ラディカル・フェミニズムとは

ラディカル・フェミニズムにとって、性による抑圧は、あらゆる抑圧の中でも(すなわち、人種、階級等による抑圧よりも何よりも)最も根源的、第一義的、普遍的である。ラディカル・フェミニズムは、性による抑圧の分析において、マルクス主義の「階級理論」「抑圧理論」に多大な影響を受けている。

しかし、マルクス主義フェミニズムが生産関係、階級関係分析を中核とし、性関係を二次的にしか扱っていないことを批判し、ラディカル・フェミニズムは再生産関係、性関係を分析の中心に据えた。

1960年代に進展した性解放は、個人の自由を求める社会運動の重要な一環を構成し、セクシュアリティを私領域から引き出し政治化した。ラディカル・フェミニズムの古典ケイト・ミレットの『性の政治学』(1970)は、女性の抑圧に家父長制(patriarchy)という表現を与え、性の政治化と女性の抑圧の可視化の面で重要な貢献をした。ミレットは、前述したように、家父長制を、「あらゆる領域で生じている、男による女の支配一般」と定義した(p.25)。つまり、「家父長が、男女を含むその所属員の上に持つ権利と義務」というそれまでの家父長制の用法を変更し、どの時代にも、どの社会にもあった女性抑圧を説明する、

 

 アメリカとイギリス、フランスの学者には、常に「剛毅」とも言えるような「非常な意地」でもって、デカルトの平等は、女を除外しているとか、ルソーの自然権に女性は入っていない、と革命思想に異議を申し立ててきた。

 少しだけ、そこに不満があるのは、いつでも、まず、デカルトがあり、ルソーがあり、マルクスエンゲルスがあったうえで、女性の事をちゃんと視野にいれていないと怒っているので、女性自身が創建を提出することはほとんどない。フーコー、イバンイリイチも、皆、男だ。

 ともあれ、フェミニズムは、ある時点で、マルクス主義を強引に乗り越えた。

 乗り越えた時にはじまったのが、同性愛肯定なのだが、これがあまりにも、理屈が複雑で、説明しがたいので、キリスト教矯風会などの日本のフェミニズムは、大雑把に「性の多様性」の肯定、誰もが「引け目を感じない」社会とせつめいしている。

 

「女のセクシュアリティは自分自身のためではなく男のために構築されている。

男はセクシュアリティを通して女を支配する。

一方、レズビアンフェミニズムは、女性の抑圧の根源を異性愛主義にあると主張した。また、フェミニズムにある異性愛中心主義を批判し、セクシュアリティをめぐる対立はフェミニズムに深刻な分裂の危機をもたらした。ラディカレズビアンズによる「女に同一化する女」は、男を女の抑圧者とし、ヘテロの「女たちは男に自己同一化し、彼を通して生き、彼の自我から自己のアイデンティティ、地位、力、成功を獲得する」のであり、「抑圧者と一対一の関係で我々を縛るヘテロ構造と向き合うことなく女を解放しようとする」ことは幻想であり、男によって与えられるアイデンティティから脱出するためには、女が女と結び付き、我々自身に同一化し、自己およびお互いについての新しい意識を作り出すことこそが中核であると論じた(1973/97,p.156)。

 

お茶の水大ジェンダー研究センター教授のホーン・川島瑤子の論文を読んでいると、非常に感慨深く、福島瑞穂上野千鶴子らの言うことの背景がある程度冊子がつくのだが、痛ましいのは、そういった「女たちの〇〇」に聞き手と参加する女性たちが、ではジェンダー理論、フェミニズム理論の発展史から現在までの状況をわかって、参加しているのか、わからないで右往左往、「性の多様性」の尊重という形でお茶を濁しているのではないかと思えてならないことだ。