スペイン内戦からスターリンの対日戦争計画まで

ソ連ヤルタ協定の日本に関するルーズベルトとの密約、およびポツダム会議におけるこの密約内容の再確認をしたことを正当化の根拠にして、「連合国に味方した」とソ連国民に説明。(チャーチルはこの密約が米国国民に知らされないままソ連の対日参戦に口実を与えたことから、協定に加わった事を恥じた。が、いずれにしてもそれは、ルースベルトの不祥事であり、当時の英米の国力差からして、ルーズベルトを強引に叱責できる者などだれもできなかった、という意味のことを言っている。)

 ソ連ヤルタ協定で、ルーズベルトに「ソ連が参戦して米国の将兵の損失を抑えてあげるから、その代わり、千島列島をソ連に「引き渡せ」と要求。だが、スターリンは、8月9日時点で、米国がもはや戦争疲れしていること、さらにソ連との戦争に転じる覚悟はないとにらんで、一気に北海道占領を企図していた。

 北海道占領を命を賭して阻止したのが、8月18日から21日の占守島の戦い(しゅむしゅとう)の戦い。この戦闘はソ連軍の北海道侵攻を躊躇させるに足るものだったが、日本将兵は21日に降伏、シベリア強制労働に向けて連行された。

 ソ連は日本軍がすでに戦闘行動停止命令を発した16日から9月1日までの間、「連合国降伏文書調印の前日」まで、ソ連の権益を図るために日本居留民を殺戮し、日本将兵シベリアにむけて連行し続けた。

 

欧州戦線に戻る。

1939年9月1日、ヒトラーは、ポーランドからダンツィヒまでのポーランド回廊を奪還して、ポーランド回廊に住むドイツ人の利益を高揚させる行動に出る。ヒトラーの望みはソ連征服だったが、その前にソ連をだまして独ソ不可侵条約を結んだ上で、ポーランドに侵攻した。

 8月23日不可侵条約→9月1日、ポーランド侵攻

 2日後、英国、フランスがドイツに宣戦布告。なぜ英国が宣戦布告したかと言えば、ドイツがベルサイユ体制を破棄したからであって、ドイツの侵略が英国・フランスに向かうと考えたからではない。

 さもなければ、英国、フランスはドイツがヒトラーが結局はソ連を倒し、そのあと、英国・フランスに向かうはずだから、独ソ共同で英国・フランスに向かってくる事態よりも前にドイツを抑え込もうとして、まずフランスが返り討ちにされて、恐怖にまみれた英国が米国の親英派に頼ったということが考えられる。

 米国国民の中で、特段、親英派でもない国民、その意を受けた議員たちは欧州戦線不介入の立場を持っていた。

 

 与党民主党もまた、欧州戦線へ米国が参戦して米国国民の息子たちを戦線に送ることに反対だった。1940年9月の段階で米国第一主義員会が、独ソ戦を模様眺めして、米国は非介入であるべきという見解が多数派だった。

 

 米国の取るべき選択肢は次のようなものだった。

 ソ連とドイツを戦わせるだけ戦わせて、二つの全体主義一党独裁(なおかつ権力分立の仕組みのない危険な国家)を共倒れさせる。あるいはできるだけ疲弊させる。

 もうひとつは、ドイツ一国を英米フランスソ連の共通の敵と規定して、米国も参戦し、ドイツを降伏させ、ベルサイユ体制に引き戻す。

 後者であれば、当然、ソ連の戦後権益の要求を呑むオプションも加わることになる。

 当時、米国の多数派は、ドイツにもソ連にも無関心で、ドイツもソ連も悪魔だと考えていたわけではなかったという理由で孤立を支持していたのだが、米国内には、ソ連社会主義を強烈に支持する進歩主義勢力も確実に存在した。

 彼らにとってドイツがソ連に向かって英国の安全保障が安定すればそれでいいというわけにはいかず、ソ連社会主義の希望として守る必要があった。

 

 こうした進歩的考えを持っていた米国少数派知識人の一人にルーズベルトも含まれていた。それは決して民主党政権の多数派ではなかった。

 この親ソ連進歩主義知識人たちは、米国の「多党制・私有財産の積極肯定・普通選挙制・権力分立制」の諸原則に鈍感で、貧困労働者の救済には敏感であったといえるだろう。

 

