China史ノート 1 春秋の晋 4

 重耳の父、献公の26年、斉の桓公は、覇者の地位にあり、諸侯を大招集する。

 周の官名で太宰たいさいは大臣のことだった。

 太宰治はこの太宰をペンネームにしたのかもしれない。

 周の太宰、孔氏は、晋の献公に「斉の桓公は傲慢な人物だから、あなたは行く必要がないのではないか」「それにあなたは十分、軍事力を持っている」

 献公は病気でもあったので、これさいわい、納得して帰国した。

 斉の桓公は、この件で献公に反感を持ち、晋から逃亡した重耳を厚遇することになる。

 献公の病気は悪化し、驪姫の子の奚斉を新たに太子に立てられ、荀息(じゅんそく)将軍が太子奚斉の太傅(たいふ)に任命された。太傅(たいふ)とは太子の教育係

 献公が死去すると、荀息(じゅんそく)将軍は相国(しょうこく)(王の最高位補佐)となった。

 荀息(じゅんそく)は、献公の生前、

「太子を頼む、本当に信用できるか」と言われ、「死者が生き返ったとしても、その時、恥じるようなことは、私はしません」と答えたことから、

 後に。里克ら多くの者が奚斉の擁立に反対し、クーデターを起こした時、劣勢に立った荀息は、「死者が生き返ったとしても、その時、恥じるようなことは、私はしません」と答えたことに殉じてクーデターに敗北し、敗残したと後の世評は伝えることになった。

 まず晋の不幸は、献公の寵愛を受けた驪姫りきが、亡き王妃の息子を陥れ、太子が自決したことから始まる。

 むかし献公が北方民族討伐に行った時、占いをして「歯牙(口舌)が禍を招く」と言われたのだが、後世は、この占いは、驪姫りきのことを言ったのだと評した。

 晋の禍とは、驪姫りきが太子を自決に追い込み、息子を太子にしたこと、

 自決した太子の兄弟らが亡命し、内乱が起こり、驪姫りきと息子は殺され、驪姫りき派が重耳派の里克に殺されるのだが、里克もまた、次の王に自決を強要される。

 秦の人質だった王子が帰国し、恵王になった。

 恵王は、秦に「領土の一部を割譲するから、帰国させてくれ」と言ったのだが、約束を破る。

 史記によると、恵王の代、晋で飢饉が起き、秦に援助を頼んだ。

 秦では王が、宰相百里(ひゃくり けい)に対応を諮問し、(恵王は領土割譲の約束を破ったのだが)「天がくだす禍(飢饉)は、代わる代わる巡って来るものだから、援けるべきです」

 秦は晋の恵王を援けた。

 ところが、秦が飢饉になると、晋の恵王は秦を援けなかった。

 側近が「秦は飢饉のとき、わが晋を援けました。ためらうことはありません」と言ったが、王妃の兄が、

 「秦が晋に攻め込むことをしなかったのは、秦が愚かだからに過ぎない。

天が機会を与えてくださっているのだから、秦をこの際、討伐するべきです」

 晋は秦を攻撃しようとし、かえって秦の猛攻撃を受けて退却、秦は晋の亡命者、重耳を晋の王に立てる決意をした。

 呉越の抗争でも、越王勾践(こうせん)が、忍苦二十年の末に呉に報復した後、呉王夫差と越王勾践との間に同じ状況が生まれた。

 越王勾践は呉王夫差の助命嘆願を受け入れようと思ったが、側近の范蠡はんれいが、

「天は呉を越にたまわったのです。天の意思に逆らってはいけません」と呉王夫差を助けなかった。