河上肇「貧乏物語」の内容とは

 貧乏の存在とその痛苦は、個人の側の克己と工夫、そして国富。この二つながらそろわなければ達成できぬ事柄である。

 河上肇は、この個人の側の克己、工夫、勉励をまったく無視する論を主張していた。

 国家による給食を奨励するなら、ギャンブルを禁止すべきであろう。

 特に貧乏人のギャンブルを禁止するように仕向けるべきであろう。

 河上は親に働け、働いて子供に十分食べさせろとは言わず、子供への食事給与を奨励する。それもよかろう、失業なり、低所得の親の子にとって、給食は子供の救いだろう。

 ならば、低所得なのに、ギャンブルをしてさらに窮境に陥り、痛苦を味わう人間を救うために、ギャンブル、特に街中のギャンブルを禁じてはどうか。

 風俗を禁じてはいかがか。

 河上はギャンブルを放置し、風俗を放置し、一方では、子供の給食を熱心に説いた。

 「給食」「養老年金」・・・これらは現今資本主義国家日本にすべて実現されている。

 北朝鮮、中国、韓国には不十分なものである。

 年金法があっても、ギャンブル(※パチンコのこと)で使い果たせば何にもなるまい。

 

 河上肇という人は「富者は肥え、貧者は痩せる」ものだと思い込んでいた。

そして、肥えることは不健康で、痩せることはむしろ健康である場合もあると言った。

 しかし、実際には富者は適度にスポーツをし、美食を楽しみ、労働者はジャンクフードを過剰摂取して運藤などせず、寿命を縮めるというのが、現実であろう。

 

 「奢侈の廃止」を力説して、貧者のギャンブル禁止、過度の飲酒禁止を説かぬのが河上肇であった。

 

 「奢侈を禁止し、需要が少なくなれば、生産力は貧困者への支給に充てられるはず」というのが河上肇の論理である。

 河上肇は国家が生産者になれば「適切な生産を為すはずだ」と考えた。

 金儲けにさえばればなんでもするるというのが、悪だというのだが、公務員が金儲けのためなら、なんでもするということにならない保証は実はどこにもない。

 

 河上肇は経営者が「金もうけ」目的の経営をする気がないのであれば、「奢侈、一身一家のぜいたくのために消費しないはずだ」と言う。が、実際には、高級公務員が金儲けをし、一身一家のために高給を決め、奢侈をしない保証などどこにもない。

 河上肇は国家占有経済であろうと、私有経済であろうと、奢侈がなくなることは無いと洞察することができない人物であった。

 「富者の奢侈廃止」と河上は言うのだが、現在のありがとうございます。あらゆる「上級」国家公務員は奢侈でないことはない。

 国家が経営しようと私人が経営しようと、その長は奢侈を目指す。

 あまつさえ、河上肇は酒を無用の長物視する。

 ささやかな憩いさえ、非必需品無用、非必需品など万人のための生産の阻害要因だとする。

 「富者は自動車に乗るな。自動車は救急車のために作れば足りる」

「酒は造るな。酒など造るから、飢える人にコメが回らない」というのが、河上肇の発想であった。

 貧困者に「労せずして」十分な富を支給すれば、中産階級の贅沢は阻止されるであろう。また、企業の設備投資は抑制されるだろう。そうなれば、中産階級の相当多数は失業者の、群れに転落し、「労せずして十分な富を要求する人間の数はいよいよ増加するであろう。

 

 もっとも、だからこそ、河上肇は、そうした事態に耐えうるためには、富者が奢侈を止めればよいというのであるが、問題は「奢侈の無い富者と多数の労せずして公的扶助を要求し続ける民衆によって成り立つ社会は必ずや競争社会の獲得した技術の世話になる運命を甘受せねばならないという事である。

 河上肇は「修身斉家平天下」が現実に為しうるものだと平気で主張する浅慮な人物であった。

 「修身斉家平天下」が現実に為しうるものであるなら、中国、北朝鮮ソ連キューバはもとよりあらゆる先進国の高級公務員は清く貧しく自分のことより民の事を先に考えたろうが、実際には、個人的な奇人的ふるまいの他にはそんな例も方策もない。