2023-01-01から1ヶ月間の記事一覧

China史ノート 1 列伝 2 伍 子胥(ご ししょ)

起源前522年頃、楚の太子、建は、父に追われて鄭国に亡命した。鄭国は歓待したが、建は、晋に行った。 晋王は「建よ、鄭国はおまえを信用している。おまえはもう一度鄭国に行き、鄭国の政策に関与して、わが晋と呼応して動け。晋が鄭国に攻め入れば、鄭国…

China史ノート 1 列伝 管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)

司馬遷は管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)を人間像を比べる形で記述した。 管仲(かん ちゅう)は知恵者で浪費家、晏 嬰(あん えい)は人格者で倹約家と評価した。 しかし、この列伝の魅力は、管仲(かん ちゅう)の友人関係にある。 管仲(かん ち…

China史ノート 1 春秋の晋 6 趙朔 ちょうさく

暴虐の王、晋の霊公から亡命した義人趙 盾(ちょうとん)は、亡命後に、従兄弟が、霊公を殺害したので、戻ってきて、晋を再び支える。 この趙 盾(ちょうとん)の子が趙朔 ちょうさく。 王は代替わりして景公。景公の次が成公。 趙朔 (ちょうさく)は、晋の…

China史ノート 1 春秋の晋 5

紀元前600年、晋の霊公。 重耳が艱難の末、秦の援助を受けて晋の王「文公」になったのだが、高齢のため、在位は9年だった。 文公の跡継ぎ、襄公も即位7年で夭折。 ここで跡継ぎをどうしようかという話になった。 太子の夷皋が幼いので、正卿趙盾は晋国…

中国4千年の歴史のウソ

現在の中国共産党の漢民族のある程度の幸福を実現したのは、日米あってのこと。その決定的な理由。 北京の地、即ちChinaの皇帝の名前は、北条時宗の時代から、代々、 クビライ→チンキム→テムル→カイシャン→アユㇽバルワダ→シデバラ→イェストゴン・テムルであ…

韓国の「日本加害者」論はいつまで続くか

むしろ中国共産党政権・北朝鮮がなくならない限り、続く。 中国、北朝鮮があるからこそ、日米韓国に共産主義思想が絶えない。日米韓には金日成主義研究会があり、中国による南京大虐殺プロパガンダを受け入れるグループがあり、米国ポリコレ派・日本共産党・…

ロシア系米国人ユダヤ大富豪アーマンド・ハマー

レーニンはロシアの製造業生産力が未発達だったため、フォード車、トラクター組み立て工場の建設プラント、アメリカ製医薬品を輸入する必要があった。 ロシア革命当時19歳で、1924年にコロンビア大学医学部を卒業した青年の父親はアメリカの共産主義者…

China史ノート 1 春秋の晋 4

重耳の父、献公の26年、斉の桓公は、覇者の地位にあり、諸侯を大招集する。 周の官名で太宰たいさいは大臣のことだった。 太宰治はこの太宰をペンネームにしたのかもしれない。 周の太宰、孔氏は、晋の献公に「斉の桓公は傲慢な人物だから、あなたは行く必…

China史ノート 1 春秋の晋 3

【唇歯輔車】しんしほしゃ 春秋左氏伝 僖公きこう五年 「唇と歯」「頬骨と下顎」のように、お互いが助け合うことによって成り立つ関係 唇亡歯寒 こちらは春秋左氏伝 哀公8年 「唇くちびる亡ほろびて歯は寒さむし」 史記 唇亡則歯寒 献公の代 史記によると、…

China史ノート 1 春秋の晋 2

驪姫(りき)は、晋の献公の寵姫であった。 最初、側室となったことに怯えていたが、だんだん増長。 ついに、太子を罠にかけて自死に追い込んだ。 「太子さま、殿様はあなたの母上の夢を見ましたよ。 母上の御霊をお祭りしてあげなさい」 と言い、太子が母を…

China史ノート 1 春秋の晋 1

司馬遷は、人間を怨念によって動く者としてとらえた。 周王十代の王が、暴虐であった。 臣下たちはクーデターを起こし、王は逃亡し、大臣たちだけで政治を行って、年号を「共和」とした。 周の十二代の王は愛人の褒姒(ほうじ)を溺愛した。 褒姒(ほうじ)…