China史ノート 1 春秋の晋 6 趙朔 ちょうさく
暴虐の王、晋の霊公から亡命した義人趙 盾(ちょうとん)は、亡命後に、従兄弟が、霊公を殺害したので、戻ってきて、晋を再び支える。
この趙 盾(ちょうとん)の子が趙朔 ちょうさく。
王は代替わりして景公。景公の次が成公。
趙朔 (ちょうさく)は、晋の景公の姉と婚姻する。
※その前に夏姫のこと。
起源前580年頃、斉国にとんでもない妖艶の美女、王妃「夏姫」がいた。王とも家老とも関係して、王が「太子は家老の顔に似ているな」と争いが起き、王は暗殺される。夏姫は楚の荘王が暗殺した家老を成敗、荘王が側室にしようとすると、側近が「道義に反するからダメです」
次に子反という側近が「私が側室にしたいので、私にください」と言ったのだが、楚の荘王の縁戚の申公が、 「夏姫は多くの男を不幸に陥れたのだ、よしなさい」 結局、この申公が夏姫を連れて夜逃げして晋に(晋の機密を持って)亡命。夏姫を嫁にした。
閑話休題(元の話に戻る)
趙朔 ちょうさくの父、趙 盾(ちょうとん)は、生前、夢を見た。
「趙家の先祖が、趙 盾(ちょうとん)の腰にしがみついて大声で泣き、やがて笑い出して手を叩いて歌った」
いぶかしんで、どういう意味なのだろうかと、亀甲占いをしてみると、「家は断絶するが、末は吉」と出た。史官に相談すると
「大変、不吉です。これは、あなたのことでは、子孫の運命なのです。趙家は、一代一代と衰えるかもしれない」
趙 盾(ちょうとん)が亡くなり、趙朔 ちょうさくの時代になった時、王は景公。
景公の司寇(法務大臣)は屠岸賈(とがんこ)という人物だった。
屠岸賈(とがんこ)はクーデターを企図する。
まず趙朔 ちょうさくを消すため、
「趙朔 ちょうさくの亡き父趙 盾(ちょうとん)こそが、先代の王、霊公を殺したのだ、王殺しの子を未だに重職につけておくのはおかしい」と言い立てた。
韓厥が趙朔を弁護して「霊公が殺された時、趙 盾は城外にいたではないか。趙 盾の責任ではない」
趙朔 ちょうさく「韓厥かんけつ殿、あなたが、私を弔ってくれるだけで満足です」と言って、趙朔 ちょうさくは、処刑された。
趙朔の妻は王族の成公の姉であり、妊娠していて、宮廷から逃げて隠れた。
趙朔には、友人、程嬰(ていえい)がおり、配下に公孫杵臼(こうそんしょきゅう)がいた。
程嬰(ていえい)「趙朔殿の遺児が生まれてきて、もし男の子なら、私が育てる。
死ぬなら、その後でいい」
こどもが生まれると、屠岸賈(とがんこ)は、こどもを殺すために邸中を捜索した。
公孫杵臼(こうそんしょきゅう)「程嬰(ていえい)よ、死ぬことと、こどもを育てるのとどちらが難しいか?」
程嬰(ていえい)「こどもを育てるのが難しい」
公孫杵臼(こうそんしょきゅう)「では、私はその易しいほうの死を選ぼう。程嬰(ていえい)殿は、こどもを育てるがよろしい」
こういって、ふたりは、計画して、公孫杵臼(こうそんしょきゅう)が、他人の嬰児をもらってきて、立派な襁褓をまとわせて、山にひそんだ。
そのうえで、程嬰(ていえい)が、
「わしは愚か者だ、趙氏の遺児を育てようと思ったが、やはり無理だ。
だれか私に千金の銭をくれないか。趙氏の遺児の居所を教えるから」
と言った。
将軍たちは喜び勇んで、公孫杵臼(こうそんしょきゅう)と趙氏の遺児(実は偽者の子)の下に押し寄せた。
公孫杵臼(こうそんしょきゅう)は、「程嬰(ていえい)の野郎、裏切ったな、最低の野郎だ、許さん」と言って、殺された。
その後、程嬰(ていえい)が趙氏の遺児を育て、15歳になった。
その頃、晋の景公が病気になり、伏せって占いをすると、
「趙氏の祖先の大業という者の子孫が不遇にあり、これが祟りをしている」ということになった。
韓厥かんけつが、「趙大業の子孫で祭祀が絶えているといえば、趙朔のことではありますまいか」と言った。
景公は「趙氏には血筋の者はいるのか?」と聞いた。
程嬰(ていえい)が趙氏の遺児を育てたことを知った景公は、趙武を宮中によび、趙氏の遺児を殺した将軍たちに見せた。
将軍たちは、保身のために慌てて、
「屠岸賈(とがんこ)が企んだことで、我々は騙されたのです」と言った。
将軍と程嬰(ていえい)と趙氏の遺児は、屠岸賈(とがんこ)を討った。
程嬰(ていえい)は、公孫杵臼(こうそんしょきゅう)に報告しなければならないと立ち去った。
この逸話は、その後、脚色されて元や南宋で劇化され、フランスのヴォルテールも脚色した。