 ルーズベルト政権の進歩主義者(親ソ社会主義シンパ)たちは、米国の労働組合を擁護すると同時にソ連社会主義(インターナショナル)との友好を積極的に肯定していた。

 ドイツナチズムは、インターナショナルな労働組合を否定して、民族資本主義に立つという意味で相容れない勢力だったのである。この時点でユダヤホロコーストへの対抗意識があるわけではない。

 

 特段米国進歩派が慧眼を持ってナチズムの凶悪性に気づいていち早く対抗姿勢に出たというにしては、彼らは共産主義の凶悪性についてまったく無防備だった。

 倒した後で明らかになったナチズムの凶悪性は、米国国民の自負心と戦争の意義を自覚させたが、米国はナチズム掃討の過程でソ連を強大化させる条件を与えてしまったことに後に気づく。

 

 米国の指導層は常軌を逸するほどの愚者ではない。彼らは日本が先に米国に対して攻撃するように、まず、蒋介石を強力に支援。日本は植民地解放理念と国内の反資本主義的理念の台頭から、毛沢東よりも、より英米と結託する蒋介石を憎悪する勢力が勝っていた。

 その勢力のひとつが、朝日新聞記者たちであり、近衛文麿の側近、風見章である。

 近衛文麿自身が確信的共産主義者で敗戦革命を狙っていたのか、それとも、共産主義シンパ性と対米戦争という無理筋を回避しようとする迷いの中で右往左往していたのか、確定できる証拠はいまだにない。

 確固たる愛国者ではなく、侵略思想の持主でもなかったことは確かだろう。

 英米に対する反感を持ち、あとは、英米にぶつかって疲弊した後にソ連と組んで社会主義化したかったか、さもなければ、英米に対する反感を持ちつつも米国との戦争の無謀にすくんでいた、かといって経済復興の策も皆目わからないという不安におびえていたかのどちらかなのである。

 ルーズベルト達米国の少数派は、間違いなくソ連と米国が労働者に優しい国家として協調しうると信じていた。つまり、米国・蒋介石ソ連の穏健な進歩主義勢力が国際社会の新時代の主役になると錯誤していた。

 ところが、実際には、ソ連蒋介石を認めず、毛沢東金日成を立てて資本主義そのものを大真面目に破壊してきた。

 このソ連共産主義が大真面目な世界共産主義の輸出という戦略を実行に移す意思も能力もあることに気づいたのは、ルーズベルトの死後であり、米国は1945年8月18日のソ連の千島侵攻あたりから、なにかおかしいと気づきはじめ、1950年6月15日の北朝鮮軍13万5千の南朝鮮への侵攻ではじめて対ソ連観が全く間違いであったことに気づく。

 なぜなら、朝鮮戦争にいたって、それをソ連北朝鮮・中国のなすがままにしておけば、とんでもない勢いで、アジア全域が共産化して、共産主義国だけの貿易体制が完成して、もう一度米国の経済は大恐慌に陥ることは目に見えているからだ。

 最低でも朝鮮の半分、日本、台湾、ベトナムを資本主義国家にしておかねばならない。

 世界の警察というのは、米国のやけくそのような表現であり、日本からすれば米国に対する褒め殺しだった。

 米国は日本の満州権益を認めてソ連のアジアへの影響力にふたをして置く役割を持たせておくことを怠って、日本を破壊したために、その後、アジアから東南アジアにかけてのすべての軍事負担を用意し、米国の青年の生命を朝鮮・ベトナムで失うはめになった。

 このあまりに大きな失策は直視するにはあまりに大きな失策だったから、米国は凶悪極まりないナチスを倒した、日本のミリタリズムを抑え込んで日本国民に民主主義を教えたと言い張るしかなかった。

 もちろん、米国国民は、日本に民主主義を教えたというには、あまりにも国内に人種差別が残存していたことを知っていたし、フィリピンを植民地にしていた過程で、フィリピン人20万人を、不本意にもゲリラ掃討の過程で犠牲にしたという過ちを犯していたことも自覚していたのである。

 

 こうしてお互いの過ちを言わず語らず、歩み寄っていく中、日本の左翼勢力は、ソ連全体主義勢力の凶悪性に触れず、アメリカの格差と過ちのみを日本国民に伝えようと情熱をこめて邁進してきた。

 

 トルーマン政権もまたスターリンの狡知に敗北したと言っていい。

 スターリンは米国の広島・長崎への原爆投下を知ってもひるまなかった。

 米国は民衆の選挙によって政権を維持しているから、ソ連が中国・欧州・朝鮮を共産化させても、原爆だけは使用できない。使用すればかならず、米国のジャーナリストが政府を批判し、政権は国民の支持を失う。政権を失う恐怖に米国の政権は耐えられない。

