慰安婦問題 何がどう影響を与えたか。

1970年8月14日付ソウル新聞に「1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓日二つの国の女性は全部で20万人。そのうち、韓国女性は5万人から7万人」(慰安婦とは書いておらず、工場動員のつもりだったのか、慰安婦のつもりだったのか、それ自体が不明)という記事があるのを金英達が発見。

 その3年後に、千田夏光が「従軍慰安婦」声なき女8万人の告発」「従軍慰安婦正編」を発表。

 千田は「挺身隊の名のもとに集められたのである。総計20万人が集められたうち、慰安婦にされたのは、5万人ないし、7万人」とあるから、千田は挺身隊20万人が別個にあり、慰安婦は5万人から7万人だという認識を持っていたことがわかる。

 が、この時点ですでに、ソウル新聞の「半島女性5万人から7万人が工場動員された可能性がある」という見方が、千田の「半島女性5万人から7万人の慰安婦」に変化している。

 そして、千田の言う「半島女性5万人から7万人の慰安婦」がクマラスワミ報告および韓国挺身隊協議会の主張では、「半島女性20万人慰安婦説」に増大している。

高崎宗司によると、ソウル新聞の記事は慰安婦を意味するのではなく、工場労働を指し、実際は5万人以上ということはなく、4千人ほどだという。

 また、千田は「従軍慰安婦正編というが、あたかも、「従軍慰安婦」という呼称が当時から存在したかのような表現をして、印象操作を意図したもであった。

吉田清治の「朝鮮人慰安婦と日本人」(人物往来社)は、1977年刊行であるから、千田夏光本1973年よりも4年後ということになる。

 平凡社朝鮮を知る事典も、吉田清治本よりも千田本を踏襲しており、まず、千田本があり、これを吉田清治が「当事者裏付け証言版」の意図で書いたと思われる。

1984年には韓国で東亜日報編集局長、宋建鎬が「日帝支配下の韓国現代史」で、千田夏光の著書内容を踏襲している。

(本人は1969年の新聞記事からと記述しているが、実際は千田本の踏襲だろう)

吉田は「朝鮮人慰安婦と日本人」1977の時点では、「強制連行」に言及しておらず、82年講演で初めて「強制連行」と慰安婦を結びつける。

吉田は1963年週刊朝日「私の8月15日」では、労務調達しか意識しておらず、後に、千田夏光や週刊誌の扇情的記事を読むにおよび、慰安婦と強制連行を結びつけるのがセンセーショナルだと判断したらしい。

吉田の82年講演、83年「私の戦争犯罪」に影響されたか、翌年、松井やよりがさらに誇張記事を書く。

1984年11月2日、朝日新聞夕刊紙上に松井やよりが、「8万人とも10万人とも言われる従軍慰安婦の多くは生きて帰れなかった。」と、千田夏光の「5ないし7万人説」が10万人に増加し、「生きて帰れなかった」と、「死亡誇張」が始まっている。

1986年には、日本の平凡社「韓国を知る事典」に「43年から女子挺身隊の名のもとに約20万人の朝鮮人女性たちが、労務動員され、そのうち、若く未婚の5万から7万人が慰安婦にされた。」と記載。

 これもまた、ソウル新聞が「韓日女性合わせて、20万人」と記述しているにもかかわらず、 「韓国女性20万人、そのうち7万人が慰安婦」に変化している。

改めて高崎宗司説では、工場動員は4千人前後である。

それが工場動員13万人、慰安婦7万人と平凡社は記述していることになる。

平凡社の当時の 編集部、宮田節子によると、(2014年8月5日朝日新聞発言)千田本を踏襲したという。確かに、平凡社「朝鮮を知る事典」記述は千田本そのままである。

一方で吉田は、1983年12月23日、奇妙なことに、すでに「私の戦争犯罪」を出版して「慰安婦強制連行」強調にカジを切った後にかかわらず、韓国天安市の謝罪碑には、「慰安婦強制連行のことではなく、男性の労務動員の強制性に加担したことについての」謝罪訪問を行っている。

これは一つの謎であって、もしかすると、83年の時点では、朝鮮総連をはじめとする親北工作者は、「慰安婦強制連行」に的を絞るべきか、朝鮮人労務動員を強制連行として言い立てるのが効果的か、測りかねていた可能性がある。

 これは後に、吉田清治の天安市謝罪碑がてっきり慰安婦強制連行への謝罪だと誤解され混乱した受け止め方を引き起こした。

 韓国では、1990年に韓国挺身隊問題協議会が結成され、初代代表は梨花女子大学の尹貞玉。(ユン・ジョンオク)

 尹貞玉は1925年生まれの朝鮮半島の裕福な牧師の娘で、1950年、朝鮮戦争が勃発すると、米国に留学する形で逃れ、米国でマルクス主義フェミニズムを学び、これに北朝鮮共産主義を合体させ、民族共産主義フェミニズムをこしらえたのではないか。

1980年、韓国で全斗煥政権と親北左翼運動の対立が激化する中、尹貞玉は73年の千田本、77年の吉田清治本、83年の吉田清治本、84年の松井やより記事、東亜日報編集局長の本などを元に慰安婦の大枠を固めて行ったと思われる。ちょうど北朝鮮全斗煥政権が中曽根政権と関係を強め、中国と国交を結び、北朝鮮大韓航空機爆破、ビルマラングーン爆殺テロを行う中での研究であった。

尹貞玉のマルクス主義フェミニスムと民族共産主義の融合は次の主張に現れている。

2003年「平和を希求して」

「女性の性に対する観念を徹底的に変える社会的な変革が先行しなければならない。挺身隊の女性こそ、民族史の主人公であらねばならない」

尹貞玉はハンギョレ新聞で「慰安婦強制連行があった」という立場から連載記事を書き、韓国左翼に大きな影響を与えた。また、クマラスワミに対しても、強制連行があったという立場から示唆を与えている。

 日本の左翼が謝罪=和解をしようとするのに対して尹貞玉らは、日本を帝国主義国家権力とみなして、徹底した国家謝罪、国会の予算措置による日本公務員に対する徹底的な謝罪教育を求めている。