平清盛と源頼朝の時代
そうしたところへ、源義親の素行不良が目立ち始めた。
朝廷は父の源義家に討伐を命じたが、義家は老齢で動けなかった。
平正盛が義親を殺し、朝廷の評判が高くなった。
白河上皇の後押しが強くなり、正盛は但馬守になった。
息子の忠盛も海賊退治をして正盛、忠盛親子は評価が高く
なり、鳥羽上皇に武士として初めて忠盛が、朝廷に入っ
た。
こうして武士貴族の家に清盛が生まれた。
白河上皇に仕えていた女性が忠盛の妻になり、清盛が生ま
れた。
清盛30歳の時、祇園社という神社で清盛は争乱になり、
祇園社の神輿を射貫いた。
神官と争いになる。
神罰が下らないのかということになるので、寺社は激怒す
るが、鳥羽上皇のかばいで、罰金で終わる。
この弟は17歳で死去。
鳥羽上皇は死去。
士の戦になった。
崇徳側
後白河側
清盛、頼長の弟で実権のない関白、藤原忠通、妻の兄が後
白河の側近で親しかったが、父の為義は崇徳側の源義朝
清盛らが勝利。
清盛は叔父の忠正を殺し、義朝に父の為義を殺させる。
これで源一族は衰退する。
思惑が入り乱れていた時代。
ねり続ける。
ら、激動が始まる。
一般人の兄弟殺し合いなら、警察に逮捕されて終わるが、
最高権力層の争いは止める権力がない。
そこでどちらかの武力が疲弊して降伏して決着がつく。
つまり、日本の文書に記録の残る「内戦」のひとつ。
その後、日本の内戦は一旦徳川政権で終わり、明治維新で
になる。
以後は暗殺史・騒乱史・テロ史があり、敗戦革命企図があ
り、高度経済成長後は暗殺・争乱・テロが消失していく。
ちなみに敗戦革命企図には、大きく分けてふたつの企図勢
力があった。親ソ敗戦革命と親英米近代化敗戦革命(マル
クス主義ではない共和制民主主義革命)
シア通と共産主義願望の将軍・参謀レベル
のソ連との内通。
朝日新聞記者・元朝日記者で近衛側近マルクス主義者のソ連との内通。
惑。
米国を次期社会主義革命国と見て米国の勝利を期待し
た、当時の日本共産党員。(彼らはこう願望していただけ
で何もしなかった。
保元の乱が収まると、後白河権力の内部でトップ争いが起きる。清盛対義朝。
信頼は信西を殺すが、清盛は義朝と信頼を殺して決着する。
ついに清盛に表立って対抗できる勢力は消滅した。
清盛は平氏一族に役職をつけていった。
こうして、遺児となったのが、頼朝、義経。
源一族・藤原一族を放逐した後に、清盛は太政大臣になり、さらに娘を皇族に嫁がせた。
日宋(南宋)貿易。
このころになると、後白河上皇の影が小さくなり、後白河上皇は清盛を嫌い始める。
後白河天皇の第三皇子であった以仁王もちひとおうが、頼朝に「清盛を打て」という意味の令旨を出したころから状勢が流動していった。
坂東の北条時政の家に逗留していた源頼朝と時政の長男、宗時が懇意になった他、政子が頼朝に恋慕するということもあった。
政子の弟、14歳ほどの少年義時も頼朝と親しくなっていった。
後白河天皇の第三皇子であった以仁王もちひとおうが、頼朝に「清盛を打て」という意味の令旨を出したころから状勢が流動していった。以仁王令旨を静観していた頼朝であったが、「源頼政」という人物の動きが契機になって、頼朝は決起を決意する。
平治の乱以後、清盛側について、公卿になった源頼政は、後白河上皇と以仁王の清盛への反感に共鳴して、清盛討伐を企図する。
これが清盛に発覚して、宇治平等院にて敗死する。
たちまち清盛らの源氏勢力掃討の勢いが強まり、伊豆の知行国主が平時忠になる、頼政の孫、有綱への追捕が始まる、北条家への圧迫が強まるなどした。
こうして北条時政一族、頼朝らは危機感を強め、ついに決起する。