ連の手を煩わせず。

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