China史ノート 1 春秋の晋 3

唇歯輔車】しんしほしゃ 春秋左氏伝 僖公きこう五年

「唇と歯」「頬骨と下顎」のように、お互いが助け合うことによって成り立つ関係

唇亡歯寒 こちらは春秋左氏伝 哀公8年

「唇くちびるほろびて歯さむし」

史記 唇亡則歯寒 献公の代

史記によると、献公の代、北方遊牧民族出身の娘を母として重耳が生まれた。

異母兄の申生は、寵姫である驪姫 りきの謀略により、自決した。

 驪姫 りきは自分の息子を後継にするため、他の子どもを追放しようとした。

・異母弟の夷吾(後の恵公)などもいた。

重耳43歳は、趙衰とともに、母の出自の北方民族の地にいったん逃亡する。

赤狄族の姉妹と重耳、趙衰は婚姻する。

五年後、父献公が死に、驪姫りきが息子奚斉を晋公に建てるが、里克らのクーデターにより驪姫りきらは皆殺しとなった。

里克は、重耳を迎え入れようとする。

重耳はこれを断り、他の地に逃げていた夷吾は受け入れて帰国し、晋公の座に迎えられ恵公となる。

恵公は、重耳を警戒して、里克を殺し、重耳に向けて刺客を送った。

重耳は逃亡し、に逃亡した。

重耳は妻の季隗に、「25年待ってくれ、それでも帰らなければ待たずに再婚しなさい」と言い、季隗は「私こそ死んでいるかもしれないし、私の墓に植えた柏の木も大きくなるくらい長いけど、待っています」

まず衛に着き、地元の農民に食を乞うたが、冷遇され、農民は器に土を盛って出した。

重耳は激怒した。

趙衰「土を得たということは、この土地を得る兆し。拝して受けなさい」

と言われ、重耳は心を変え、黙って受け取った。

斉にたどり着くと、歓待され、戦車20乗、(80頭の馬)をくれた。

また王の娘を娶わせた。

5年後、斉の王が死に、政情は不安となった。

重耳は斉にいる気になっていたが、側近、狐偃・趙衰が重耳を斉から出るように説得しようとする。

重耳はもはや50歳を超しており、妻の季隗を忘れたかどうかしていることになる。

重耳の妻、斉姜の召使いの女がこれを聞いて、斉姜に教える。

斉姜は、重耳の身を案じて、重耳脱出の情報が洩れるのを防ぐために、召使いの女を殺してしまう。

 そして斉姜もまた狐偃・趙衰に協力して、重耳を説得するのだが、重耳は拒む。

 斉姜は狐偃たちと図り、重耳を酔わせて、車に乗せ、無理やり斉から連れ出した。

 酔いから醒めた重耳は狐偃に対して激怒したが、狐偃は、「あなたの大業が成るなら、死んでも結構、気が済むなら殺してください」

 まずに入り、侮辱的扱いを受け、次に宋に入って歓待されるが、宋は戦乱で疲弊していたため、に行き、また侮辱され、次に楚に行って歓待される。

 楚の王「晋の君主になったら、お返しは何か?」

 重耳「もし王と戦うことになったら、軍を三舎(軍が3日で行軍する距離)退かせます」

 楚王の家臣は、「楚と戦う前提か、生意気な」と重耳を殺そうとしたが、王は「が興そうとするのであれば、止められないのだ」

 こうして重耳が流浪する間、重耳を狙っていた恵公が病死した。

 恵公の太子は秦の人質になっていたのだが、逃亡して晋に帰り、後を継ぎ懐公となった。

 秦は怒り、重耳を秦に迎えて、晋の王にするべく画策を始める。

 晋の重臣たちの中にも重耳を立てようとする一派がいて、そこへ秦軍と重耳が攻め込んだ。

 重耳62歳、晋王となる。

 狄から先妻の季隗を迎え、長子の伯鯈と次子の叔劉は狄にとどまらせる。

 5年後、宋が楚に攻められ、重耳は宋を救援して楚軍と対決する。

 まず、かつての約束通り、いったん引いて後、交戦して楚を破る。

 在位9年(71歳ころ?)で重耳は病死した。春秋五覇の筆頭とされた。

 

 

 

 

 

 

China史ノート 1 春秋の晋 2

驪姫(りき)は、献公の寵姫であった。

最初、側室となったことに怯えていたが、だんだん増長。

ついに、太子を罠にかけて自死に追い込んだ。

「太子さま、殿様はあなたの母上の夢を見ましたよ。

母上の御霊をお祭りしてあげなさい」

と言い、太子が母をお祭りして供物の肉をあげ、その肉を献公に差し上げるためにとっておいたところ、驪姫(りき)が肉に毒を混ぜさせ、献公に、「肉が少し古いかもしれません」と言い、目の前で、犬と茶坊主に食べさせた。

