China史ノート 1 列伝 管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)
司馬遷は管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)を人間像を比べる形で記述した。
管仲(かん ちゅう)は知恵者で浪費家、晏 嬰(あん えい)は人格者で倹約家と評価した。
しかし、この列伝の魅力は、管仲(かん ちゅう)の友人関係にある。
管仲(かん ちゅう)と晏 嬰(あん えい)が友人だったというのではなく、
管仲(かん ちゅう)には鮑叔という友人がいた。
この鮑叔との友情が生き生きとしている。
「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとして、かえって彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を非難しなかった。
私はが仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。
私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。
公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて殉死できず、辱めを受けた。だが鮑叔は黙っていた。 父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」
鮑叔は、管仲(かん ちゅう)が危機に陥った時、「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高傒の2人で十分です。しかし天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言って、管仲(かん ちゅう)を救った。
鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。
斉の領土を21郷に分けた。
物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農漁民の生活を安定させた。
管仲は「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と言ったとされる。
孔子は『論語』で、管仲は暮らしぶりが贅沢だったと非難したことがある。
世評は鮑叔は人を見る目がある傑物だと讃えた。
管仲は斎の名宰相なのだが、その百年後、晏平仲嬰が現れる。
晏 嬰(あん えいとも言われる。同じく斎の名宰相。
身長は135㎝ほどで低身長ではあった。
管仲は有能、内政外交に成果をあげ、なおかつ豪奢な生活をしたが、晏 嬰(あん えいは、とにかく、質素な暮らしぶりだった。
(国家)を第一に考えて恐れず諫言を行い、人民に絶大な人気を博し、君主は彼の意見を重視した。質素を心がけること極端で、肉が食卓に出ることが稀だった。また狐の毛皮服を、30年も着ていたといわれる。
霊公の王妃は男装趣味があり、町の女性はこれを真似して、男装の女性が流行った。
霊公は禁止しようとして、禁令を出したが、収まらなかった。
晏 嬰は、「牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります」言って王妃の男装を止めさせた。
「牛頭馬肉」が、後に「羊頭狗肉」になった。
ただし、見かけを飾って内実をごまかすことが羊頭狗肉の意味だから、意味は変容している。
司馬遷は晏 嬰を尊敬した。
史記は、徳川家康が駿府の文庫に蔵していた図書に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえるように、史記原書は膨大であり、一般読書人向けの書物として出版されている「史記」に完全版はなく、皆、抄出本のみである。
また、China古代の状況を知るため貴重ではあっても、人間群像を文学的な感銘とともに、受け取るという意味では、一部の抄出本でも十分だともいえる。
全部読まなければ気が済まないとなると、結局積読になってしまい、昧読せずに終わってしまいかねない。
一海知義; 田中謙二 『史記 中国古典選』〈朝日選書〉 全3巻、朝日新聞社、1996年。ISBN 4022590033。
大木康 『司馬遷 現代語訳 史記』〈ちくま新書〉筑摩書房、2011年。抜粋版
小川環樹; 今鷹真; 福島吉彦 『史記列伝』 全5巻、岩波文庫、1975年。ワイド版岩波文庫、2015-2016年
小川環樹; 今鷹真; 福島吉彦 『史記世家』 全3巻、岩波文庫、1980・1984・1991年。
貝塚茂樹; 川勝義雄 『史記列伝』〈中公クラシックス〉 全2巻、中央公論新社、
2001年。抜粋版
のように、多くは抜粋版である。