 したがって、米国は原爆を使わない戦争しかできない、それならば、ソ連は対抗できる。

 朝鮮・中国・ベトナムにやらせて、米国の青年をあわてさせればよい。

 

 日本もまた、多くの青年が、日本国内で共産主義の夢をみるだけ見て勝手に内ゲバを起こしてバタバタとして死んでいき、ソ連

 

 

1917年ロシア革命

1919年 共産主義インターナショナル設立。(別称 コミンテルン

      実際には、ロシア国家中心の新興帝国主義で、世界の後続共産主義国家を傘下に納めて、ロシア国家の利益を図るものだったが、多くの者は、共産主義の理念を真理であると錯覚した。巨大な新興カルト宗教=詐欺の始まりと言っていい。

1919年 アメリカ共産党(非米国国籍の東欧系ユダヤ人主体)党員6万人規模

      1920年アメリカ司法当局は共産党員を一斉検挙。

1921年 イタリア共産党設立

       コミンテルンはドイツ共産党に人事圧力介入

1922年 日本共産党設立

1923年 コミンテルンはドイツ共産党にドイツ革命を指導。

1924年 レーニン死去 49か国の共産主義者がモスクワに集結

      この動きに米国共和党が関心を向け始める。

1928年 アメリカ共産主義者同盟設立

1929年 大恐慌始まる。

1930年 アメリカ共和党ソビエト共産党のアメリカおよび世界各国に対する内乱指導の態様に危機感を抱いて、フィッシュ委員会を設立して米国におけるソ連共産党と国内の共産主義者の関係を調査。

      ロンドン海軍軍縮条約

      日本の企業倒産相次ぐ。

1931年 スペインでボルボン王朝崩壊王族が追放される。

      日本の関東軍、陸軍参謀本部に逆らって、満州事変を起こす。

1932年 経済恐慌の中、ルーズベルト大統領に就任。

      日本で、反米マルクス主義研究者でアナキスト大川周明、海軍将校らが、計画経済への国家改造を企図して、立憲政友会、首相らを襲撃。

1933年 ナチス政権によるドイツ共産党弾圧とソ連へのナチス侵攻予測に危機を抱いたアメリカの共産主義者たちが、アメリカ労働総同盟共産党員を大量加入しはじめる。

1933年1月 ヒトラー首相に就任。

1933年11月 ルーズベルトソ連を承認。

        ソ連のリトビノフがアメリカでアメリカだましの「アメリカの政治に関与しない」発言をして、その実、これを機にアメリカ政府職員のうち、1949年までに3千名以上のスパイを送り込む。

※1953年には、ソ連に共鳴する共産主義者は9千名に上り、履歴書不実記載などで辞職に追い込まれた。

アメリカの反ソ連政治勢力の影響力急低下。

スターリンが駐ソ米国大使を歓迎。

アメリカ国内に米ソ友好組織を設立。

 

1934年 スペインで右翼政党と左翼政党が対立を深める

1936年 スペインで左翼政権成立保守派の将軍らが、逆襲に転じて、フランコ将軍が国家元首に就任。

      このスペイン内戦にアメリカの共産主義者が左翼勢力に加勢することを通じて、アメリカ国内の共産主義思想の普及に利用する。

1936年 日本で激しい経済不況下、226事件起こる。

 

 特にルーズベルト政権時代にアメリカに政策に大きな影響を及ぼした共産主義者は、

国務省の東欧部のロバート・ケリー、ジョージ・ケナンらはソ連に対して懐疑的だった。

1933年7月、国務省東欧部は、ルーズベルトに「ソ連は米国国内の共産革命を誘導している」と警告を発するが、ルーズベルト国務省東欧部を遠ざけ、なんの対策も取らなかった。

 

 日本は1931年から1941年まで14回におよぶ首相交代を繰り返しており、強力で、一定の方針を持つ政権とは言えなかった。また、日本もまた、米国同様、朝日新聞記者、近衛内閣市民機関、内閣書記官長をはじめ、重要スタッフ、民間活動家が新思想であるマルクス主義社会主義計画経済に左右を問わず、かぶれている者が多かった。

 