犬も茶坊主も激しく苦しみ、死んだので、

驪姫(りき)は「これは太子が毒を盛ったのでしょう。

こんなことでは、わたしたち母子も不安で仕方がない、他国に避難したら良いのでしょうか?」と献公に嘆いて見せ、

太子は恐れおののいて自殺してしまった。

献公が没して一カ月後、献公の部下の里克が反乱を起こし、驪姫りきと息子も、妹一族も殺害した。

 司馬遷は言う。太子は、驪姫りきに反論すると、父が悲しむと思って黙って自決した。悲しいと。

China史ノート 1 春秋の晋 1

司馬遷は、人間を怨念によって動く者としてとらえた。

周王十代の王が、暴虐であった。

臣下たちはクーデターを起こし、王は逃亡し、大臣たちだけで政治を行って、年号を「共和」とした。

周の十二代の王は愛人の褒姒(ほうじ)を溺愛した。

褒姒(ほうじ)を笑わせるために諸侯を非常呼集して、慌てて駆けつける諸侯を見て、褒姒(ほうじ)が笑うのを喜んだ。

王は異民族に殺された。

覇とは、武力による制圧を言い、王とは良き統治による統治によるという発想が生まれた。

書経」に(天子は)兆民これに頼る とあり、

詩経」に(諸侯には)万民これに従う とある。

 

 

 

ヘンドリック・ハメル朝鮮幽囚記と韓国人

ヘンドリック・ハメル朝鮮幽囚記は朝鮮に漂流したオランダ人による朝鮮についての事情を紹介する報告書である。

 

「彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられてはいません。したがってある人が取引でだまされた場合、その取引を破棄することができるという習慣があります。(p52)」

と書いてあるのだが、なんと現代の韓国の麗水にはハメル灯台があり、ハメル記念展示館がある。

そしてこの報告書の原本が展示してある。

韓国人はこの本になんと書いてあるか知らずに歴史的知韓派のはじまりだとすっかり思い込んで親しんでいるのである。

ディープステートはあるか。

米国も日本もディープステートがあると思っている人が多い。

なぜそういう発想になる人が米国、日本に多いかというと、端的に言えば、米国と日本の映画・文学には、商人富豪が相互に争うという発想がないからだ。

実際には人間というのは、商人富豪はその家族内部でも、他家との間においてもつねに争いが絶えない。

それは元以前の古代から元末期までのモンゴルの同族争い、明の王族争い、清の内部抗争が延々と続いたことと類推されることでこの人間の性質は永遠と言ってよい。

 統一的で長期に続く組織的意思などというものは人間世界にはないのである。

源頼朝の源氏の由来

源経基が源の最初

清和天皇→貞順親王源経基→満仲→大和・河内に分かれる。→頼信

平忠常の乱

追討使に平直方と中原成通が選ばれるが、彼らが失敗したことから、河内源氏が台頭する契機が生まれる。

降伏させることに成功した頼信と頼義親子。

頼信までは度量大きかったが頼義を含め、後はどんどん性格が傲慢・乱暴になっていった。

平直方の娘と頼義が婚姻。

平直方は鎌倉に屋敷を持っていた。

 直方は貞盛の玄孫。

忠常はもともと貞盛の父、国香の弟の孫。

この鎌倉の屋敷を源頼義にあげたことから、源家の拠点が鎌倉になった。

この鎌倉にいた頼義は前九年合戦でさらに名を上げることになる。

(名を上げるために東北の安部氏を出羽の清原氏を利用して、つぶしにかかったともいえる。)

結果、頼義は出羽の清原氏と組んで陸奥の安部氏を滅ぼし、朝廷から正四位下伊予の守、義家は従五位下出羽守、次男義綱には佐衛門尉の勲功を得る。頼義は75歳になっていた。

 

