源頼朝の源氏の由来
源経基が源の最初
清和天皇→貞順親王→源経基→満仲→大和・河内に分かれる。→頼信
平忠常の乱
追討使に平直方と中原成通が選ばれるが、彼らが失敗したことから、河内源氏が台頭する契機が生まれる。
降伏させることに成功した頼信と頼義親子。
頼信までは度量大きかったが頼義を含め、後はどんどん性格が傲慢・乱暴になっていった。
平直方の娘と頼義が婚姻。
平直方は鎌倉に屋敷を持っていた。
直方は貞盛の玄孫。
※忠常はもともと貞盛の父、国香の弟の孫。
この鎌倉の屋敷を源頼義にあげたことから、源家の拠点が鎌倉になった。
この鎌倉にいた頼義は前九年合戦でさらに名を上げることになる。
(名を上げるために東北の安部氏を出羽の清原氏を利用して、つぶしにかかったともいえる。)
結果、頼義は出羽の清原氏と組んで陸奥の安部氏を滅ぼし、朝廷から正四位下伊予の守、義家は従五位下出羽守、次男義綱には佐衛門尉の勲功を得る。頼義は75歳になっていた。
この時、安部氏と婚姻関係にあった藤原北家の遠い子孫の藤原経清つねきよを殺す。
頼義の跡を継いだ義家は、藤原経清つねきよの遺児が29歳になってから、支援して清原の当主になるように支援する。
義家は朝廷からは勝手に動いて戦をする乱暴者という評価を受けていた。
また弟と戦をして追放した。
義家の息子義親がさらに親に輪をかける乱暴・粗暴者で流罪になった。
義家の孫が新田と足利の祖になった。
また義親系統の分家が為義であった。
この為義とその子、義朝が親子で抗争する。
為義は京に暮らし、こどもの義朝は熱田大宮司藤原季範の娘と婚姻して、坂東に暮らしていた。
だから、義朝は後白河天皇の派閥に属していた。
この間に生まれたのが、三男頼朝だった。
頼朝は兄弟の中でも、特に熱田大宮司の父と後白河天皇の側近を兄に持つ娘のこどもだったから、義朝は頼朝を跡取り決めていた。
藤原季範と息子範忠は、坂東から義朝を京に迎える。
後白河派閥は崇徳上皇についた為義を殺す。
そのあと、平治の乱で義朝は清盛に敗れて殺され、残った頼朝は伊豆に流罪となるが、伊豆の豪族北条氏とともに挙兵する。
最初に戻って、頼信の同母兄弟の兄に頼親よりちかがいた。頼親は藤原道長の側近だった。
この頼親の孫、頼俊は1070年陸奥守だった。
この頼俊が津軽まで服属させた。
この時、清原武則の孫も参戦したので、この清原真衡が鎮守府将軍になった。
藤原経清つねきよの妻は安部頼時の娘であった。
藤原経清つねきよが源頼義に攻め込まれて死ぬと、安部頼時の妻は出羽の清原武則の子、武貞の妻となり、家衡を生んだ。
だから、出羽の清原家は、「経清つねきよの息子・清衡」「清衡の同母異父弟・家衡」「清衡異母異父兄真衡」が並立し、従兄弟の吉彦きみこ秀武は、真衡を嫌って、清衡・家衡兄弟に組した。
つまり、清原家に滅ぼされた安部頼時の娘を母とする兄弟が清原家内紛において吉彦秀武の援軍を得て、手を結んだ。
このころ、源義家が陸奥守であり、真衡は義家を饗応した後、すぐさま、出羽の吉彦きみこ秀武を殺しにかかる。
だが、その途上、急死してしまうのである。
清衡・家衡の兄弟はまずいったん陸奥の守義家に投降。
義家は落しどころを、清原家の土地を清衡・家衡に分け与えて収めた。
三年後、義家に対して家衡が兄清衡を讒言したため、かえって義家の不興を買い、義家は清衡に褒賞を与えた。
これに逆上した家衡は、血類の叔父武衡と組んで清衡の妻子を殺害。
武衡にしてみれば、家衡と清衡が衝突したのであれば、元来の出羽清衡一族の直系は家衡であり、清衡は実父が藤原経清つねきよであり、清原家の血族ではなかった。
義家は家衡許すまじと朝廷に追討官符を求め、正式に家衡を追討しての勲功賞を狙った。
この家衡追討は思いのほか義家の苦戦になり、朝廷も追討官符を出し渋り、ついに義家の意地の家衡攻撃となった。
吉彦秀武が清衡・義家連合軍につき、家衡・武衡の屋敷を囲んで兵糧攻めにした結果、秋から冬にかけて多数の餓死者を出した。
朝廷は義家の勲功を認めなかった。
安部頼時の娘にしてみれば、夫藤原経清つねきよを戦で失い、夫を殺した清原家の息子の妻にさせられ、生したこどもがまた無惨に義家に殺されてしまった。
夫藤原経清つねきよを殺したのは義家とその父頼義だった。
二年におよぶ長い戦で費消した義家は大打撃を受けた。
義家の権力が低下したおかげで、清原家の清衡がすべての財産を継承することができた。
こうして清衡は亡き父藤原経清つねきよの姓を継いで陸奥出羽押領司を拝命して、藤原清衡となり、奥州藤原四代の祖となった。
安部氏、清原氏両蝦夷出自の一族に攻めかかった源義家と坂東の郎党たちの子孫は、やがて源頼朝の御家人として集結することになる。
頼朝は祖先頼義の故地鎌倉に幕府を置く。
そして、祖先の深く関わった奥州藤原氏を改めて滅ぼしにかかる。
陸奥の安部一族、藤原経清つねきよの子孫をついに奥州支配の地位から根絶やしにした。
義家は朝廷から追討官符を受けられず、従って戦に勝っても陸奥守を解任されただけに終わった。
だが、源頼朝は軍事・警察権を行使する地方官である守護 を直接任命する権利を得た。