 ソ連が米国の援助を受けつつ1千6百万人の犠牲を払って、ドイツを敗北させたのは、ユダヤ人のホロコーストを知っていて、正義に燃えて戦ったわけでもなんでもない。

 ルーズベルトスターリンは1千6百万人を犠牲にしても降伏しなかっただけの事である。当時、ヒトラーは、反共産主義とベルサイユ体制の破壊者で、経済復興に長けた異能の政治家にしか見えていなかった。

 

 1936年9月、英国の当時、元首相という立場だったロイド・ジョージヒトラーソ連共産主義よりも信頼して、ドイツのベルヒテスガーデンで会談。

 皮肉なことに、ヒトラーは他国を搾取してドイツの経済を復興したのではなく、アメリカからの投資資金とフォード自動車の資本導入で経済を好転させた。

 奇妙なことに、ナチスは経済不況を打開するために、他国へ侵攻したのではなく、経済復興した後で、侵攻した。

 1936年の時点でナチスドイツは、政権を取った年に600万人だった失業者を100万人まで減少させた。

 

 英国のハリファックス卿が、ヒトラーオーストリアチェコスロバキアダンツィヒに関わる領土変更を容認する言質を与えたのは、1937年11月19日である。

 

 しかし、この経済復興もおそらくはギャンブルに勝ったまでの事で洞察力が優ったわけでもあるまい。ヒトラー共産党を弾圧したが、それは正しかったと言える。

 ヒトラー共産党を弾圧した理由は、第一次世界大戦のドイツ敗北とその後のドイツ、オーストリアの体験した悲惨な生活が、ドイツ共産党がドイツ敗戦革命をしようとしたからだと信じていたようだ。もうひとつ、やっかいな確信は、ソ連ユダヤ人、東欧のユダヤ人が共産主義革命によって、ユダヤ支配を確立しようとしているという認識で、これが性急な庶民ユダヤ人の命をも奪う政策につながっていった。

 ヒトラーは1937年までに、経済政策の成功に自信を得た後、さらに、憎むべき共産主義政権を倒して、その行きがけの駄賃で、ロシアの資源を獲得しようという野心を抱いた。

 スターリンはドイツの国力に震撼して、米国の支援を受けて、ドイツからの攻撃に耐え忍んでドイツを倒した後は、欧州に強力な反共政権は消滅し、米国もまた、共産主義に甘く、だましやすいのだから、ヒトラー後に、バルト三国、東欧、満州、モンゴル、日本、朝鮮を共産化してロシアの支配下に納めるつもりだったろう。

 

 1937年10月5日、ルーズベルトはシカゴの湖岸道路記念式典の演説で、日本、ドイツ、イタリアとの戦争をすでに決意している意思を示している。

 

 スペイン内戦におけるドイツのゲルニカ攻撃と日本の満州国建国、シナ事変の状況を非難している。

 このルーズベルトの発想は、日本の小田実大江健三郎、べ平連、進歩的文化人と類似している。つまり、ルーズベルトには、ソ連共産主義の脅威という観念がまったくなく、国務省東欧部の言うソ連の工作などまったく関心外だった。

 

 スターリンは、まず独ソ不可侵条約を結んで、ドイツをポーランド奪取のために、英国・フランスと戦わせる条件を提供する。独ソ不可侵条約を結べば、かならずドイツはポーランド奪取を実行に移し、その前に英国がポーランド独立を保証していることから、英独戦は不可避である。この英国のポーランド独立保証は、ルーズベルトが米国大使を通じて、チェンバレンに圧力をかけて生まれた政策で、スターリンがドイツと不可侵条約を結びさえすれば、ドイツの開戦決意は必至だった。

 では、なぜスターリンはドイツにポーランドに侵攻させ、英仏と戦うように仕向けたのか。

 おそらく、英仏資本主義国家群が危機に陥る状況になれば、米国が参戦すると踏んだのである。しかも、ソ連は米国と交戦しなくて済み、ヨーロッパ最強の反共国家のとどめを米国が刺してくれる。

 

 ロシアが旧ロシア領土を奪回し、さらに拡張するには、確実にドイツを崩壊させねばならない。そのためには、アメリカの力が必要だった。

 

 スターリンにとって好都合なことに、アジアの不倶戴天の敵、日本をシナの蒋介石一派がルーズベルトと組んで、日本を敵視していることで、日本をアメリカが倒してくれれば、日本という邪魔者なしに、毛沢東を支援できる。

 