清原武則従五位上鎮守府将軍が与えられた。

この時、安部氏と婚姻関係にあった藤原北家の遠い子孫の藤原経清つねきよを殺す。

頼義の跡を継いだ義家は、藤原経清つねきよの遺児が29歳になってから、支援して清原の当主になるように支援する。

 義家は朝廷からは勝手に動いて戦をする乱暴者という評価を受けていた。

また弟と戦をして追放した。

 義家の息子義親がさらに親に輪をかける乱暴・粗暴者で流罪になった。

 流罪を無視して戻ってきた義親を平氏が討伐した。

 義家の孫が新田と足利の祖になった。

 また義親系統の分家が為義であった。

 この為義とその子、義朝が親子で抗争する。

 為義は京に暮らし、こどもの義朝は熱田大宮司藤原季範の娘と婚姻して、坂東に暮らしていた。

 藤原季範の息子範忠は後白河天皇の側近だった。

 だから、義朝は後白河天皇の派閥に属していた。

 この間に生まれたのが、三男頼朝だった。

頼朝は兄弟の中でも、特に熱田大宮司の父と後白河天皇の側近を兄に持つ娘のこどもだったから、義朝は頼朝を跡取り決めていた。

 藤原季範と息子範忠は、坂東から義朝を京に迎える。

 後白河派閥は崇徳上皇についた為義を殺す。

 そのあと、平治の乱で義朝は清盛に敗れて殺され、残った頼朝は伊豆に流罪となるが、伊豆の豪族北条氏とともに挙兵する。

 最初に戻って、頼信の同母兄弟の兄に頼親よりちかがいた。頼親は藤原道長の側近だった。

 この頼親の孫、頼俊は1070年陸奥守だった。

 この頼俊が津軽まで服属させた。

 この時、清原武則の孫も参戦したので、この清原真衡鎮守府将軍になった。

 

藤原経清つねきよの妻は安部頼時の娘であった。

藤原経清つねきよが源頼義に攻め込まれて死ぬと、安部頼時の妻は出羽の清原武則の子、武貞の妻となり、家衡を生んだ。

 だから、出羽の清原家は、「経清つねきよの息子・清衡」「清衡の同母異父弟・家衡」「清衡異母異父兄真衡」が並立し、従兄弟の吉彦きみこ秀武は、真衡を嫌って、清衡・家衡兄弟に組した。

 つまり、清原家に滅ぼされた安部頼時の娘を母とする兄弟が清原家内紛において吉彦秀武の援軍を得て、手を結んだ。

 このころ、源義家陸奥守であり、真衡は義家を饗応した後、すぐさま、出羽の吉彦きみこ秀武を殺しにかかる。  

 

 だが、その途上、急死してしまうのである。

 清衡・家衡の兄弟はまずいったん陸奥の守義家に投降。

 義家は落しどころを、清原家の土地を清衡・家衡に分け与えて収めた。

 三年後、義家に対して家衡が兄清衡を讒言したため、かえって義家の不興を買い、義家は清衡に褒賞を与えた。

 これに逆上した家衡は、血類の叔父武衡と組んで清衡の妻子を殺害。

 武衡にしてみれば、家衡と清衡が衝突したのであれば、元来の出羽清衡一族の直系は家衡であり、清衡は実父が藤原経清つねきよであり、清原家の血族ではなかった。

 義家は家衡許すまじと朝廷に追討官符を求め、正式に家衡を追討しての勲功賞を狙った。

 

 この家衡追討は思いのほか義家の苦戦になり、朝廷も追討官符を出し渋り、ついに義家の意地の家衡攻撃となった。

 吉彦秀武が清衡・義家連合軍につき、家衡・武衡の屋敷を囲んで兵糧攻めにした結果、秋から冬にかけて多数の餓死者を出した。

 朝廷は義家の勲功を認めなかった。

 安部頼時の娘にしてみれば、夫藤原経清つねきよを戦で失い、夫を殺した清原家の息子の妻にさせられ、生したこどもがまた無惨に義家に殺されてしまった。

 夫藤原経清つねきよを殺したのは義家とその父頼義だった。

 二年におよぶ長い戦で費消した義家は大打撃を受けた。

 義家の権力が低下したおかげで、清原家の清衡がすべての財産を継承することができた。

 こうして清衡は亡き父藤原経清つねきよの姓を継いで陸奥出羽押領司を拝命して、藤原清衡となり、奥州藤原四代の祖となった。

 安部氏、清原氏蝦夷出自の一族に攻めかかった源義家と坂東の郎党たちの子孫は、やがて源頼朝御家人として集結することになる。

 

 頼朝は祖先頼義の故地鎌倉に幕府を置く。

 そして、祖先の深く関わった奥州藤原氏を改めて滅ぼしにかかる。

 陸奥の安部一族、藤原経清つねきよの子孫をついに奥州支配の地位から根絶やしにした。

 義家は朝廷から追討官符を受けられず、従って戦に勝っても陸奥守を解任されただけに終わった。

 だが、源頼朝軍事・警察権を行使する地方官である守護 を直接任命する権利を得た。

 

承前 奥州藤原四代と鎌倉幕府

俵藤太=秀郷

何代か後、

藤原経清つねきよ

奥州藤原氏

初代藤原清衡

基衡

秀衡 義経をかばう

泰衡 義経討伐の命を受ける        の時、滅亡

 