 スターリンはまず英国にバルト三国のロシア編入を要求。それがかなえられれば、ドイツと不可侵条約を結ばないつもりだったが、英国はロシアの申し出を拒否した。

 そこで、まず先にドイツと英国・フランスを衝突させれば、ドイツの方が優位だから、ドイツ優位に傾いた情勢に米国が介入して、最終的には、ドイツを壊滅させる決め手になるはずだと考えていた。

 

 もうひとつ、スターリンにとって独ソ不可侵条約が得なのは、この協定を結んだとたん、日本はソ連との決着を躊躇せざるを得なくなるということだ。軽々しく、日本がソ連と交戦すれば、ソ連はドイツとの二正面作戦の懸念がなく、日本と交戦できる。

 こうして、日本にソ連との交戦を躊躇させている間、中国共産党の国民党に入ったスパイが、日本軍への挑発を繰り返していた。

 スターリンは、日本が独ソ不可侵協定を見て、ノモンハン紛争を停止したのを見届けて、二日後、ポーランド東部、バルト三国フィンランドを占領開始した。

 

 この時、英仏はソ連ポーランドバルト三国フィンランド占領に沈黙した事をポーランド人はその後、深く憤ったろう。ソ連は、ナチスの仕業にみせかけてポーランド人将校を含む2万1857人を秘密処刑して、戦後ポーランドの復興を阻止しようとしたとされる。

 

 英国とドイツの戦争は膠着状態が続き、もともと、ドイツは英国に関心がなく、ロシアの資源がほしかったので、ソ連侵攻に転じる。

 

ルーズベルトの思惑は大きく分けて二つあった。

  • 欧州および国内の戦争特需で国内の産業を活性化させること。
  • 日本の領土を削減してシナ大陸の権益を得て、蒋介石国民党とともに、共同開発すること。その際、ソ連は「一国社会主義」として協調できるはず。

結果として、前者は100%目的を達成し、後者はソ連を見誤ったために、日本のシナ権益を奪った部分をすべてソ連傘下の中国共産党北朝鮮に奪われた。

 その地政学的変化は東南アジアの共産勢力の増長を呼び、アメリカの青年たちは、北朝鮮ベトナムで地獄を見ることになる。

 しかし、やがて自由主義共産主義を経済発展の礎として機能し始めて、ソ連は国民に見限られて、崩壊することになる。北朝鮮もまた、自由が僅少であるゆえに、他国の発展に寄生するしかない。

 中国は、米国がルーズベルトの遺した負の遺産であるアジア全域の共産化に手を焼いたあげく、ソ連の孤立化の代償として、中国に資本を投資した結果、予想を超える経済力がつき、朝鮮半島全域、東南アジア、台湾を支配する意欲を示している。

 

 日本はあまりに長い親ソ親中思想の瀰漫の影響から抜け切れず、生命至上主義の錯誤から抜けられないでいる。

 

 英仏はルーズベルトの圧力とそそのかしによって、ポーランドをドイツの不当な侵略から守ると宣言したのだが、実際は、ポーランドにドイツとの妥協を進めるべきだった。それをしなかったために、ポーランドという英国と関係のない国を守るといったために、ロンドンは空襲を受けるはめになった。

 

 これと同じことが、日本の大東亜戦争の理由、アジアの植民地解放という大義にも言える。正義を主張しているように見えるが、自国の安全保障と無関係な理由で、国民三百万人を犠牲にしたことになってしまう。

 少なくとも、そういう大義は無用で、不当な米国の不当な経済封鎖に抵抗する、と言えば済むところを、解放闘争を掲げて、理念を掲げた戦争に突入してルーズベルトに応戦の口実を与えてしまった。

 

 それは大きな国力差からして、朝日新聞、非コミンテルン共産主義者の思うつぼの日本破滅の戦争突入だった。

 

ルーズベルトソ連を一国社会主義の労働者に優しいだけの福祉国家と錯覚したのは、ニューヨークタイムズのモスクワ特派員のフェイクニュースによって米国のリベラルの多くがだまされたこと、恐慌によって資本主義に自信を失っていたこと、スペイン内乱におけるファシスト政権と人民戦線の戦いという図式を取って、ピカソ、欧米知識人が義勇軍としてソ連共産党の側の陣営に属したことから、共産主義善玉観にはまり込んだ可能性がある。

 

 ジョージ・オーウェルソ連批判の著書「動物農場」は1945年8月17日刊行、「1984」は1949年刊行。オルダス・ハックスリーの「素晴らしき新世界」は1932年だったが、ソ連批判として普及し得なかった。

 

 

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