蝦夷えみし出自の

出羽の清原氏陸奥の阿部氏が並立。

多賀城が出羽・陸奥を管理。

そこへ、藤原経清つねきよが多賀城に赴任してくる。

朝廷に収める役職。

藤原経清つねきよは阿部氏の娘と結婚。

阿部貞任は藤原経清つねきよの妻の兄

 

阿部貞任が多賀城に攻め込んだことから、戦乱が始まる。

 

藤原経清つねきよ(陸奥の守ではなく、多賀城の役人)は最初は朝廷側につくが、途中で阿部氏側につく。

 源頼義は息子頼家を連れ、阿部氏を滅ぼす計略を立てて、阿部氏を挑発。

清原氏には金品を渡して阿部氏乗っ取りを持ちかけた。

藤原経清つねきよはぼろぼろの刃で殺される。

 

経清つねきよ死後、経清つねきよの息子と妻は清原氏に引き取られる。

これが、清原氏の後継者となり、

清原氏改め、藤原清衡となり、奥州藤原三代を築く。

 つまり、藤原清衡はもともと藤原北家の遠い子孫藤原秀郷の家系の経清つねきよと奥州の蝦夷の娘の間に生まれた子ということになる。

 経清つねきよの息子は陸奥・出羽を合わせた大勢力の養子になったことになる。

 

 清衡27歳の時、

 

阿部氏の娘、阿部一族に気兼ねして、清衡を大事したのかもしれない。

清衡は経清つねきよを討った八幡太郎源義家を頼って、異父兄弟に勝つ。(義家の父は狡猾な頼義だった)

 

清原清衡は清衡姓をやめて、藤原姓を名乗る。

 

中尊寺を建立。

次男基衡が長男を倒して家督相続。

 

 

 

藤原清衡は母の故郷、平泉に拠点を移した。

清原出身の妻と阿部氏出身の妻がいた。

阿部氏出身の妻との間に生まれた次男基衡が勝った。

 

基衡の子、秀衡が

「地元の者として初めて」陸奥の守に就任。

このころ清盛死去。

陸奥の守解任。

 

頼朝、秀衡に朝廷への貢物は幕府を通すように要求。

清衡・基衡・秀衡までが奥州藤原三代。

四代目泰衡に、

秀衡は、「義経とともに頼朝と戦え」と遺言するが、泰衡は義経を追放、攻める。

しかし、頼朝は泰衡を匿ったとして滅ぼす。

 

藤原北家の家系、経清つねきよの子孫四代を頼朝は滅ぼした。

三代秀衡は、頼朝ではなく、朝廷と結んで、他の武士の配下になることを回避したかった。

そこで頼朝に屈服せず、最期まで鎌倉と膠着することを望んだ。

 頼朝は形ばかり朝廷と結び、全国の最高権力を幕府としたかった。

 そこで、幕府の傘下にはいりたがらないであろう奥州藤原氏を滅ぼそうと考えた。

 思惑は衝突したが、秀衡は病死してしまった。

 残された泰衡は頼朝に服従しようとしたが、処刑されてしまった。

 泰衡の兄、国衡がまず戦死。次に泰衡が戦死。

頼朝は配下を奥州に移住させた。

これを奥州合戦という。

 頼朝の時代に初めて武士の統領が配下の武士に土地を「本領安堵」するようになった。

これを「御恩」といった。

 そして御家人として忠節を「奉公」と云った。

 奥州合戦の後、頼朝は上洛して後白河上皇に守護地頭継続を承認してもらう。

後白河法皇は頼朝に征夷大将軍を任命しないまま崩御

 後鳥羽天皇征夷大将軍に任命する。

 頼朝は娘の大姫の婿であり木曾義仲の長男である義高を殺そうとする。

 義高は逃亡するが逃げきれず、殺される。

 大姫はうつ病状態になり、政子は激怒するが、大姫は20歳で死んでしまう。

 そうこうしているうちに、頼朝は53歳で、

落馬して死ぬが、病気で落馬したのか、事故で落馬したのか、わからない。

 頼朝挙兵時から頼朝に従っていた和田義盛が侍所初代別当(次代別当梶原景時)、大江広元(貴族)が初代政所別当問注所初代執事は、子供のころから頼朝の友人で頼朝に手紙を送り続けていた三善康信(貴族)が就任。

 

 比企氏を滅ぼした後、将軍頼家の将軍位を廃位して修善寺に追放。頼家の弟、実朝十二歳を将軍位のつけた後、北条時政は(大江広元と並んで政所別当になり、同時に初代執権になる。

 

同年、北条義時の手勢が頼家の息子、一幡を殺す。続いて義時の手勢は修善寺の頼家をも殺す。

時政と牧のかたの間に生まれた男子北条政範まさのりは京において、十六歳で急病死したため、北条義時の北条家における地位は高まった。